第25章 平成7年 高速バス東京-八日市場線で現代の古戦場をゆく | ごんたのつれづれ旅日記

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【主な乗り物:東関道高速バス東京-八日市場線】

 

 

東京駅八重洲南口を定刻11時00分に発車した八日市場駅行きの高速バスは、首都高速都心環状線、6号向島線、9号深川線の渋滞をくぐり抜けて、首都高速湾岸線から東関東自動車道を驀進している。

 

右手を並走する京葉線の高架を電車が行き交い、海側にある葛西臨海公園や東京ディズニーランドの他は、倉庫や工場が建ち並ぶ無機質な景観が車窓を占めている。

一方で、荒川、旧江戸川、江戸川、船橋付近の埋立地を隔てる入江や花見川など、河口付近を渡る長大な橋梁も多く、こんもりと緑の木々を繁らせる緑地も少なくない。

所々に桜の木立ちが混じっている。

東京では、満開を少し過ぎた時期だった。

ぼんやりと窓外を過ぎ去る景色に目を遣りながら、このバスが向かっている八日市場で、桜はどうなっているのだろう、と、だんだん楽しみになって来た。

東京よりも盛りは遅いのだろうか、それとも温暖な地域であるから過ぎているかもしれない。

この年の春はろくに花見も出来なかったから、時期がうまく重なっているといいな、と思う。

 

東京と銚子を結ぶ総武本線は何度か行き来したことがあり、九十九里浜の沿岸にある八日市場駅も通過したことがあるはずだが、とんと記憶に残っていない。

地名から推すならば、市が立って近隣の住民が集う賑やかな土地なのだろうが、調べてみると第1次産業が盛んで、隣接する野栄町とともに我が国最大の植木の産地であるという。

渋い土地である。

桜どころか、バスの車窓からは、綺麗に刈り込まれた植木用の苗木棚を幾つも目にすることになるのだろうか。

平成18年に八日市場市と野栄町が合併して匝瑳市となり、難読地名の西の横綱とされる兵庫県宍粟市に対して、東の横綱と言われるようになるのだが、それはこの旅の後の話である。

 

 

地図を見ていて面白いのは八日市場市の中心部の町名で、中心部にはイ、ロ、ハ、ニ、ホとカタカナ1文字が並んでいる。

例えばJR八日市場駅の住所は千葉県八日市場市イ108番地、有形文化財の絹本著色十二天像図が置かれている福禅寺は八日市場市イ2326番地、同じく絹本著色十王図がある西光寺は八日市場市ホ2661番地、と言った具合である。

八日市場の市街地では、昭和初期に合併する前の八日市場村がイになり、富谷村がロ、籠部田村がハ、下富谷村がニの大字名に変更されたのである。

 

イロハを町名として使用するのは千葉県に多く、旭市で「イ、ロ、ハ、ニ」、八街市八街で「い、ろ、は、に、ほ、へ」、香取市佐原で「イ、ロ、ハ、ニ、ホ」、同市篠原で「イ、ロ」、同市昭和町で「い、ろ、は、に」、山武市蓮沼で「イ、ロ、ハ、ニ、ホ」、香取郡東庄町で「い、ろ」などと、平仮名、片仮名の違いはあれど、イロハが多用されている。

石川県でも同様の例があり、金沢市南森本町にイ~カ、能美市寺井町でい~ぬと言ったように、多くの自治体で小字の地番として用いられているらしい。

 

 

イロハを用いる例として知られているのは、江戸の町火消しが「い組」「ろ組」「は組」と48の組名乗りを創設したことであろうか。

ただし、「へ」は「屁」に通じて語呂が悪く、「ら」は「魔羅」を連想させて忌み言葉に通じるとされ、ましてや「ひ」に至っては「火」に通じるので論外とされて「百」「千」「万」といった文字に置き換えられ、「ん組」に相当する48番目の組は「本組」と称したという。

 

ちなみに、「ん」については、「……なのです」を「……なんです」、「僕のうち」を「僕んち」、「たまらない」を 「たまんない」と表現するなど、僕らの会話に無くてはならない文字であるにも関わらず、正式にはイロハどころか五十音にも含まれていないものと定義され、東北弁の相づちである「んだ」などといった僅かな例外を除けば、「ん」で始まる単語が存在しないことなど、何かと迫害されている。

「ん」という文字が広く使われるようになったのは室町時代とされ、例えば「古事記」、「日本書紀」、「万葉集」には「ん」を表記する文字は見当たらず、古代の日本語に「ん」はなかったと推定されている。

 

古くは東京にもイロハの地名があり、夏目漱石の小説「三四郎」には「西片町十番地への三号」という地名が見られ、実際の夏目漱石の住所も西片町十番地ろの七号であった。

千葉県でも、明治期から字にイロハが使われていた銚子市と鋸南町では、昭和になって漢字の地名に変更されたという。

 

地名としてのイロハは、味気ない数字の番地より面白いと思うけれども、実際に使う地元の人々にとってはなかなか難儀なものらしく、「ロ」を漢字の口に間違われたり、「ニ」と数字のニ、「ハ」と数字の八が混同されたりすることも少なくないと聞く。

手紙やメールなどはまだしも、電話など口頭の会話で、

 

「お宅の住所を教えて下さい」

「西片町十番地、への3号、です」

「ヘ……どのような字を書くのでしょうか」

 

などと遣り取りが交わされている様子を想像するのは、なかなか楽しい。

 

色は匂へど 散りぬるを

我が世誰ぞ 常ならむ

有為の奥山 今日越えて

浅き夢見じ 酔ひもせず

 

仮名を重複させずに詠み込んだ47字の「イロハ歌」は、七五調の韻文となっていて、これを創った人物は何という頭の良さか、と僕は感心してしまう。

確かにこの中に「ん」はなく、なくてもかつての日本語は成り立っていたのかと感心するが、同時に、昔は「ん」の部分を「む」で表現していたのだな、と思う。

 

我が国の法令や公文書でも、箇条書きに振る記号としてイロハが使われ、音楽でも、イタリアの「Do Re Mi Fa Sol La Si」を英語では「CDEFGAB」、そして日本では「ハニホヘトイロ」と改め、例えば、ドを主音とする長調「C major」を我が国では「ハ長調」と呼ぶ。

