――― 「僕の美と愛と信仰」 ――― 集合容喙(遠隔人心操作)と強制薬害の重篤な被害者です。自分の本来の魂的生を貫くため、そして集合容喙と強制薬害の事実を証言し国に問題を解明解決させるため、この電子欄を書いています。(パリ大学博士)
彫刻家・高田博厚先生の思想と共に生きる電子欄(ブログ)です〔2014年3月25日開始〕。 自著『形而上的アンティミスム序説 ‐高田博厚による自己愛の存在論‐』(2009)の初志を、集合的容喙(遠隔人心操作)と強制薬害の重篤な被害状態にも拘らず、継続実践します。
拡大・内容
本書は、著者の intimisme métaphysique 〔形而上的アンティミスム〕とよぶ哲学理念の許、彫刻家にして思索家である高田博厚(1900‐1987)の根本思想を初めて本格的に明らかならしめようとする貴重な試みである。その意義は普遍的かつ根源的であり、人間の創造的生の条件が稀な真摯さで反省されている。学問・芸術の魂的原点の確認の為に、また、人生の意味の正面からの示唆を得る為に、
「人間」であろうとする総ての人々に開かれた永続的価値をもつ書である。
revue 「かけがえのないもの」 船より
信仰 「祈り」 魂感 一行詩 きみの翳
信仰:人間の愛 思想は人間自覚である
思想の憲法前文 高田博厚と高橋元吉
マルセル 形而上学日記 ヤスパース ノオト
魂の実証 ―記憶と意志― 序説(高田博厚論)
わたしはかんがえる、ゆえに神を信ず
高田の作品の形而上性 高田先生の言葉
高田先生とマイヨール美術館のこと マイヨールの言葉
「純粋」の直接性と意識性 自分の信にしか神はいない
自己愛と他者愛、そしてイデアとしての神
きみのために 品格 信仰と文化 いのちの二行詩 魂の愛の明晰な力
je suis tout près de Toi Que ce sourire reste en Toi
album 1er album 6e installation d'essai 裕美さん
album cinquième ひとの本質 納得 夜明け Suite
「空」 祈りの世界 誕生日 愛と神 シャルトル聖堂 空
信仰の緊張 「美」の次元 「知性」 平和の行為
彼女のバッハの精神性
きみのショパン、ドビュッシー、ラヴェルを
地中海彫刻の音楽 信仰 一元化 本質
「神」の感得的探求 自己委託・信仰 違う力 人間の力
感覚倫理 自分の魂からの招き
自節紹介 続 II III IV VI( V)
*七生報国の鬼魂となる
必読節:集合容喙関連
かけがえのない身体と神経組織を壊されたうらみは恐ろしいぞ
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〔グーグルでは「高田博厚先生と友と神に ・ 形而上的アンティミスムの思想」から
でも検索できます(「古川正樹」を加えて検索してください)。〕
信じる'23 11.1723:45 友に忠実に '23 02月03日 03:20祈る '22.05月10日 ぼくは信仰を、神を求めている 07月28日聖母信仰の真意 10月21日 *愛は瞬間瞬間のもの12月13日”愛の信仰”'2102月28日音楽は人間への信頼 '2012月08日きみへの愛によってぼくは再び世界に開いた 11月14日ありがとうというべき以上のものが伝わってくる きみの笑顔 11月17日応答(コレスポンダンス) 10月27日一緒になりたい魂を感じさせるひとはきみしかいない 10月04日お誕生日おめでとう 10月11日 10月11日いつもともにいます 2020.1.20 絶対的讃 '2112月07日 16:17⁂何の瞬間のために生きているのか'22 07月05日 23:50※私話 03月21日 23:10秘語 '24 03月04日 23:25 ”魂に時間は無い”03月17日 03:09裕美ちゃんへの感謝とぼくの一貫性23.12月12日 02:07記録 「力」無くば弾かず 愛は愛を信じる 2023年07月26日(水)芸術と信仰 愛の修道院の路 12月17日 22:50記録 目醒める処 ほんとうに忠実があれば信仰のみで充分 (美と愛と信仰) 2022年12月03日(土) 00時00分27秒ぼくも迷子の文化系天使 天使の原理はこの世の者の原理とは違う 