自由意思について カルヴァン「キリスト教綱要」 | 渋谷で世界一周

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カルヴァン「キリスト教綱要」より




 人間に自由意思はない。

もし自由意思があるとしたら、悪いことを強制もされていないのに、自主的にするときくらい。



  • 第2章 人間は、現在、自由意志を剥奪されており、かつ悲惨なる隷属に帰せしめられている。

    p31 アウグスティヌス「自由意思を擁護するものは、これを確立するものでなく、むしろかえって、くつがえすものである」

    カルヴァン曰く「人間の力は根こそぎくつがえされて、神の力こそが人間のうちに立てられなければならない」

    哲学者は「理性が意志を統御する」といい、「感性への隷属に身を渡すならばそれによって腐敗させられ、堕落させられて欲望にまで落ちていく」。

    カルヴァン曰く「人間のうちに理性の王国を確立することは困難で、快楽や激情によって揺り動かされる。

    p33カルヴァン「すべての人の判断では、運命は神に願い、知恵は自分自身からとるべきものである」 ※人事を尽くして天命を待つと同じ考え。

    クリュソストモス「我々は我々の分をつくそう。神が残りを満たしてくれるであろう。」

    p36人間は「自由意思」をそなえている、という根本前提が一般民にいたるまで、すべての人々にしみこんでいる。
    しかし、自由意思がなんであるかを定義したものはほとんどない。
    自由意思は、理性と意志の中にあるという。

    p38カルバン
     わたしは、「恩寵が平等に、また無差別に(すべての人に)示されている」とほざいている狂人たちのことをかまってはおられないのである。

    「よき意志は神の御業である」と確認しながら、人間自身が持つ衝動によって意志を求めるとした。

    ロンバルドゥス「人間に自由意思があるといわれるのは、かれが善をも・悪をもひとしく自由に選びとる力があるからではなく、
    悪を強制されてではなしに、自発的に行うからである。」
     カルヴァン曰く「このことはまことに真実である。自発的奴隷。人間に生得的な傾向は自発的に虚偽に傾いている。」※性悪説

    p41「人間の意志は御霊なしでは、束縛者また征服者たる情欲に隷属するがゆえに、自由ではない」と言っている。(アナタシウスへの書簡 第144)

    自由意思はとらわれの状態にあるので、義のために何一つおこなうことができない。」(ポニファキウスに与える書 第2巻 第8章)

    御霊が助けたまい、人間の―それ自身自由でなく神によって自由にせられた―意志が神の義に服従するときである」(ポニファキウスに与える書)

    「人間は創造せられたときには、自由意思の大いなる力を受けていた。しかし罪によってこれを失った」(使徒の言葉についての説教 第3)

    「どうして悲惨な人どもは、自由にされない前から自由意思についてあえて高ぶるのか・・・・、かれらは自由意思という言葉の中に、自由がすでに意味されていることに注意しない。しかし主の御霊のあるところ、そこに自由がある。」コリント3:17

     「かれらが罪の奴隷であるならば、どうして自由意思について誇れることができようか。すなわち、人間は勝利者に隷属するものだからである。
     しかし、もし、かれらが自由にせられたのであれば、どうして自分自身のわざによってであるかのように誇るのであろうか。
     かれらは『わたしなしではあなたがたは何もできない』ヨハネ15:5といいたもうたおかたの奴隷であることを欲しないほど自由なのであろうか。」(霊と儀文について第30章)

    ※イスラム教の神への絶対服従と共通。
    以前、自由とは自分の決めた原則に従うことであって、気の向くままに生きることではないと聞いたことがある。

    p43アウグスティヌスとエウケリウスの言葉は何をいっているのであろうか。そのことばは、「いのちの木」とはキリストのことであって、これに手をさしのべるものは生きる、と解釈され、また、「善悪を知る木」とは意思の決定であり、神の恩寵を退けてこの実を味わうものは死ぬ、と解釈されたのである。(創世記 第1巻)

    カルヴァン
    「己れ自身のわざわいと、乏しさと、裸と、恥との意識にうちのめされ・おびえさせられているものこそが、自己認識において最もよく進歩したものである。」

    あなた自身のうちに安心しておられるほどの、自分自身の力をもっていることは魅力的なことである。けれども、このようなむなしい確信に魅惑されないため、われわれを厳しく打ち据える多くの重々しい(聖書の)御言葉によって、身を守ろう。
    いわく「人に信頼をおき、肉をその腕とするものは呪われよ。」エレミヤ17:5

    すべてこれらの言葉は、次の目標を目指すものである。
    すなわち、わらわれは神のいつくしみをこうむりたいと思うならば
    ―その神は、「高ぶるものをふせぎ、しかし、へりくだるものに恵みを与える」おかたである―
    われわれ自身が力を持っている、という臆見に、たとえどんなにわずかでも依り頼まない、ということである。
     そこで、、この約束をもう一度記憶によびおこそう。
    「わたしはかわいたものに水をそそぎ、干上がったところに流れをみなぎらせよう。」イザヤ44:3
     これらの御言葉は、自らの貧しさの意識によってやつれ衰えるほどのものでなければ、決して神の祝福を受けることが許されないのを証している。

    クリュソストモス「わらわれの哲学の基礎はへりくだりにある」(福音の完全についての説教)
  • 「主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ野を住まいとする。」
     エレミヤのこの言葉の背景には、その当時の歴史や政治があります。南王国ユダが大国バビロニアの力に翻弄されていた時、ユダの国の王はエジプトに頼ろうとしました。他国の政治力や軍事力に頼ろうとする生き方は、預言者の目には「荒地の裸の木」と同等に映ったのでした。そしてそれに対して、ただ神さまに信頼する生き方は、「水のほとりに植えられた木」なのです。
     自分の力で何かを獲得しようとして、平安を失うのか、人間に頼り、この世の力に頼り、無意味な生き方と呼ばれる生き方をするのか、あるいは、神さまが備えてくださる道を信頼して歩み、祝福を受けるのか。わたしたちはどちらの歩みをしようとしているのでしょうか。 
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