ハ長調などは僕もよく使う符号でありながら、その起源がイロハだったとは、八日市場の地名の由来を調べて初めて知った。

 

 

東京駅と八日市場を結ぶ高速バス路線は、平成7年3月に開業した。

 

当初は、八日市場駅を6時10分発と7時33分発、東京駅を17時30分発と20時30分発という午前の上り便、午後の下り便だけの控え目なダイヤであった。

東関道を経由する高速バスには、このように、地方から東京を日帰りで往復する需要に配慮したダイヤで登場した路線が多いけれども、東京在住の人間には使いにくい。

 

 

控え目なのは運行本数ばかりではなく、東関道を走る高速バスでは初めて愛称がつけられなかったのは、何故だろう。

東関道の高速バスと言えば、「かしま」号、「いたこ・あそう」号、「はさき」号、「犬吠」号と、地方側の終点の地名を冠するだけという月並みなものばかりだが、無ければ無いで、何となく物足りない。

 

だから食指が動かなかった、という訳ではないけれども、僕がこうして乗りに来たのは、開業から1年も後の平成8年の春で、この時には1日6往復に増便され、午前の下り便と午後の上り便も設けられていた。

東京を昼近くの11時に発つ便を選んだのは、寝坊がしたかったという怠惰な理由では断じてなく、この便が下りの第1便だったからである。

 

 

東関道を走る高速バスに乗るのは、平成3年に開業した東京-銚子・犬吠埼線「犬吠」号以来5年ぶりだったから、何かと新鮮な道行きである。

 

「犬吠」号に乗車した時も、東関道を何処のインターで降りるのだろう、と興味津々だったが、東京-八日市場間高速バスが高速走行を終えたのは、成田の手前の富里ICだった。

バスは料金所を出て直ぐの富里IC交差点を右折して国道409号線に入り、更に国道296号線に左折する。

富里ICの周辺にはラーメン屋やレストラン、車販店やスーパーが建ち並び、「犬吠」号が使う大栄ICよりも賑やかだった。

 

 

国道296号線は、房総半島の根元に広がる下総台地を東西に横断するように船橋と八日市場を結び、富里ICを降りたバスをこのまま九十九里浜まで導いてくれるのはこの道なのか、と早合点してしまう。

 

ところが、バスは富里、七栄の停留所で幾許かの乗客を降ろした後に、七栄東の交差点で県道106号線八日市場佐原線に左折した。

おやおや、何処へ向かうのか、と身を乗り出しているうちに冨里の町並みを抜けて、緩やかな曲線と起伏を描きながら、森林と集落が散在する鄙びた田園の中を進んでいく。

 

長閑である。

この辺りの土壌は、富士山をはじめ箱根山、愛鷹山、浅間山、榛名山、赤城山、男体山など関東平野を取り囲む火山群から降下した噴出物によって形成された、いわゆる関東ローム層の原野であるが、潤いのある車窓風景に火砕物を想起させる荒々しさはない。

一般の作物を育てるには不向きな地質であることから、スイカ栽培が盛んになり、今では熊本県に次ぐ我が国第2位の産地となっているという。

 

 

僕は、このバスを終点まで乗り通すつもりだったので、

 

『次は三里塚公園です。お降りの方は降車ボタンを押して下さい』

 

と、車内に流れた案内放送は聞き流して、気にも留めなかった。

よく聞こえなかったのかもしれない。

桜の盛りは少しばかり過ぎてしまったようで、葉桜の樹々が並ぶ公園の前で客を降ろしたバスは、その先の交差点で、信号待ちのために再び停車した。

角の駐車場で、JRバス関東の路線バスが羽根を休めている。

ここが、かつて出札窓口などを備えた国鉄バス三里塚駅が置かれていた場所だったとは、後に知った。

 

この地を起終点とするバス路線があるのか、何処に行くのだろう、と周りを見回した僕は、信号機に掲げられている標識に、「三里塚」と書かれているのを目にして、思わず居住まいを正した。

ここだったのか、と思う。

 

 

三里塚の周辺は、「諸国ニ牧地ヲ定メ牛馬ヲ放ツヲ令ズ」と「続日本記」に記された牧場が古くから拓かれていた。

佐倉七牧と呼ばれた面積1万7270ha、馬の数が約3000頭に及ぶ江戸幕府直轄牧場の時代を経て、明治期には更に開墾が進められ、放牧を開始した順に字の名が付けられた。

東京-八日市場間高速バスが三里塚の前に停車した七栄の地名も、その名残であると聞く。

明治8年に下総牧羊場と香取種蓄場が開設され、後に宮内省管轄の下総御料牧場と改称されたことで、「競走馬のふるさと」と言われている。

 

高村光太郎は、「春駒」と題する詩で、在りし日の御料牧場の様子を詠んでいる。 

 

三里塚の春は大きいよ。

見果てのつかない御料牧場にうつすり

もうあさ緑の絨毯を敷きつめてしまひ

雨ならけむるし露ならひかるし

明方かけて一面に立てこめる杉の匂に

しつとり掃除の出来た天地ふたつの風景の中へ

春が置くのは生きてゐる本物の春駒だ

すつかり裸の野のけものの清浄さは、野性さは、愛くるしさは

ああ、鬣に毛臭い生き物の香を靡かせて

ただ一心に草を喰ふ

かすむ地平にきらきらするのは

尾を振りみだして又駆ける

あの栗毛の三歳だらう

のびやかな、素直な、うひうひしい

高らかにも荒つぽい

三里塚の春は大きいよ

 

 

コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズの回想」に収められた、競馬に絡む事件を描く「銀星号事件」を読んだ小学生の頃が、僕が競馬の世界に触れた最初だったように記憶している。

この短編の最後の部分で、謎解きを披露したシャーロック・ホームズが、

 

「The next race is beginning and I must place a bet」

 

と言って締めくくる場面がある。

創元推理文庫の阿部知二の訳では、

 

「私は次のレースで少しばかり勝つことにしてまして」

 

と書かれていて、なるほどホームズらしく自信満々だけれど、競馬とは頭の良い人間ならば勝てるものなのか、と子供心に首を傾げたことが、昨日のようである。

 