12月26日(月) 06時17分記録 逆説的恩寵 きみに祈る 遠くて近い神'22 10月29日 00:00きみに祈る'22 10月25日 22:14 心懸け 10月23日きみは神のところに居るのだから、ぼくがきみを愛するのは神を愛するのと変わらない '21 07月14日✙告白 反省を揚棄 '21 06月18日 ✙独白証言06月11日✙一音に宇宙を感じるように全体を弾くことの別世界性'2111月17日 23:08きみが真剣なひとだから 10月09日 遠くを見よ10月11日 23:52自分への言葉: 課題への思念で自分を整える '20.7月30日 00:23ぼくの祭壇09月04日 18:52ぼくにとって祈るとは 記録 08月09日 04:45祈りとは唯一の愛する存在に面すること 08月09日 01:58 記録 7月24日 14:41 きみにかぎりない「ありがとう」を 07月25日 わたしはいつもあなたの思うところにいます 07月20日 01:52 ぼくはとても寂しかった 07月15日 記録 造形と音楽 行動するもの 07月09日 03:12 音つくりの天才 きみとぼくのこと 07月09日 04:57アルバム「かけがえのないもの」 青空に瞬く星 06月20日 23:15 語らい 6月15日 記録 6月11日 10年の月日を思って 5月22日 呼吸に宇宙を包む演奏5月11日 信頼は主体的なものである5月8日 静かな親しい奇蹟 4月17日 私記録4月21日 語り合い5月4日”amis solitaires ou DIGNITE”4月10日 愛は現前であり、現前に立ち会い得ることである。ゆえに日々の祈禱なのである。 その前ではすべてを措いて立ち帰らなければならない。そこにほんとうに沈潜するために。 愛は現前である 私記 魂に時間は無い 3月17日 *最初にあるものは不変のもの 3月1日 ”ぼくのクレド(信仰条文) ” 02月22日 12:03 (再)*「ママン」の話 「ふだんの生活」と「本当の願いごと」 02月19日こころの祭壇の灯を消さないように 2月4日 ぼくの信仰 1月19日 教養がすべての基本 ” きみの本質への信仰 ” 1月10日 きみと共在しているという超主観的な実感のなかで生きたい裕美ちゃんへ 12月04日 01:52*きみの本質への信仰 2018年11月25日 23:41音楽において直に感じるきみにぼくの永遠の愛を捧げます11. 2無限な時間空間、自分の魂を、弾く こころが鎮まるほどに 10月19日 23:52 ”テオリア(観想) 歴史の意味” 愛の感覚論・過去を大事に10月09日 ぼくの思いを救ってほしい 10月05日 個 08月22日 主よ、ただ信仰と確信だけをあたえてください。 そうすれば、自分のことも愛する者のことも不安でなくなります。 ノヴァーリス尊敬 08月08日 01:31 美しく弾く 愛の修道院の路で 08月12日奥の深い魂 07月29日 01:46 ”dialogue sans titre ** それほどの愛を発するほどにも” 7月23日 小休止 7.14 7月14日 05:02銀河の距離 6月20日 驚嘆 そして愛より尊いものはない 6月14日記録 6月12日 きみの「偉大さ」 6月7日 23:25象徴 奇蹟 5月24日 15:08夫婦 '17. 9. 22 petit dialogue 5. 22”「魂霊」の世界への参入 ” 愛の修道院の本路5月19日 1:52きみを想うことが ぼくにはいちばん創造的なのだ 5月9日 15:03銘記(個) 愛の修道院の路で 05月03日 23:32 愛は、一緒だという想い 4月20日 15:55雨の夕の想い 生そのものへ 生は愛 4月17日 18:42 フランスの聖堂建築のような演奏 04月13日 20:22vie (個) 04月13日 10:33 空の十字架03月31日 01:56*神への呼びかけである祈り 03月29日 00:05裕美ちゃんの十字架の飾り 03月07日 (私) 3月8日 17:05 日記 02月21日 聖・裕美さん 02月19日 02:17愛の修道院の祈り 02月17日 23:59信仰のインスピレーション(個) 02月16日 22:05交心(コミュニオン)としての愛の世界 02月16日 02:52 信仰は自力と他力が音叉の両極となったハーモニーである 02月16日 02:02魂の耽美 02月02日 22:30ぼくのクレド(信仰条文) 01月20日 01:23 2007年ライヴでの裕美さんの演奏の、熟練も気魄も桁違いな素晴らしさは、観なければわからない。