第41章 平成16年 高速バス東京-君津線で我が国の経済を支えた鉄の町へ | ごんたのつれづれ旅日記

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【主な乗り物:高速バス東京-君津線、東京湾フェリー】

 

 

平成12年7月に、東京と君津を結ぶ高速バスが走り始めた。


君津の地名は、首都圏の鉄道をよく利用する人ならば、何処かで耳にしたことがあるのではないだろうか。

JR横須賀線と総武本線を直通する快速電車は、千葉駅から内房線に乗り入れて木更津駅に停車し、次の君津駅を終点としている。

東京に出て来たばかりの頃、紺とベージュのツートンカラー、通称「スカ色」に塗り分けられた113系近郊型電車の行先表示に「君津」と書かれているのを品川駅や東京駅で見掛けて、僕は君津の地名を知った。

内房の中心都市は木更津であると思い込んでいたので、どうして木更津止まりではなく君津まで足を伸ばすのだろう、車両基地でもあるのか、と首を傾げたものだった。

 

上野駅を発つ常磐線の特急「ひたち」に、水戸駅止まりではなく次の勝田駅まで行く列車が多いのは、勝田駅に車庫があるからだと聞いたことがある。

後に勝田駅に停まる高速バスに乗車した時に、留置線に特急用電車が何編成も留置されているのを目にして、なるほど、と頷いたものだった。

 

ところが、君津駅の構内に留置線が何本か敷かれているものの、旅客列車が使うことはなく、横須賀・総武快速線も到着したホームで折り返すだけのようである。

 

 

君津駅で下車したことはないけれども、君津とは気になる名前だった。

記紀に記されている倭武尊の東征で、三浦半島の走水から富津まで東京湾を横断している最中に暴風雨に見舞われ、妃の弟橘姫が海神の怒りを鎮めるために入水し、風雨を治めた一節がある。

弟橘姫の袖が流れ着いた海岸が袖ケ浦であり、倭武尊が哀しみのあまりに「君去らず 袖しが浦に立つ波の その面影をみるぞ悲しき」と詠んだ歌の「君去らず」が、 木更津の由来であることは知っていたが、同じ歌が君津の地名にも繋がったと言われている。

 

同じ歌から別個の地名が生まれた例は珍しいのではないかと思うけれど、内房は倭武尊の伝説ばかりだな、と感じ入ったものだった。

 

 

平成9年12月の東京湾アクアラインの開通に伴って、川崎駅、横浜駅、羽田空港と袖ケ浦・木更津間に高速バスが走り始め、平成14年7月には品川駅と木更津駅を結ぶ高速バスが、平成15年10月には浜松町バスターミナル・東京駅と木更津駅を結ぶ高速路線が運行を開始している。

 

ところが、木更津が東京都内と高速バスで結ばれる2年前に、隣りの君津から東京へ直通する路線が先行していたのである。

平成14年に君津から羽田空港へ直通する高速バスも走り始めているが、リムジンバスならば木更津の方が先輩である。

木更津市の人口は13万人あまり、君津市は9万人で、前者が内房の中心都市という知識に誤りはないようであるが、木更津を差し置いて東京都内直行便が開設されるとは、失礼なことに、僕は君津を見くびっていたのではないか、と思った。

 

 

君津の名を世の中に知らしめているのは、何と言っても、粗鋼生産量が我が国で第2位という日本製鉄君津製鉄所であろう。

ちなみに、粗鋼生産量の首位は年間1000万トンを超える日本製鉄大分製鉄所で、僕は、福岡と大分を結ぶ高速バス「とよのくに」号で、国道10号線を別府湾に沿って南下する途中で遠望したことがある。

 

日本製鉄の前身である日本製鐵は、昭和8年に官営八幡製鐵所を中心とする複数の製鉄業者が合併した半官半民の国策会社だった。

太平洋戦争後に財閥解体で4社に分割されたものの、八幡製鐵と富士製鐵の2社が昭和47年に合併して新日本製鐵が発足、日立製作所を抜き、昭和60年代にトヨタに首位を譲るまで、我が国最大の売上げを誇る製造業者であった。