「銀星号事件」を読み終えた感想が、英国でも競馬は賭け事なのか、と若干興醒めしたこともよく覚えているから、僕も無知な子供だったのだな、と今にして思う。

僕は賭け事に手を出さない人種であるために、どうしても競馬を色眼鏡で見てしまう習癖がある。

競馬発祥の地である英国では、王室や貴族によって競馬が発展した歴史から「Sport of Kings」と呼ばれたことや、明治期に宮内省が御料牧場を設け、今でも天皇杯が開催されるなど、競馬がどの国でも高貴な人々と深く結びついている側面を、幼かった僕は全く知らなかった。

三里塚の住民にとっても、御料牧場を訪れる皇族の方々は、親しみを感じる身近な存在であったと伝えられている。

昭和天皇の御成婚を記念して植えられた竹林や、日本有数の桜並木など、この地は千葉県随一の景勝地でもあったという。

 

 

僕が、学校の図書館にあるシャーロック・ホームズの物語を片っ端から借りて読み耽っていた昭和40年代後半から50年代にかけて、三里塚をはじめ、岩山、多古などといったこの近辺の地名が、ニュースで取り上げられない日はなかった。

当時の三里塚は、我が国のみならず、世界の耳目を集めた騒乱の地だったのである。

 

昭和30年代、ジェット化による航空大量輸送時代の幕開けと高度経済成長によって、我が国の航空需要は急激に増大し、昭和40年代半ばには首都の玄関として国内線と国際線が集中する羽田空港が飽和状態に達すると予測されていた。

当時の土木技術では、現在のように羽田空港を大規模に拡張することは困難とされ、昭和38年に運輸省が作成した新東京国際空港の計画は、4000mの超音速輸送機用主滑走路2本、3600mの横風用済走路1本、2500mの国内線用滑走路2本を備え、敷地面積は約2300haにも及ぶという、350haしかなかった当時の羽田空港はおろか、1100haのロンドンヒースロー空港、1600haのパリオルリー空港、2000haのニューヨークケネディ国際空港といった世界の主要空港と比較しても、先進的な構想であった。

 


建設の候補地として、千葉県の浦安沖、印旛沼、木更津沖、富里村・八街町付近、茨城県霞ヶ浦周辺、谷田部、白井等が挙げられ、航空審議会は富里村付近が最適であると答申、昭和40年に当時の内閣は空港建設地を富里に内定した。

ところが、当時の運輸省が地元住民との話し合いを検討した形跡はなく、抗議の声を上げた千葉県に対して、当時の運輸事務次官は、

 

「運輸省が飛行場を造る時には、上の方で一方的に決めて、農民はそれに従うのが一般的原則である。これまでもこの方式で飛行場を建設してきたのであって、1度も問題になったことはない」

 

と口にしたとの記録が残されている。

地元は政府の決めたことに従えば良い、と言わんばかりの官僚の態度に対して、

 

「地元の調査も挨拶もないうちに、一方的に決められてたまるものか。ここは日本一の農耕地だ。農地は我々の命だ」

 

と、冨里村の住民は激怒し、激しい反対運動が起こる。

 

昭和40年代の富里には、太平洋戦争後に入植した農民も多く、行政が推進していた「シルクコンビナート計画」に応じて養蚕用の桑の栽培を始めたばかりという農家もあり、住宅資金や営農資金の返済が終わって漸く軌道に乗り、長年の労苦の成果が実りつつある時期に当たっていた。

古くから定住していた農民も、戦時中から戦後にかけて食糧不足の東京に農作物を供給し、復興を支えて来たという自負があったと思われる。

新空港の面積は富里村の半分に及び、周辺の開発も合わせると、近代牧畜発祥の地であり、我が国の農場経営のモデルケースと言われた同村が、ほぼ消滅することを意味していた。

 

突然降って湧いた空港建設案に、地元住民は、生活の基盤を奪われる危機感ばかりでなく、自尊心を強く傷つけられたのだろう。

兵役、開拓、空港と国策に翻弄される形となった農民からは、

 

「三度目の赤紙だ」

 

との声まで上がったという。


 

反対運動の激化により計画が頓挫する恐れが出てきたため、国と千葉県の間で水面下の交渉が行われた結果、富里案を縮小し、位置を約4km北東に移動させて、下総御料牧場を建設地に充てる三里塚・芝山地区での建設案が提示された。

 

運輸省が「21世紀にも耐えうる」と自画自賛した富里案に比べれば、大幅に縮小されたとは言え、空港建設用地は成田市、芝山町、大栄町、多古町に跨る1065haという広大さで、御料牧場の面積は空港敷地の4割程度に過ぎず、冨里と同様に地元住民との意見交換も皆無であったため、三里塚・芝山地区の住民は強く反発した。

国家の強固な意志を覆すために、藁をも掴む思いに駆られたのか、地元の空港反対派が、ベトナム反戦運動や日米安保条約反対運動などで反国家権力実力闘争を掲げ、暴力的な武装闘争を厭わない過激な新左翼勢力に加担を依頼したことで、長期に及ぶ泥沼の「三里塚闘争」の幕が開けられてしまう。

御料牧場を通じての、この地と国家との蜜月の歴史を振り返れば、まさに悲劇としか表現の仕様がない。

 

革新政党の支援者や富里の住民が三里塚に駆けつけ、

 

「富里と同じように闘えば、必ず空港を追い払うことが出来る」

「俺らが勝ったんだから、あんたらも勝てる」

 

などと住民を励ました。

 

切迫する航空需要を受けて成田空港の開港を急ぐ政府は、土地の接収についての交渉に応じぬまま、昭和41年7月に「新東京国際空港の位置及び希望について」を閣議決定したが、空港建設用地と騒音地域の大部分を占める成田市と芝山町は、ほぼ反対一色に染まった。

地元住民は富里村と同様に政府と対決することを決意し、富里の反対運動組織や、現地に団結小屋を建てて常駐した革新政党の指導を受けながら、「三里塚芝山連合空港反対同盟」を結成する。

反対同盟の下部組織として少年行動隊・青年行動隊・婦人行動隊・老人行動隊が組織され、反対派の世帯は一家総出で反対運動に臨んだ。

 