技にも表情にも、予想できない感動を覚えます。彼女はほんとうに多様な面があって面食らわせる、内容をぎっしり感じさせるひとだ。演出的表面とはまるでちがう。ぼくの言いたいのは、彼女の弾く全曲の完璧で優美な音色は、すべて、異常な緊張と努力によって創造されていることが、ここから納得される、ということなのだ。 1. 16「堅信」と「覚醒」と「慎み」きみの気持に応えるために 01月17日 23:08きみの気持の声 01月17日 00:17 秘記(覚知) 01月01日 19:12 きみへの愛 IN MY ARMS TONIGHT 12月22日 20:38 故郷性のある演奏 1月5日 この世にきみのピアノのようにきよらかで美しいものをぼくは見いださない。ほんとうに わたしと一緒に生きましょう 溢れ出るきみへの愛 それはぼくの生そのもの全世界を視ても ぼくはきみしか観ていない きみの「思想」 きみの世界を崇拝する '17. 6. 20私記* 12月21日 02:21 熱烈に 11月28日 16:44*神に至る愛 愛の修道院のなかで2017年11月04日 03:56 告白 10月06日 22:47 きみと共にいることは、ぼくがぼくとして在ること 10月06日 03:52 (個人覚書) 10月01日 02:20 事実と信仰 (覚書) 09月28日 19:03 ぼくには 07月27日 23:57愛は発するものであると同時に求めるものである 7月26日 00:16 記録愛の修道院のなかで 06月25日 17:05 記録愛の修道院のなかで 07月19日 14:11 ぼくは、ぼくのなかのきみいがい、もう信じたくない。信じることの前ではすべては無力であり、信じることに合わせるしかない。(7.17)愛は現前である 07月07日 14:22 *日々の誓い 信仰(個人) 非公開 あなたは私だけを信じてちょうだい。私はいつもあなたと一緒よ。 ぼくを知ったいまのきみの表情をみたい。ぼくのなかでしかみられないきみを愛して愛して愛しぬく。ぼくの救いより大事なこと。そこにのみぼくはいる。 ―これがぼくの信仰の生の核心であり自由である。信仰は天のご機嫌とりではない。天に逆らっても自分の本心を敢行することを自分で肯定することを、信仰という。―〔神がどう思うかをぼくは知り得ない。神の意思に基づいて生きるということは、よって、欺瞞である。信仰は、自分の決断と決意に基づいて生きることを敢行しつつ、神に面する態度において絶えず自分を問うことである。信仰内容は、個としての人間の歴史性の集積の深みから生成する。17.6.10〕きみの演奏を聴き きみの魂を愛することは 他のいかなることにも優る私録 Kakegae No Nai Mono 素材にこころを籠める内部の世界に集中せよ内部の世界に集中する、これはまことに「神の召命」なのであり、修道精神の本質である。このゆえに美意識は生の路を宗教的たらしめ、そのかぎりで倫理的たらしめる。倫理とは、生を「愛の修道院の路」たらしめる魂の希求である美意識の、美意識そのものからの自己統制であるほかの意味をもたない。「内部の世界に集中せよ」、この意味するところがぼくはきょう(17.6.9)身に染みて痛切に解った。ぼくの今後のすべての生を支配するだろう。 「神」に導かないのなら芸術にはいかなる真面目な意味も無い。そして芸術の意味を知ったのなら修道士の生を生きざるをえない。このことがいまぼくに真剣な実践として自覚された。 夢想であったものが真剣なものとなった。 愛の定義 3月23日 愛の修道院の路 3月25日書き始めて三年の日 「神」と「愛」”247 自己委託・信仰 '19. 5月24日 言葉を離れて 05月06日ミューズ 満ちた思念 01月11日 人間がなぜ「神」を思念するようになったかを了解する気持だ。「別の世界」である「美」の経験によって。 愛とは、生活すべてが神聖な儀式となることである。おのずから生活が修道院となる。