 

粗鋼生産量が我が国で首位、世界でも第4位となった新日鐵は、国内第5位、世界では第19位の粗鋼生産量を持つ住友金属工業と、平成22年に合併して新日鐵住金となる。

 

 

平成14年に川崎製鉄と日本鋼管が経営統合しJFEスチールが発足して以来、と騒がれたこの大型合併により、ルクセンブルクのアルセロール・ミッタルに次ぐ世界第2位の粗鋼生産量の企業が出現したことになり、平成31年4月に日本製鉄へと社名を変更した。

 

近代社会は、鉄がないと始まらない。

世界に眼を向けると、年間18億トンという粗鋼の総生産量の国別の内訳は、1位が9億トンを産する中国、2位が1億トンのインド、3位が我が日本で生産量1億トン、以下は4位が0.9億トンのアメリカ、5位が0.7億トンの韓国、6位0.7億トンのロシア、7位が0.4億トンのドイツ、8位が0.4億トンのトルコ、9位が0.3億トンのブラジル、10位が0.2億トンのイタリアという順である。

中国の台頭には瞠目させられるが、我が国も製造業の衰退が懸念されている昨今でも、何とか踏ん張っていることが窺える。

 

製鉄会社別の現在の粗鋼生産量を比較すると、1位がアルセロール・ミッタル、2位の座は中国の宝武鋼鉄集団に抜かれたものの、3位が日本製鉄なのである。

4位から10位までに中国のメーカーが5社、韓国が1社、インドが1社を占め、JFEはベスト10から外れた11位である。

日本製鉄もJFEスチールも、そして我が国第3位の神戸製鋼も、かつては製品の高品質と廉価さで欧米を追い落としたものの、今では中国、韓国、インドと言った新興国に地位を脅かされている訳で、まさに歴史は繰り返す、といった観がある。

 

 

我が国の鉄鋼業は、鉄鉱石から鉄を取り出し、最終製品の製造までを行う銑鋼一貫製鉄所が主流であり、日本製鉄が室蘭、鹿島、君津、名古屋、和歌山、呉、八幡、大分の8ヶ所、JFEが千葉、京浜、倉敷、福山の4ヶ所、神戸製鋼が加古川の1ヶ所の計13ヶ所に置かれている。

 

日本初の近代製鉄所は明治13年に操業を開始した釜石製鐵所であり、初めての銑鋼一貫製鉄所は、明治34年操業開始の八幡製鐵所である。

国際競争力を持つ大規模な製鉄所を建設するのは、用地の造成、各種設備の建設ばかりでなく、鉄鉱石を輸入する大型貨物船が入港できる港湾や貨物線、トラックターミナルなどといった石炭や鉄鉱石などの供給手段と製品の物流手段の確立、防災や環境対策、情報・通信インフラストラクチャーの整備、そして従業員の居住地など、都市を丸ごと作り上げるような国家的大事業であり、高度経済成長期までは我が国でも国策として扱われていた。

 

 

君津製鉄所は、昭和40年に操業を開始したので、僕と同い年である。

当時、2万人を超える社員とその家族の大半が、北九州の八幡から君津に移住し、「民族大移動」と呼ばれたという。

社員のために最先端の11階建て高層アパートが建設され、地元の小学校は在校生1400人を超える千葉県一のマンモス校となり、40人中38人が転校生という学級も出現して、君津市内では九州の方言が飛び交い、地元の人々と言葉が通じないという事態になったと聞く。

飲食店の味つけが九州に合わせた薄口になるなど、一挙に高度経済成長期の「鉄鋼日本」を支える企業城下町となった君津の変貌の激しさは、察するに余りある。

当時の君津には町制が敷かれていたが、君津製鉄所からの税収で人口1人当たりの予算が日本一になるほどに潤い、昭和45年に周辺の上総町、小糸町、清和村、小櫃村と合併して君津市が誕生する。