反対派住民の中には自民党支持者も多く、同党議員への陳情も行われたが、それらの議員が空港建設賛成の言動を変えることはなかった。

一方で、反対運動の指導に関わっていた革新政党は、反対同盟が昭和42年に「あらゆる民主勢力との共闘」と称して、新左翼党派の受け入れを表明したことで、反対同盟と距離を置く姿勢を見せ始める。

昭和42年10月10日、測量用のクイ打ちのために、空港公団職員らが約1500人もの警視庁・千葉県警察・神奈川県警察の機動隊に守られて建設予定地に現れた際に、反対派は座り込み運動で抵抗したが、共産党の部隊は早々に座り込みをやめて機動隊と反対派住民の衝突を傍観、また「一坪地主」運動などで参加してきた社会党も、反対同盟に断ることなく土地を売却し、反対運動から手を引いてしまう。

 

 

与野党の党利党略に翻弄されながらも、国家権力への対抗手段を模索する反対同盟は、新左翼党派への期待を深めていく。

新左翼運動に懐疑的で、暴力の行使を不安視していた反対派住民も、昭和43年2月と3月に起きた成田市内の空港公団分室における学生集団と機動隊との激しい衝突をきっかけに、抗争力を発揮した学生を歓待する人々が現れ、反対同盟は、武装闘争路線を掲げる中核派・共産同・社青同解放派が主導する三派全学連の全面的な支援を受けることを決定する。

 

反対勢力は、座り込み、空港公団職員から強奪した調査用具の破壊、投石、バリケードの構築、空港関係者宅への嫌がらせなど、ゲリラ的な手段を用いて実力を行使し、対する警察も、参加者の逮捕など、断固とした措置を採るようになった。

実力行使も躊躇わない新左翼党派を受け入れたことにより、政府に武闘路線で対抗することには成功したものの、その方向性に懐疑的な住民も少なからず存在したため、組織に亀裂を生じ、闘争の泥沼化に繋がっていく。

 

 

空港公団は、移転補償費を算出するため、土地の売却に賛成した住民の不動産に対する調査を昭和43年に実施したが、新左翼運動家ばかりではなく、農民が空港公団職員や機動隊に対して角材をふるったり、スクラムを組むなどして抵抗し、デモや乱闘の影響で、賛成派住民の家屋や畑が破壊されてしまうという結果を生む。

昭和44年8月18日に下総御料牧場の閉場式が行われたものの、反対同盟が乱入して会場を破壊した。

 

円満な建設用地の取得は不可能と判断した空港公団は、強制収用により用地を入手する方針を固め、昭和45年に、収用委員会に対する申請に必要な各種調書を作成するために、土地収用法に基づく立入調査を実施、反対派は屎尿や農薬の投擲、投石、鎌や竹槍などを使って激しく抵抗した。

更には、強制収用を妨害するため、空港公団に買収された土地での不法耕作や、賛成派住民の畑から盗んだ農作物の売却で得た資金と、旧御料牧場から盗み出した材木などを使って、砦と呼ばれる団結小屋や地下要塞を構築する。

 

政府は、昭和46年2月に第1次行政代執行を敢行し、反対同盟と作業員・機動隊が衝突する中で、反対派が立てこもる地下壕や放送塔を撤去した。

同年9月に第2次行政代執行が行われ、警察の機動隊と作業員が自宅の庭で農作業をしていた居住者を排除して、住居を撤去したのである。

民家の撤去は、成田空港建設における行政代執行としては最初で最後のことであったが、権力の強制によって生活基盤を奪われることが現実になったものと住民に受け止められた。

 

昭和47年3月、反対同盟は、A滑走路の南端に位置する岩山地区に高さ60mの「岩山大鉄塔」を地元の鳶職の協力で建設し、飛行検査を中止に追い込む。

千葉港から航空燃料を空港に輸送するためのパイプライン建設も、途中経由地での反対運動によって停滞し、代替としての鉄道輸送も自治体との調整が難航したため、A滑走路など空港施設の建設は進んだものの、開港は先延ばしが続いた。

 

昭和52年5月、2100人もの機動隊が岩山鉄塔周辺を制圧し、反対派を排除しつつ鉄塔を根元から切断して撤去した。

 

 

政府は威信をかけて昭和53年3月30日の開港を決定したものの、直前の3月26日に反対派が空港を襲撃、空港管理ビルに突入して管制塔を占拠し設備を破壊したため、開港は延期を余儀なくされた。

同年5月5日に京成電鉄の「スカイライナー」用AE車両が放火される事件が起き、5月19日にも京成本線で同時多発列車妨害事件、運輸省航空局専用ケーブルの切断事件など、闘争は収まる気配を見せずに先鋭化の一途をたどった。

 

機動隊と反対派の大規模な衝突の最中に、反対派の男性が頭にガス弾の直撃を受けて死亡し、1人が自殺、また3名の機動隊員が殺害された東峰十字路事件や、警察官1名が死亡した芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件など、少なからざる犠牲者と負傷者が出たことを考えれば、「三里塚闘争」は、戦後の我が国が経験した一種の内戦だったのだと思う。

 

「空港建設で御料牧場がなくなるって言うんで、ここらの人はみんな気がおかしくなったんだ」

 

と、後に三里塚の住民が語っていることから、私有地の接収を最小限に抑えるための御料牧場の利用も、逆効果であったのかも知れない。

 

 

住民にも僕らの国にも深い傷跡を残したまま、昭和53年5月20日に、成田空港は開港を果たす。

空港建設を促進してきた政府関係者の思いは、運輸大臣が式典で、

 

「難産の子は健やかに育つ」

 

と述べた言葉に凝縮されているのだろう。

 

開港の時点で、未成の二期工事地区内には17戸の反対派農家が残っていた。

今でも用地買収に応じていない農家や地権者が残り、滑走路予定地が分断されていたり、誘導路が不自然に曲がっていることなど、成田空港には、いびつで不完全な箇所が幾つも残されている。


新左翼活動家によるテロ事件も多発し、成田空港が開港した昭和53年から平成29年までの40年で発生した成田関連の事件は511件にものぼり、全国で発生したテロの半分以上を占めた。

それに備えて、成田空港では、異例とも言うべき厳重な警備態勢が必要となった。

我が国の空港としては唯一となる検問が実施され、鉄道ばかりでなく、リムジンバスをはじめとする車での入場も含めて、空港施設への入場者全員に身分証明書の提示が課せられ、機動隊が空港内を巡回するなど、戒厳令空港と呼ばれたのである。