ほんとうの愛 ほんとうの仕事 音楽への感謝 3月31日 21:52きみの 魂の意識を籠める音楽づくりには 聴くたびに尊敬する4月2日(日) 00:08:19自分の過去の思索を担わなければならない。「愛の修道院」のなかに生きながら思索をする。それは「問いの集中」である。この集中がぼくには「祈り」であり「作品の路」である。ぼくはいま 問うものの外部からではなく 問うものの内部から問う境位にある。すべて裕美さんのおかげである。 2016年11月08日(火) 22:31:42永遠というものがあるとしたらそれは「記憶の王国」であり、そこではすべての愛と美の記憶が生命をもって生きており、生の本質と現実そのものであり、そのすべての記憶はその意味と内実をますます深く無限に開示しつづけるような世界である。2017年03月08日(水) 22:52:00無限を知るとは、いのちに共振することである。無限でない いのち はない。支える言葉 2016年11月21日(月) 21:11:56ぼくは人間の本性は愛であると思っている。自分に反さず生きていれば、愛の方向にゆくしかないと思っている。愛のほかに、自分のほかに、なにを得ようとするのであろうか。自分を得ることは世界を得ることではない。愛を得れば世界を捨ててよい。自分は自分にしかない。愛は自分にしかない。生きていれば、「愛の方向にゆくようにできている」。これが運命であり自由である。 愛がなければ愛さないがいゝ 愛さねばならぬといふ愛はない 愛さずにはゐられないといふのが愛だ ―「愛」 『耽視』より―愛とは いまここで一緒に居ること 02月26日 23:39愛の意志は必然 '20. 01月21日 23:39*尊敬・自由・忠実 03月07日 12:32聴く力の飛躍 これほど勇気をあたえてくれるとは… 04月06日 17:57”きみといるのがいちばんいい” 04月07日 01:25祈り 05月01日 23:28きみの演奏が経験させる 完全性の世界の存在 07月27日 01:37✙魂は「美と愛と信仰」である ”*** 魂と意識 自他の幸福…10月05日 01:57これほどの彫刻的な美しさ11月01日 14:58 ぼくの愛と美と信仰 *ヘルダーリン的な愛によせて 12月23日 16:23あらためて解る裕美さんの天才 '2101月04日 23:52有名人ではないきみへの愛 01月08日 00:33灰とダイヤモンド 01月22日 18:45愛をいだいた魂は護らなければならない 02月26日 17:15完璧とはどういうことかを知らせてくれるきみの演奏 2020/11/19きみの演奏の、聴者の理解を超える完璧さ'2103月03日 23:57*きみのインディーズアルバムは永遠です 04月26日 19:30無心の美 05月19日 01:55 裕美ちゃんを大事にするのは ぼくの宗教なのだ07月09日 17:35きみと神 07月27日 03:55観想 '2201月22日 21:01 観想01月24日 18:55⁂ 人間は自分のみに責任がある ぼくの目覚め 愛の定義 02月06日(日) 01:22:07 きみの演奏02月07日 00:03記録 ぼくの目覚め 愛は欠乏ではない02月12日 00:00手紙 04月02日 02:06⁂私記 04月03日 02:07 私話04月04日 21:20”仕事することは生を集中させること きみとぼくだけができる…03月26日 23:11記録 光を通す穿孔 05月28日 00:00記録 音楽は生命だ 05月28日 22:10聖休話 10月03日 04:46記録 お誕生日おめでとう 2022年10月11日 00:00午前零時は神聖な魂の時間帯 10月16日 00:41