 

製鉄所の存在が経済、環境、福祉、政治、情報などに多大な影響を及ぼすことは、君津市の歩みを振り返るだけでも明らかであり、まさに「鉄は国家なり」なのだと思う。

 

 

我が国の鉄鋼業の歴史は誇らしいと思うけれども、だからと言って、勇んで訪れたくなるような土地ではない。

最近は各種製造業を見学するツアーが盛況らしく、君津製鉄所でもそのような見学客を受け入れているらしいが、僕はそのような趣味は持ち合わせていない。

 

東京湾アクアラインを渡る高速バスや、その前身とも言うべき川崎-木更津航路で何度も訪れた木更津も、観光地とは言い難いけれども、その隣り駅にはなおさら食指が動きにくく、そのうちに品川や東京から木更津に直通高速バスが開業すると、更に後回しになってしまった。

 

 

平成12年に開業した東京と君津を結ぶ高速バス路線は、浜松町バスターミナルを起終点として、東京駅八重洲口前を経由し、君津駅と君津製鉄所を経由して、君津駅の南隣りの青堀駅に向かう。


一方、平成15年に登場した浜松町バスターミナルから東京駅を経て木更津駅に向かう高速路線は、何本かが君津製鉄所を終点としている。

こちらの系統は君津市内には寄らず、それだけ君津製鉄所を行き来する流動が大きいことの表れなのだろう。

 

 

平成16年の真夏の日曜日、僕は浜松町バスターミナルを14時25分に発車する君津行きの高速バスに乗りに出掛けた。

数週間前に品川-木更津線に乗車したばかりであったが、あまりに呆気ない行程に物足りなくなり、もう1度東京湾アクアラインを渡ってみたくなったのである。

 

浜松町を出る時点では閑散としていた車内も、東京駅前の八重洲通りに置かれた停留所で20名ほどが乗り込んで来て、賑やかになった。

東京で遊んだ帰りと覚しき若い女性客が多いけれども、日曜日と言うのに、Yシャツを着込んだ用務客もちらほらと見受けられる。

 

 

製鉄の過程は複雑である。

鉄鉱石、石炭、石灰石といった原材料を製鉄所に付属する港で受け入れ、粉鉱状の鉄鉱石を石灰石と共に焼き固め、2000℃近い高温になっている高炉で鉄鉱石から鉄を取り出す「製銑」を行い、その銑鉄から炭素などの不純物を除去し、必要な合金元素を混ぜる「製鋼」を行う転炉を経て、粗鋼が生産される。

この粗鋼の生産量が、各国や製鉄企業、製鉄所の規模の指標になっている訳である。

「製鋼」は鉄鋼の基本的な性質を決める重要な工程とされ、我が国の製鋼技術は世界のトップクラスであるという。

 

粗鋼を加工しやすいように一定の形に鋳固めて中間製品を作る「鋳造」と、中間製品を最終製品に加工する「圧延」が施されてから出荷にこぎ着けるのだが、ここまでの一連の工程は24時間365日態勢で行われており、日曜日だからといっても、都心から君津製鉄所を行き来する利用客は少なくないのだろう。

 

せせこましい京橋ランプから首都高速都心環状線に入り、浜崎橋JCTで首都高速11号台場線に逸れてレインボーブリッジを渡り、有明JCTで首都高速湾岸線を南に向かう道筋は、東京-館山・安房白浜線「房総なのはな」号や東京-安房鴨川線「アクシー」号で体験済みである。

 

 

房総方面へ行く高速バスは、川崎浮島JCTで東京湾アクアラインに乗り換えてしまうけれども、そのまま首都高速湾岸線を横浜方面へ進めば、東扇島と扇島を通り抜けて鶴見つばさ橋を渡り、大黒埠頭に進んでいく。