 

一方で、周辺地域には空港関連事業に従事する多くの労働者と家族が流入して、地元住民も経済的に空港へ依存するようになり、自治体も空港によって得られる税収や交付金に頼るようになったため、空港との共存共栄を望む声が多数を占め、反対運動に対する世間の関心が薄れていく中で、反対派は次第に孤立していく。


 
B滑走路の建設予定地とされていた東峰地区の農家や、用地買収に応じていない地権者が現在でも残っており、平成28年の空港用地内の未買収地は、敷地内居住者が2件1.7ha、敷地外居住者4件0.6ha、一般共有地3件0.5ha、一坪共有地2件0.1haの合計2.9haとなっている。
滑走路予定地が分断されていたり、誘導路が不自然に曲がっていることなど、成田空港には、いびつで不完全な箇所が、未だに幾つも残されている。
  


SF作家小松左京氏が昭和42年に著したルポ「日本タイムトラベル」に描かれた、成田空港建設計画が公表された当時に成田市役所を訪れ、同市の総合開発計画を目にした小松氏の述懐が、極めて印象深い。

同行しているのは、建築家黒川紀章氏がモデルの白山喜照氏である。

 

『しかし、それにしても──と、私は、市の南東部に、赤く太い線で描きこまれた、巨大なP型の区域を見つめながら思った。

変貌はなまやさしいものではあるまい。

そして、この穏やかな地方都市の、行政をあずかる人々の上に覆い被さってくる仕事と問題は、これから先、想像を絶する規模となって行くだろう。

組織が膨れ上がり、問題は問題を呼び、そこへ巨大な、そう、かつて山をつかんでそれを移したという伝説の巨人、ダイダラボッチよりも巨大な力が、ある時突然、どっとこののどかな町に覆い被さってくる。

それは、大洪水にも比すべき、何ものをも押し流してしまう抗いがたい変化の奔流なのだ。

私は、既に、かすかに、その時の阿鼻叫喚を聞いたように思った。

土木機械が、大機械化兵団のごとく、野面を圧して押し寄せる。

ダンプが、トラックが、きちがいじみたスピードで突っ走る。

ヘルメットをかぶった人々が──野戦キャンプのごとき急造の小屋で寝起きし、荒々しい機械を使って、荒々しい仕事に従事し、どこか「戦場」のにおいを身につけた男たちがやってくる。

ダイナマイトが地面を揺るがし、杭打ち用のスチームハンマーは、野砲の連続射撃のようなけたたましい響きをたてる。

この闘いに関連する後続部隊が、陸続と乗りこんできて、橋頭堡、キャンプ、酒保、野戦病院、通信部、物資集積所、将校クラブ、娯楽施設といったものを、すさまじい勢いでつくって行く。

山野は日一日と相貌を変え、そして闘いが済んだあと、この地上の様相は一変してしまっているのだ。

破壊ではなく、建設の大戦闘が、この土地を戦場に選んで行われる。

日本が、国際社会で生きのびるための戦争が……。

そして、たとえばカンヌ大会戦に匹敵する大作戦の場に、この地が選ばれたのだ。

闘いではないとはいえ、その予想される変貌の、すさまじい速度と規模の中には、闘いの荒々しさとむごたらしさの影が感じられるのは、どうしようもあるまい。

 

現代は、19世紀末から始まった、どうしようもない「戦争」の世紀である。

そして、その戦争は、人間が自らの手で解放した、巨大な機械力の本質そのものに、その源泉を持っている。

「平和」や「ヒューマニズム」そのものが、この宿命的な「戦争」の内部にあって、その破壊的暴走を微妙に制御する内分泌系にすぎない。

「反戦平和運動」は、実は「戦争」の不可欠の付属物なのだ。

戦争を完全に拒否しようと思ったら、機械全体、この文明全体を拒否し、かつてより高度な文明に追われた、この地の縄文人たちのように、より草深い自然の中へ、次第に退却して行くよりしかたがないだろう。

「完全な拒否」は、進んで敗北し、退却するしかない。

といって、この戦争を「超える」原理は、まだ見つかっていない。

 

「行って見よう、シロちゃん」

 

私は、空港建設予定地の三里塚をさした。

 

「通過するだけでいい。見ておこう。コンクリートの空港ができる前は、ここがいったいどんな所だったか、それを見ておくだけでいい」

 

市の中心部から南西部へ、5、6キロも行った所──そこが問題の空港建設予定地の、三里塚だ。

最初に予定され、猛反対の結果変更された富里村から、東へ6キロほど寄った所である。

未舗装の道路を、埃を巻き上げながら走ると、あたりは次第に林や丘の多い、典型的な下総田園地帯の景観になる。

三里塚は、明治以来、宮内庁御料牧場で有名だった所──もともとこのあたりは、昔から野馬がいた所で、江戸期には、まだ野馬を牧に狩りこんで馴らす、といったことをやっていたらしい。

明治になってから、このあたりを開墾して農地にしようというので、開拓民が投入された。

戦後入植した開拓民もいて、農業の伝統は、従って比較的短い。

 

「空港予定地は、ここから左へ入った所だよ」

 

と、本三里塚の手前で、雑貨屋のおばさんが教えてくれた。

 

「あんたら、建設公団の人かね?だったらやめた方がいいよ。明日また、反対集会があって、だいぶよそからやってくるそうだよ」

 

「大丈夫ですかね」

 

白山喜照は、愛車ムスタングのハンドルを握って、心細そうに本道からそれる、畑の中の道を見やった。

 

「公団職員は、みんな顔写真が手配されているってことだけど──こんな車で入っていって、とっつかまらないかな」

「まあ、われわれはお役人には見えんね」

 

私は肩をたたいて励ました。

 

「せいぜい、思惑買いに来たインチキ不動産の社長と、用心棒兼秘書兼運転手ってとこだな」

「では社長──まさかのことがあったら、家族の補償をよろしくたのンます」

 

車は左に折れた。

折れた途端に、「公団職員立入無用」と書いた、色あせた札が目につく。

1町ごとくらいに、道端にドラム缶がつるされ、そこにも赤い字で「反対」とか、「立入無用」と書いてある。

轍のあとの深くえぐれた、赤土の道を、のろのろ走って行くと、行きかう小型トラックや、道端で農作業をやっている人々が、うさんくさそうに、鋭い眼でムスタングを見つめる。