真剣なきみの美しさ 美そのものが思想である 02月07日ギリシャやイタリアに行っても きみとの愛をたしかめることしかないだろう 06月04日 17:10自分を自覚的に培った者でなければ きみのほんとうの美しさはわからない 03月25日 00:23芸術創作より尊いものは、愛 03月23日 00:50愛の態度 '19年03月22日 04:21”啓示の音楽 きみはぼくの手本” 12月09日 01:26愛し信じるという力 11月10日 23:41 信頼 11月28日 15:15 人格と信仰 10月21日 20:57 大事なのは感情だけ 10月07日 22:22 魂の境位 10月07日 02:01 ”philosophique” 不動の感想 06月21日 15:21信頼したいひとは実際に信頼できる 05月20日 22:01信頼したい人間を信頼できることこそ幸福 05月19日 19:05記録 05月11日 覚え書き 05月13日 14:46きみは、演奏のなかに時を止めてしまう4月11日 ピアノで復活してください 12月17日 愛おしいきみ 1月25日リルケを読みはじめたら きみのこの写真がぼくのなかにすうっと入ってきたんだ 原初的なきみ といったらいいんだろうか とにかく宇宙なんだ かけがえのない モナリザもかなわない 謎めかしているのではなく ほんとうに存在している きみを感じることにより ぼくもぼく自身に戻ったようだね 感じるとは 見るとは 存在である本質をみることいがいにない最初に感覚ありき そうでないものはすべて自己欺瞞だ ぼくは自分の感じたとおりにきみを尊敬する 天使の健康 09月22日 04:21懺悔し祈りたくなる曲 09月14日 23:50魂の演奏 '2109月11日 02:14記録 変わらないきみとぼく いつも魂を瞑想しよう 3月23日実感 記録 2月26日 私記 4月4日 2:57 格率 2月21日 個人記録 2月20日第31巻 真実のきみを愛する 02月17日 「学問の道」という偏見 沈黙の重み 2月12日 (晴のこころ) きみの存在は永遠です 2月4日 祈る愛 12月20日 きみと共在しているという超主観的な実感のなかで生きたい'21.7.31純一な美しいきみ 感覚的なひびき 12月12日 00:02 個人記録思うことは観ずること、創造すること 12月08日 00:08 参照愛のゆえに最後まで信じる者は救われる 12月6日参照 12月7日きみへの祈り 11月28日 22:52愛であるぼくが 愛であるきみに面している そのほかは いっさい無 音楽は愛である 12月05日 21:22*最真のこころ 11月27日 11:57この開放的な信仰は、裕美ちゃんのこころと繫がっているという実感である。(ぼくはたいへん大事なことを言った。)きみに向くと明るい気持になれる 11月26日 00:03 キリストよりも何よりも ぼくはきみを得たい。きみはぼくのキリストだから。+具体的経験の思想 (欄の第二段階) 11月19日 03:20愛と美と信仰という形而上の主題に集中する 11月18日 16:21個人記録 11月18日 15:06*愛における努力 11月17日 15:52愛情の安定 11月16日 03:52ほんとうの兄弟のようにぼくのこころに住むひと 11月愛とは 11月05日 14:11 恩寵そのものである愛するひととの交流のなかに生きていて、克服すべきものが無い状態である。以前は問題であった物質的なものへの膠着が消えてしまっていて、浮かんでも消える泡でしかなくなっている。存在論的に、愛しか存在しない。あとは妄念である。気づき 11月03日 裕美ちゃん、いま、ぼく、はっきり気づいたの。きみの音楽を聴きながら。 きみを恋し求める気持と、神に祈る気持が、まったく同じだということを。形にすべき真実の選択 11月03日 19:03第二の新生 11月03日 01:33きょう 月と金木犀 10月24日 14:40ぼくがぼく自身であるかぎり、どこかでぼくの名誉は保たれている。これはまったく明瞭なことであるように思われる。”きみとぼくのために書いてゆく” マルセル的感覚 10月22日 01:17無限な時間空間、自分の魂を、弾く こころが鎮まるほどに 10月19日 23:52 裕美ちゃん、2018年のお誕生日、おめでとうございます 10月11日 きょう寝る前の覚書 10月12日 03:33 歴史性・過去 (故郷性 個性と愛と形而上) 10月17日 00:30原石の美しさを大事に10月06日 18:31無条件に命令するもの 09月23日 01:23愛は自分で安定させるもの 09月14日 23:56教えてほしい :詩 09月14日 18:05愛は言葉にするものだ 09月14日 02:10魔彩鏡の「いのちある無限空間」 09月13日 18:46小休止 休日 09月13日 