木々が繁る緑地が多いものの、延々と続く直線区間にいっさい人家が見当たらない2つの人工島を目の当たりにすれば、何度通っても、日本離れしたその景観に息を呑まされる。


扇島の大半を占めるのが、京浜地区で最大の製鉄所として年間400万トンの粗鋼を生産するJFEスチール東日本製鉄所である。

昭和初期に行われた京浜運河の開削で、浚渫した土砂を投棄して形成された砂州が扇島で、一時は海水浴場も設けられたという。

 

 

昭和33年に建設された日本鋼管京浜製鉄所の原料置き場として整備され、10ヶ所に散在していた同社の製鉄所を統合するために、扇島を拡張する「扇島計画」が持ち上がる。

ここの海域は水深が平均10m、最深部で16mもあり、軟弱な地盤であったことから、富津市にある浅間山から1日あたり10万立方メートルに及ぶ膨大な土砂を運び、軟弱地盤の上に土砂を均等に散布して固める工法が採用された。

工期の縮減や必要な土砂量の削減、環境汚染の防止が図られたことで、当初は5年かかると見積もられていた埋立工事が3年9ヶ月で終了、一連の工事に対して土木学会技術賞が授与されたのである。

総面積6.7平方キロに及ぶ扇島のうち、1.3平方キロが緑化されていることも、首都高速湾岸線の沿道を見れば納得できる。

埋め立てと並行して製鉄所の建設が行われ、昭和51年に第1高炉に火入れが行われ、昭和54年に第2高炉に火が入れられた。

 

東扇島から扇島に渡り、次の鶴見つばさ橋まで約3.5km、車で走れば2~3分程度の距離に過ぎないけれども、坦々とした車窓であるために案外長く感じられるもので、その間に眼に入る両側の土地が全てJFE京浜製鉄所の敷地であることには畏れ入ってしまう。

 

君津製鉄所の敷地面積が約11.73平方キロ、年間粗鋼生産量が802万トンと、いずれもJFE京浜製鉄所の2倍であることから、君津製鉄所が如何に桁外れの規模であるかが判る。

ちなみに、それほど難工事ではなかったという君津製鉄所の埋め立てに要した工事期間も3年程度であることを考えれば、「扇島計画」の技術力と突貫ぶりが際立つというものであろう。

 

高度経済成長期の我が国には、そのような力があったのだな、と思う。

 

 

この日は快晴に恵まれ、アクアトンネルを抜けた先のアクアブリッジからの眺望は素晴らしかった。

陽光が海面を飛び跳ねているような眩さに顔をしかめながらも、右手に君津製鉄所の埋立地が見えないものかと眼を凝らした。

埋立地らしき直線的な海岸と、林立する煙突が霞んでいるあたりが君津製鉄所であろうかと推察する。

 

バスはアクア連絡道の本線料金所の傍らに設けられた木更津金田バスターミナルで数人の客を降ろしてから、丘陵地帯を縫うハイウェイを更に走り続け、木更津JCTで館山自動車道に乗り換えて木更津南ICの1つ先の君津ICで高速を降りた。

平成7年に千葉南ICと木更津南ICの間が部分開通していた館山道が、終点の富津竹岡ICまで全線開通するのは平成19年まで待たなくてはならないが、この旅の前年である平成15年に、木更津南ICと君津ICの間の4.0kmが延伸していたのである。

 

木更津南IC以南を走るのはこの時が初めてであったが、時間的には僅かであっても、鉄道では隣り同士である木更津と君津は、案外離れているように感じられた。

JR内房線でも木更津駅と君津駅は7.0km離れており、同線では最も長い駅間距離なのだという。

両駅の間の海岸に君津製鉄所があるからだ、と早合点しそうであるが、内房線が開業したのは大正7年のことであるから、駅を設ける必要性がないほど人跡稀な土地であったのかもしれない。

だからこそ、広大かつ環境への負荷が大きい製鉄所を建設するに適していたということだろうか。

 