行くほどに「団結小屋」と書いた小屋が見える。

4000メートル滑走路の北にひっかかるところだ。

さらに行くと、2500メートル滑走路のほとんど半分にひっかかる道に、「団結道路」の札がかかっている。

あちこちに監視用の望楼がくまれ、「反対」とか「闘争」と書かれた旗が、風になびいている。

道の両側は、なだらかな起伏をもった、関東ローム層に腐植土のまざった丘陵だ。

意外に起伏が多い、その丸みを帯びてカーブする斜面に、糸巻手毬の模様のように美しく、畑の縞目が入っている。

水田はほとんどなく、作物は麦と落花生だ。

それは、まことにのどかな、田園風景だった。

畑の中の家々は、まわりに高い生け垣をめぐらし、牧場へと南下する道は両側を美しい丈高い並み木にふちどられている。

遊んでいた頬の赤い少女たちが、派手な車に目を丸くしている。

彼女たちも、「闘争」にかり出されるのだろうか?

美しい牧場の傍に、「現地闘争本部」といかめしい看板のかかった、古びた家屋があって、プラカードや、旗が立てかけてある。

人影はなかった。

 

空港予定地は、南半分に官有地、北方にも県有地があり、そこには問題がなかった。

しかし北方に農地があり、そこの70戸あまりの人々が、断乎反対を叫んでいる。

中には、震災で土地を失い、次に戦災で土地を失い、やっと生活できるようになった現在、また失うのはやりきれない、という人もある、という。

要するに、補償のつり上げをねらっているのだ、とする解釈もあるが、問題は地方の「村落共同体」の生活というものが絡んで極めて微妙だ。

たとえば小学校の問題がある。

また、同じ部落のうち、予定地にかかる家と、かからない家ができると、かかる家は補償がもらえるが、かからない家は補償ももらえず、ただ頭の上と周辺からふりかかる、建設騒ぎ、発着の騒音、目まぐるしい環境変化といった「被害」ばかりをもろに受けなければならない。

それに、せっかくできた、村落共同体の、顔のつながりがまた切れてしまい、落ち着いた環境から、また見ず知らずの、新しい「近所づきあい」をやらねばならない──と、定着的、非流動的な、地方農村生活の細かいひだひだに触れる問題となると、一方から見れば、なんだかんだと理屈をつけてごねる、と見えるかもしれないが、他方にとっては、どの1つをとっても、生身を引き裂かれるような犠牲に思えるであろう。

農村生活は、われわれの想像以上にデリケートで、いかなる「変化」も「被害」の意味を持つ。

農村地帯が取り残されて行くのは、荒っぽい「変化」の時代に適応できないからだ、といって、荒々しい「変化」は、この時代にあって地球全土を覆う、人類文明自体が引き金を引いてしまった宿命の流れであってみれば、時代の変化に適応し、未来の中に生き延びて行こうと、全知全能をあげて「適応」への闘いに心身を砕く者も、変化を災厄と見て、かつてもろもろの災厄に雄々しく挑んだように激しくこれに抵抗する者も、その衝突の中にあらわれるのは、いずれも相互に「被害者」である、という関係だけではないか?

そこに何か──何か、被害を相互に最小限にとどめるような、高次の方策はないのか?

高次の「納得」がなされるような「場」は、ないのだろうか?

 

「ちょいと止めてくれ、シロちゃん」

 

私は緩やかな起伏を持った、美しい森に囲まれた牧場の傍で言った。

 

「よく見ておこうぜ。おそらくわれわれにとっちゃ、この風景も見納めだ」』

 

激化する闘争の舞台となった地元の緊迫感はもとより、空港が出来る前の三里塚の懐かしい原風景には、心が打たれる。

小松氏のような鋭い現状分析と洞察力が、そして個々の生活に気を配る優しい眼差しが、少しでも政治家や官僚にあったならば、と、深く心に刻まれた一節であった。

 


時代が昭和から平成に移り、二期工事を進めたい政府と、反対運動の風化を懸念する反対同盟の間で話し合いの機運が生まれ、「成田空港問題シンポジウム」と「成田空港問題円卓会議」が開催された。

「ボタンのかけ違い」と称して、政府と反対派のすれ違いが繰り返されてきた経緯について議論され、運輸省は、

 

「空港の位置を決める前に、地元のコンセンサスづくりを充分にやらなかったのは私どもの努力不足であり、深く反省している」

「空港づくりを急いだ結果、地域社会に混乱と深い傷を生じさせてしまった」

 

また空港公団からは、

 

「地域のコンセンサスづくりについて二十数年前にもっとやるべきことがあった」

 

と、それぞれ謝罪が表明された。

平成7年に総理大臣も謝罪の意を表し、政府・官僚・空港公団が正式に過去の過ちを認めたのである。

 

現在の成田空港では、国・県・空港周辺自治体・空港会社で構成される四者協議会や、空港対策協議会・騒音対策協議会・自治体連絡協議会など、話し合いと問題解決の仕組みが設けられている。

平成23年には、「三里塚闘争」を後世に伝えるために、新東京国際空港公団を民営化した成田空港会社が「成田空港 空と大地の歴史館」を開館し、社員や国家公務員の研修に組み込まれて、「第2の成田」を作らないための教訓を生かす取り組みが始められた。

このような仕組みは公共事業のモデルケースとされ、全国各地の住民運動の参考事例として、見学に訪れる人も多いと聞く。


 
成田空港建設における政府の失策と、それにより発生した三里塚闘争があまりにも悲惨な結果をもたらしたため、公共事業等を巡る紛争が起きているケースでは、
 
「合意形成の努力をしないまま、力に頼って事業を進めれば、力による抵抗を生む」
「左翼の介入を許すと泥沼になる」
 
という自戒・教訓を込めて、
 
「成田のようにならないようにしよう」
 
が、合言葉になった。
成田空港問題シンポジウムと成田空港問題円卓会議は、公共事業のモデルケースとされ、全国各地の住民運動の参考事例とされ、見学に訪れる人も多い。
 
過ちを認めた政府与党はまだしも、左翼勢力は、三里塚をどのように総括しているのだろうと思う。
推移を見る限り、左翼側も、特に政党は、地域住民にとことん寄り添った訳ではないように思えるのだ。
 