02:01小休止 語らい 09月11日 19:19IN MY … 告白 09月10日 02:23 永遠に はじまったばかりの愛 09月08日 00:23奥の深い魂07月29日 01:46個 08月22日 16:21愛するということ 08月24日 23:39ノヴァーリスの言葉 08月20日 21:56送信記録 個 08月20日 02:50 《現実が心を通すときはじめて現れる真の具体化》 08月19日 23:01愛への組み込み 08月21日 02:02ぼくは知っている 08月13日 22:41 ぼくの心は神の鏡 08月16日 23:38寂しさは恩寵 08月17日 23:25自分の内部の秩序いがいの外部の秩序は、じぶんの思うように作りかえればよい。 8.19 *知性人としての尊厳をもつ 10月07日 19:31「神」は主体性のため 08月22日 01:20自分の定位 「生き」て創造する 08月22日 04:05心の原則 08月23日 18:57*愛と祈りは形而上的な意志として同一 '19 04月02日 23:37記録 6月7日 ”(参照)10月11日生まれ” 07月17日 12:37愛はすべてを許す 08月03日 00:01愛おしく思えるのは相互同意あってこそ 08月10日 05:21祈りは呼ぶこと 08月09日 20:27記 08月25日 精悍 集中 08月28日 「強さ」をだれが理解するか 08月28日 ”Suite 紫のひかり 暖炉(665)” 11月18日 13:23 ほんとうの覚悟とは 08月30日 22:17バッハを凌ぐ魂の深い世界 09月12日 03:25自己の反省 09月12日 02:16ぼくを仕合わせにする行為 10月04日 15:41愛とは 10月04日 22:14最後まで信じる者は救われる 10月12日 23:07”小休止 音つくりの天才 きみとぼくのこと” 10月13日 03:01きみへの感嘆と尊敬の一貫した実感 10月21日 01:35超越であり解脱であるきみのピアノ 10月21日 23:26私記 10月22日 18:52*知と美 10月26日 18:56”きみの本質への信仰” '19年10月28日 01:20”真摯 慈悲 「神の神経」の手” '15'21 03月16日2018年11月25日(日) 03時00分31秒ぼくには、きみの本質を信仰する気持がある。きみは きみの演奏によって自分の魂を直接に証して、経験させてくれるから。 この信仰は、きみの経験させてくれる内的世界の美の実感に支えられた、きみへの純粋な魂的な愛であり、そしてこの魂的愛を核とした、きみの存在全体への包括的愛です。そしてぼくがこの、きみへの、証された美の実感とひとつである愛を信仰としてもつのは、或る、といっても痛切に実感する、親しさと懐かしさがひとつであるような憧れとしてなのです。そこでは、きみにおいてぼくはぼく自身を根源的にとり戻し、同時に、きみの魂とも融合しています。これらはすべてひとつのことなのです。このひとを畏れよ 10月28日 02:132015.9.3 *演奏できみがどれだけ苦心して集中しているか!なのに聴く側がどれほど散漫で注意力が欠けているか、きみが実際に表現しているものがどれだけ深い心情の世界か、そういうことをきみを聴きながら感知するたびにぼくはいつも愕然とします。ぼくはおもうのだけど ほとんどの人はね、いま、きみの居るような世界に住んでいないのです。そうぼくはおもっています。やかましい騒音音楽を聞いている人々が きみの表している世界に沈めるとはぼくはおもっていないのです。きみもやはり、「文化は少数者がつくる」という言葉をぼくに噛みしめさせるひとなのです。純粋さが いかに深い奥のある世界か、きみがぼくに感知させてくれるのはこのことであり、ぼくはきみの「深い純粋さ」の前に頭を垂れます。 きみの演奏で、あふれるような優しさの泉から注意深い知性の配慮努力を通して生みだされないようなものはひとつもありません・・・ きみは、平和に貢献するというよりも、平和が何かをおしえてくれる ひとなのですぼくはもうこの欄に純粋なものしか入れずにきみとだけ語りたい、ぼくを養ってくれた世界を。