親しいきみ、今日は遅くなってしまった。久しぶりの外出はよいのだが、体がふつうじゃないからね。ぼくはここまで書いてきて、やっとというか、やはりぼくの思想の領域に入ってきたことを感じている。形而上的なアンティミスムとぼくは自分でよんでいる。「intimisme」とフランス語で言えば、ボナールやヴィヤールの家庭情景を好んで描く画風という意味をはじめ、いろいろ出てくるはずだが、「親密主義」と訳すのもぴったりしないのは解ってくれると思う。ぼくは、この語で、「人間」と「人間」が真に人間にふさわしく関わり合う在り方を意味しようとしている。だから「主義」とか「論」とかそういうものじゃないんだ。向こうの言葉としては思想の象徴語としてぴったりしているのに、訳語となると不便なものだね。人間的な交わりは決して「孤独」を廃棄しない。「孤独」が深まるほど「交わり」そのものも深まり、親密なものとなる。自分に親密でない者がどうして他者と親密になれようか。そしてこの自他への親密さは、窮極の根底においてぼくの言う「信仰」の境域にもとづいているものだということをぼくは過去から今まで繰り返したしかめてきた。だからこの内面的な魂の「アンティミスム」を、「形而上的」と形容することにしたのだ。ぼくのこの思想は、証明されたり主張されたりするものではなくて、思想そのものの実践によって確認されるもので、この確認はさまざまなかたちの人間的実践によっていくらでも豊かに深まってゆくものなのだ。ぼくがきみに書いている手紙、この実践も、りっぱにそういう思想確認のひとつのあり方になるんだ。これは、自ら実現されることを自らの「証」として欲するような思想なのだ。

 今日は、というか今日も疲れているのでここまでできみに送る。お元気のように。