国外でも三里塚闘争は大々的に報道された。
ドイツでは、成田と同時期に計画されたミュンヘンにおける空港建設にあたって、成田空港問題について徹底した分析が重ねられ、バイエルン州政府は20年間に259回に及ぶ公聴会を開催するなど、反対派を充分に説得した上で、フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス空港を開港させたという。


 

成田空港は、高度経済成長を経た我が国の国力の充実と比例して、世界屈指の国際旅客取扱量と、世界一の国際貨物取扱量を誇るアジアの一大交通拠点になった。


開港の翌年には、海外へ向かう日本人の数が前年比14.6%増の403万8298人を記録し、初めて400万人を超えた。

我が国の国際化は大きく進展し、開港から10年目にあたる昭和63年度には、成田空港発着の国際線を利用する日本人旅客数は、1000万人を突破している。

平成14年まで4000mのA滑走路1本しかなかったことなど、数々のハンディを背負いながらも、世界各地から大型機が飛来し、発着枠の配分を待つ航空会社が引きも切らない状態が続いた。

太平洋路線とアジア路線の結節点として、成田をハブ空港にする海外の航空会社も現れ、成田は国際線の拠点として、アジアで中心的な役割を果たしたのである。

 

しかし、近隣諸国を中心に超大型空港の整備が進む昨今、40年以上が経過しても基本計画の完遂すら達成できていない成田空港の国際的な地位は、相対的に低下していく。

今でも成田空港は我が国第1位の国際空港であり、LCCの発達と増大する訪日客の後押しもあって、取扱量は増加傾向を維持しているものの、平成28年の国際線旅客取扱量は、世界で18位に下がっている。

 

歴史の「if」を空想するのは意味がないと言われるけれども、経済的に困難な状況にある今の日本に生きる者としては、どうしても夢想したくなる。

もしも、政府と地域住民が早期に和解し、成田空港がニューヨークJFK空港よりも巨大な規模で開業していたならば、僕らの国の現状は、大きく変わっていたのかもしれない。

悔やむに悔やみきれない「ボタンのかけ違い」であったと思う。

 

成田空港の開港以来、年間100億円近い費用を費やして継続されて来た検問が全面的に終了するのは、この旅の20年後、平成27年3月30日まで待たなければならなかった。

 

 

三里塚の交差点を過ぎると、県道106号線は成田空港の敷地に突き当たる。

右に針路を変えた東京-八日市場間高速バスは、長さ4000mのA滑走路の南を迂回しながら、平坦で広大な農業地帯を走り抜けて行く。

当初の整備計画が未だに達成されていないとは言え、こうして敷地の辺縁に沿って延々と走ってみれば、成田空港は途轍もなく巨大に感じられる。

4000m滑走路とは、開港当時に開発が進められていた超音速旅客機を想定して設計されたと聞いたことがある。

航空機とは、このようにだだっ広い土地を用意しないと成り立たない交通機関なのか、と思う。

 


背の高い有刺鉄線で囲まれた空港の敷地は、鄙びた景観にはそぐわない物々しさを未だに残しているけれど、反対側に目を向ければ、昼下がりの陽光がきらめき、平穏な静寂に支配されて、眠気を誘うような農村風景であった。

それでも、車内に流れる停留所案内の地名を聞けば、東京-八日市場間高速バスの旅は、あたかも古戦場めぐりをしているかのように感じられる。

 

「かすむ地平にきらきらするのは 尾を振りみだして又駆ける あの栗毛の三歳だらう」

 

と高村光太郎が詠んだ三里塚で、今、陽炎に霞む地平にきらきらと陽光を照り返しているのは、駐機場に居並ぶ航空機ばかりであった。

 

 

時折、「ターミナル連絡バス」と車体に書かれたバスとすれ違う。

ターミナルビルは敷地の遥か反対側であるから、このような外れで何を連絡するのか、と首を傾げたくなる。

 

このあたりの地域輸送を担っているのは、国鉄バス時代から運行されているJRバス関東の多古本線である。

多古本線は、JR成田駅から三里塚、航空科学博物館前、多古仲町を経て八日市場駅に至る路線で、僕が三里塚で見掛けたバスもこの路線であった。

成田駅と成田空港第1ターミナル・第2ターミナル、貨物管理ビル前、第7貨物ビルといった空港施設を結んでいる系統もあるから、僕が見かけた「連絡バス」とはそれかもしれない。

また、多古から栗源仲町を経て佐原駅に向かう栗源線や、多古と成東駅、成田駅と松尾駅を結ぶ山武線も運行されていた。

 

我が国最大の国際空港が建設されても、成田市街を除く周辺地域では、空港を大きく迂回する路線バスだけが頼りとなり、最寄りの鉄道駅に出るだけでも時間が掛かる集落が少なからず存在した。

東京-八日市場間高速バスは、不便だった成田空港の南側の地域と首都を直結する画期的な役割を担って登場した、と位置づけられる。

僕が乗ったバスも、大半が途中停留所で降車する乗客で占められて、総武本線の駅が置かれている八日市場まで乗り通す客が少なかったのも、その表れなのだろう。

 

途中停留所で席を立つ乗客を見れば、今の表情は穏やかに見受けられるけれども、四半世紀前の激動の時代をくぐり抜けて来た人々なのかも知れない、と粛然とした気持ちになる。

 

 

平成7年の開業当初は、宮下、三里塚公園、多古、八日市場駅だけに停車していた東京-八日市場間高速バスであるが、僕が乗車した平成8年に富里七栄スクエア、ラディソンホテルといった途中停留所を加えて、終点が八日市場市役所となり、1日6往復に増便されたのは前述した通りである。

平成9年には富里IC、航空博物館、白桝、染井の停留所が加わり、平成10年には一部の便が野栄町にあるのさか望洋荘まで延伸、平成12年には更に1日10往復まで増便されるなど、高速バスによって成田空港周辺地域の利便性が向上したのは、誠に喜ばしい。