それがもうずいぶんまえからのぼくの意思でしたね…小休止 語り合い きみの魅力は本物 '19年10月29日 01:33 深い静謐から生まれてくる音楽 10月30日 01:56””album cinquième” この時代のなかでの恩寵”11月01日 02:00心を一つに 11月03日 17:31きみの微笑みの明るい深さ 11月09日 21:11*愛とは、ほかを捨てることを命じる唯一性である'20. 02月23日 00:08*ぼくの最深の思想 03月05日 23:10祈りと音楽 03月09日 00:07路の生んだ表情 03月10日 02:17きみはぼくのなかという安心感 06月23日 23:58満足さえ超えさせるきみの完璧な演奏 09月18日 22:46✙不思議な偶然09月30日 23:42小休止の会話 10月07日 03:45 正統的でありながら個性的10月13日 23:41*”私記”10月22日 01:45✙記録 意識の塵と、純粋ということ 10月25日(日) 17:52きみへ11月15日 23:22かけがえのない存在であること11月17日 23:42完璧とはどういうことかを知らせてくれるきみの演奏(魂の夢と覚醒) 11月19日 22:52””「私」と「私の身体」” マルセルの反省意識”12月01日 14:14✙ぼくときみとは最も理想的な形で結びついている12月01日 21:19”きみのピアノだけが” '2012月13日 03:33 きみの多様な表情の不思議さ 12月13日 17:06小休止 12月15日 01:50人間の最大の幸福は 精神的にしていられるということ12月16日 00:16遠いまなざし 愛という深淵 愛の修道院の路で 12月16日 16:55神がどういうものかをわれわれは知らないように、愛がどういうものかをわれわれは知らない。 ただ愛を生きるのである。いっさいの愛論からの独立12月22日 00:46祈りという充実 12月20日 02:46””おなじ人間だから …””愛の修道院の路で '2101月05日 16:03きみについて02月16日 02:22きみのこと03月08日 22:18*公開に向かない秘密の真面目な会話03月09日 01:18 ぼくにとって大事な私記 03月14日 02:46きみとぼくは期待をうらぎらない04月01日 01:51きみの「BEST+3」04月05日 19:19私記04月06日 23:17”信仰日課”04月07日 15:10きみはぼくの護り神 04月09日 14:39ふしぎだなあ …05月02日 13:50portrait 05月31日 15:08覚え書き06月04日 02:52まず自分が悔い改めること 06月04日 22:01高雅 06月22日23:38表情に内容が溢れている 08月08日 01:53アルバム「君に逢いたくなったら」讃 08月31日 22:57きみの人間性を尊敬しきっている 09月02日 23:11*生活に追われる生ではなく魂の生を 愛の修道院の路で '22 02月14日 01:25自己を諦めない者にしか未来も永遠も神もない02月16日 03:10*自己肯定感をあたえてくれるきみの演奏03月28日 22:58⁂私語 04月09日 23:10⁂私事記録04月25日 22:58遠くて近い神10月27日 01:05
じぶんの嫌なことを一種の修練だと見做してやることは、悪徳の一種である。冷静になるとそれがよく分かる。そういうことは心を濁すだけだということが。
たとえば、「神を求めて」という題で書くことは出来そうだが、その前に自己の全量を求めることがあるべきだと思うぼくは、この題で書くことはしないだろう。それに、神を論じること自体が正当だと思うには、ぼくはあまりにも、沈黙における芸術的創造を通して神の覚知へ向かうという高田さんの姿勢に馴染みすぎている。この欄でも、ことさら神について書いたことはない。それはあまりにもぼくの生と一つだからである。ぼくが書きたいことを書いていれば、それは分かるひとには分かる。そういうものとしてしか神は感得されない。ぼくのいっさいは、神の正しい感得のために捧げられている。しかしあまり神を語らないのもよくないと気づいた。なぜぼくが神を求めるのか。それは高田さんが神を求めるからだ。高田さんも、なぜ人間は神を求めるのか、という問いとともに思索し生きた。ルオーは神への信仰に生きつつ問い、創造した。高田さんの奥様は、ぼくとの電話で、「神はいます」と伝えられた。だからぼくは神を信じている。日本にいるからといって、神を語ることを控えてはならない。それはたとえば教義としての宗派を受け入れることではないのだ。