 

君津ICの近くにある君津バスターミナルは、広大な駐車場を備えたホームが設けられ、川崎-木更津線や品川-木更津線が立ち寄った袖ケ浦バスターミナルとそっくりだった。

強いて相違点を探すならば、袖ケ浦は広大な田園地帯の真ん中に建ち、君津はこんもりとした丘陵に接していることであろうか。

 

君津市は、内房海岸では北を木更津市、南を富津市に挟まれて、ごく小さな市のように見えるが、内陸側に懐の深い市域を持ち、東京-安房鴨川線「アクシー」号が経由した上総アークやJR久留里線の沿線、亀山湖も同市に含まれている。

君津製作所の税収が魅力的であったからこそ、昭和45年に広域に及ぶ大型合併が行われたのであろうが、標高379mの白鳥峰、376mの熊野峰、352mの春日峰から成る房総半島で2番目に高い鹿野山も、君津市内にある。

 

 

鹿野山と言えば、現在ではマザー牧場で有名なのだろうが、僕らの世代は、6世紀に聖徳太子が開いたと伝わる鹿野山神野寺を想起するのではないだろうか。

 

昭和54年8月2日に、神野寺境内に設けられていた動物園のベンガルトラ3頭が逃げ、1頭は直後に捕獲されたが、体重約100kg、体長約1.5mのオスとメス1頭ずつが行方不明となった。

寺からの通報を受けた千葉県警は現地対策本部を設置し、警官や消防団、猟友会など500人による捜索を開始、周辺住民には外出禁止令が出されるという騒動に発展する。

メスは4日の朝に発見されて射殺されたが、動物愛護団体などから多数の苦情が殺到し、寺の住職が「時間的に余裕があったのだから射殺しなくてもよかったのではないか」と発言したために猟友会が激怒、捜索が中断してしまう。

8月28日に住民の飼犬が犠牲になっているのが見つかり、射撃技術の優れた警官と猟友会員が捜索を再開、その日のうちに、残りのオスも射殺されたのである。

 

「君津のトラ騒動」と呼ばれるこの事件は全国ニュースになり、僕もテレビや新聞で目にした記憶があるのだが、住職の発言に両親が怒っていたことや、当時は境内に動物園があったとは知らず、虎を飼うとはぶっ飛んだ和尚様だな、と苦笑した記憶がある。

 

君津バスターミナルの次に停車する杢師4丁目バス停の辺りから、君津の市街地が始まる。

杢師は「もくし」と読む難読地名であるが、かつては木師・木工師などとも表記され、文字通り木を加工する職人を指したと言われている。

記紀の時代には、弟橘姫の亡骸を納める櫃を造るための材木を川に流した伝説から小櫃川の名がつけられ、江戸時代にこの近辺が杢師村と呼ばれていたことを考えれば、鉄が木に取って代わる前の時代から、君津には物づくりの伝統があったのかも知れない、と、若干こじつけめいた空想が浮かんでくる。

 

 

浜松町を出てちょうど1時間半、バスが君津市役所を経て君津駅南口に滑り込んだのは定刻15時52分だった。

 

このまま乗り続ければ、君津製鉄所を経て青堀駅まで連れて行って貰えるけれども、僕は迷った挙げ句、真夏の午後の君津駅前に降り立った。

あっけらかんと敷地だけが広く、閑散としている駅前ロータリーは、賑やかな木更津駅前とは対照的である。

 

終点に向かうバスを見送りながら、やっぱり終点まで行けば良かった、と後悔の念が湧いてきたが、僕は上京してからずっと気に掛かっていた君津駅を見たくて、このバスに乗ったのである。

 

 

休日のこの時間ならば駅前の人影が少なくても不思議ではないけれど、君津駅の乗降客数は、この頃から減少し始めていた。

平成6年の1日1万1500人の乗降客数を頂点として漸減傾向が始まり、平成15年には9837人と1万人を割り、平成20年には9383人、平成30年には8251人という結果になっている。