$†ごんたのつれづれ旅日記†

航空博物館停留所は、我が国初の航空専門の博物館として平成元年に成田空港の敷地の南側に建設された航空科学博物館の最寄りで、博物館には僕も訪れたことがある。

航空関連の様々な展示物は、乗り物ファンとして時間が経つのを忘れる充実ぶりであったし、広大な成田空港の敷地を見晴るかす、管制塔を模した展望室からの眺めも素晴らしかった。


$†ごんたのつれづれ旅日記†

その日はちょうど離陸コースの真下に当たっていて、飛び立つ飛行機を幾つも見上げることが出来た。

総2階建ての客室を持つ世界一の巨大機であるエアバスA380型機の離陸を、初めて目の当たりにしたのも、その時だった。

 

航空科学博物館の計画は、離農した住民の再就職先としての意味合いも加わっていたという。

「三里塚闘争」の教訓を残すために各種資料を展示した「成田空港 空と大地の歴史館」が建設されたのは、航空科学博物館の隣りであった。

また訪れてみたい施設である。


 

東京-八日市場間高速バスは、平成18年にのさか望洋荘までの運行が廃止されて、同年の合併後に新しい市名となった匝瑳市役所止まりとなる。

平成21年には1日16往復に増便され、うち8往復は三里塚公園止まりになった。

それだけ、富里から三里塚にかけての利用客の比重が高かったのだろう。

平成22年に、三里塚公園止まりの系統を芝山千代田駅まで延長し、匝瑳市役所ヘ向かう便の一部も芝山千代田駅を経由するようになる。

 

芝山千代田駅は、芝山鉄道の終着駅である。

成田空港の建設によって東西の行き来が寸断された地元の救済策として、京成電鉄線の旧成田空港駅(現在の東成田駅)から、空港敷地の地下をくぐって芝山千代田駅まで建設されたのが、芝山鉄道だった。

この鉄道は成田空港会社の子会社で、路線長2.2kmは日本一短い鉄道として知られているが、九十九里浜までの延伸計画があるという。

計画ルートに空港反対派住民が所有する土地が含まれていたため、用地の取得が難航し、半径160mの急曲線で迂回して工事が進められ、芝山鉄道が開業に到ったのは、開港から実に30年近くが経過した平成14年10月だった。

 

救済措置としては実にもどかしいけれども、自治体や地元の鉄道建設促進派の人々と、空港反対派の間で粘り強く交渉が行われた結果であるから、成田空港の教訓がここでも生かされたと見るべきであろう。

 

 

平成16年には、WILLER EXPRESSによって、東京の大崎駅から成田空港を経て芝山町役場まで運行する高速バス「成田シャトル」が開業した。

下総台地の中央に位置する芝山町は、稲作と、スイカや花卉などの畑作を中心とした農業主体の地域だったが、成田空港の用地が少なからず町内を占め、町域の殆どが離着陸する航空機の航路の真下に位置するために、町域の7割が騒音地区に指定されているという。

一方で、3つの工業団地を擁し、空港も含めた税収の増大により、財政的には豊かな自治体として知られている。

成田空港が、この地域を大きく変貌させたことだけは確かなようである。

 

芝山鉄道には、京成電鉄に乗り入れて東京へ直通する列車は運転されていないけれど、東京直行高速バスという救いの手を差し伸べたのが、儲かる路線しか展開しない印象があるツアー高速バスが前身のWILLER EXPRESSとは、僕にとって意外だった。

WILLERもやるじゃないか、と見直したものである。

 

 

東京-八日市場線改め東京-匝瑳線は、平成27年に多古台バスターミナルと航空科学博物館への停車を追加し、航空博物館停留所は岩山と名称が変更された。

航空科学博物館が移転したという記録はなく、この停留所変更の意味がよく分からなかったのだが、調べてみると、かつての航空博物館前停留所である岩山停留所は同博物館の南側にあり、新しい航空科学博物館停留所は北側に置かれている。

「東京行き高速バス乗り場」の看板も掲げられていることから、博物館の敷地内にバスが入るようになった、ということらしい。

 

同時に、1日8往復の芝山千代田駅止まりの系統は多古台バスターミナルと航空科学博物館前止まりとなって、芝山千代田駅への乗り入れはWILLER EXPRESSに一任するかのように、取り止めとなった。

現在でも、東京-匝瑳市役所系統が7往復、多古台バスターミナル系統が8往復、航空科学博物館系統が1往復と、合計1日16往復が運行されている大所帯に育っている。

 

 

下総台地は、意外と起伏に富んでいる。

途切れることなく連なる丘陵をうねうねと縫う車窓が続くうちに、多古の停留所を過ぎたあたりから平地の割合が増え、ふと気づくと、前方には緑の木々に覆われた丘が1つも見えなくなっていた。

多古は、多古米のブランド名で知られる米作地帯で、そう言えば国道の周囲はいつの間にか水田ばかりになっているけれど、とろろの原材料となるヤマノイモの生産高も我が国有数であるという。

急に建物の数が増えて賑々しくなったと思う間もなく、バスは国道126号線との交差点を左に折れて、程なく終点の八日市場駅に到着した。

 

八日市場の中心街は、九十九里平野の山ぎわに広がっている。

古い家並みも散見されたものの、名産である苗木の店があったのかどうか、じっくり眺める暇もない呆気なさだった。

八日市場駅の東隣りは干潟駅で、4年前に「犬吠」号で通過した町であると思えば懐かしくもあるが、このような至近に別の高速バス路線を新設したのか、と驚いてしまう。

 

九十九里浜への旅、という先入観だけを抱いて乗り込んだ東京-八日市場間高速バスであったけれども、東京駅から90.4km、1時間50分の旅は、僕にとって、成田空港を舞台にした重い戦後史を駆け抜ける旅になった。

思わぬ空港見物になったのだから儲けものではないか、と軽く考えようとしても、どうも上手く行かない。

車窓が平和であったことが、せめてもの救いである。

 

バスを降りて、三角屋根を備えた質素な木造駅舎を振り返ると、不意にくらくらと眩暈がした。

それほど疲れてはいないはずだが、と、いささか慌ててしまった。

 

旅先で、その土地の歴史に思いを馳せると、時に、乗り物酔いにも似た、時空間の飛躍に酔うことがある。

タイムトラベルとはこのような感覚なのかも知れない、と突拍子もないことを連想した、昼下がりの八日市場駅前だった。

 

 

 

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