 

大幅に削減されながらも、内房線の特急「さざなみ」が東京-君津間で存続しているにも関わらず、東京と君津を結ぶ高速バスの影響は無視できないだろう。

 

 

一方で、飛ぶ鳥を落とすが如き勢いだった君津市も、平成初頭から人口が減少傾向となっていることから、この地にも容赦のない少子高齢化や過疎の波が襲い掛かってきているのかもしれない。

 

「鉄鋼日本」もかつての勢いを失い、1000億円単位の資金と数年の歳月を要する高炉と転炉を含む製鉄所を新たに建造することは困難になっており、国策として大規模な製鉄所の建設が相次ぐアジア各国の競争力増大が、我が国の鉄鋼業の凋落に拍車を掛けている。

数々の先端技術が投入されて自動化が進む一方で、反比例するように働く人間の数が削られていくのは、鉄鋼業ばかりではなく、どのような業種でも珍しくなくなっている。

 

我が国の鉄鋼製造技術が世界一であり、優秀な人材が少なからず存在しているにも関わらず、時代の進歩が人間を疎外しているかのように見受けられる昨今の趨勢に、僕のような古い人間は、これで良いのか、と危機感を抱いてしまう。

寂しいことだ、と思う。

 

 

眠っているかのような君津駅の佇まいに居たたまれなくなって、僕はそそくさと駅舎の中に足を運んだ。

改札口で壁に掲げられた時刻表を見れば、上りの横須賀線・総武線直通の久里浜行き快速電車は17時30分までなく、千葉行きの普通列車ばかりの時間帯だった。

 

『間もなく、16時04分発の館山行き普通列車が入ります』

 

との案内放送を耳にした僕は、衝動的に、下り線のホームへ歩を進めた。

 

君津から先の内房線は単線になり、列車の運転本数も少ない。

波打ち際に寄り添う家々の屋根越しに、穏やかにたゆたう東京湾を眺めながら、久しぶりにのんびりと汽車旅を味わった。

 

 

16時43分着の浜金谷駅で下車し、金谷港まで黄昏の町なかを歩けば、久里浜港に向かう東京湾フェリーの出港は17時30分である。

 

舷側の柵にもたれて海面に立つ白波を見下ろしながら、この航路に乗るのは何年振りだろう、と思う。

大学生の頃は、講義が終わると品川駅に向かい、京浜急行電鉄の久里浜行き快速特急電車に飛び乗って、連絡バスで久里浜港に移動してから東京湾フェリーの船旅を楽しむ、というささやかな旅を繰り返したものだった。

部活や友人との付き合いがあったから、決して頻度が高かった訳ではない。

それでも数ヶ月に1回程度は出掛けていたので、大学時代を通算すれば数え切れないほどの回数であり、鉄道、バス、フェリーと変化に富んだコースに、それだけの魅力が感じられたのだろう。


社会人になると、気晴らしの手段がバイクや車に変わり、東京湾フェリーに乗る機会は全くなくなってしまったが、この日は、懐かしいルートを無性に再訪したくなった。


 

房総半島から三浦半島へ逆に向かうのは初めてで、馴染みの道筋でもなかなか新鮮に感じられる。

久里浜で京浜急行に乗り継ぎ、その走りっぷりを堪能することも、このコースの見所だった。

首都圏で随一の俊足でならす快速特急が、沿線の風物を吹き飛ばすような勢いで疾走する光景が脳裏に浮かぶ。

学生時代に、このような手軽で贅沢なコースが身近に存在していたことに、感謝すべきだろう。

 

僕が東京湾フェリーを利用するのは、この旅が最後になった。

 

金谷港から久里浜港までは所要35分、快速特急の久里浜駅から品川駅までおよそ1時間である。

連絡バスの乗り換えを挟んでも、午後8時には家に帰り着くことが出来る時間だった。

 

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