つき合いの少ないことは恩寵であることが分かってきた。それが、自分自身となってゆく者の本来のあり方である。
初再呈示2020年08月02日(日) 23時55分01秒テーマ:自分に向って精神が健康であることは、身体が健康であることを入れている。 健康は身体から定義できない。精神からのみ定義できる。
2022年12月30日(金) 13時14分25秒テーマ:自分に向って昨年のきょう2021年12月30日(木) 23時17分40秒テーマ:自分に向って一般の人間関係は、かならずどこかで自己を濁らす。 人間関係から自己を洗い浄化する時が必要だ。 それが最も良い閑暇である。 それをもたらすものをもつこと。 「一般の人間関係」は、思わぬところに伏在していることがある。「一般の世界そのもの、そこにつながっている空間・もの」であったりする。それは体感で分かる。そういうものから離れる工夫や処置が必要である。時というのではないが、過ちすら浄化の契機となる。
人気記事ランクイン記事一覧 侮辱の意味 786位 絶えず思惟する 786位 ヤスパース『哲学』III 第四章「暗号文の解読」2 786位 ぼく自身の本の伝道師になる 786位 4.25 786位 ガブリエル・マルセル 形而上的日記 第二部 翻訳3 786位 ”愛と思索” 786位
ぼくの思想の柱は高田博厚だ。あるいは、ぼくがかれに捧げた本だ。この柱を忘れることが最も恥ずべきことであって、この柱のほかのことを知らないで笑われることは、何でもない。その代わり、そのこと—じぶんの無知—を知っているぼくは、謙虚であらねばならない。この柱を肉付けするかたちで、ほかのすべてを我有化してゆく。この決断に至ったからには、明日死んでもかまわない。方向を確立したのだから。もっとも、死ぬわけにはゆかなくなったというのが無論ほんとうだが。
あんまりかんがえないで じぶんの思うように行動してても、それで正解。なさけないなあと思うことがあっても、それはじぶん枠の許容内。それはそれで意味のあることかもしれない。 もっとも、ぼくのことだけれども(ほかの皆が同様にやられては迷惑もいいところ。ぼくはぼくに通用することを書いている)。
公式ジャンル記事ランキング:イラスト・アート・デザイン139位24 4 21公式ジャンル記事ランキング:イラスト・アート・デザイン160位24 1 30公式ジャンル記事ランキング:イラスト・アート・デザイン175位24 3 6(「翻訳2」からのつづき) 一九一九・二・二五。 どのようにして、祈り[invocation]は有効であり得るということが分かるのだろうか?私は、私が先に吟味していた諸問題のためにしたのと同様に、〔この問題に〕取り掛かろう。そして、この〔祈りの〕有効性に異議を唱えようとして、どのような要請に我々は自発的に基づいているのかを、自問しよう。我々は自発的につぎのことを承認している、すなわち、ひとつの呼び掛けは、聞かれるためには、ひとつの(170頁)記号体系を働かさなくてはならない、ということを。さて、人はこう言うだろう、私が昨日熟慮した事例のなかには、単に観念のみが存するのである、すなわち、AがBのことを考えている、ということのみが、と。だが、AのなかにあるBの観念と、Bの存在との間に、ひとつの伝達〈通知〉が実際に成り立ち得るなどとは、思いもよらないことである、と。—— 長い間、ブラッドリーに賛同して私は、このことさえ、すなわち、観念とこの観念の対象との間の伝達不在さえ、否定してしまう状態にあった。現在の私は、自分が間違っていたと思うほうに傾いている。観念が、「の観念」でしかないとき、この観念はおそらく、孤立したものとして、〔つまり〕観念の対象から切り離されたものとして、解されるにちがいない。そしてこのことは、このように解された観念の形而上学的不充分さをはっきりとさせるのに充分ではないかと思われる。だが、問題であるのは、ある存在のために祈って助けを求めることは別のことであり、その存在のことを考えるよりも以上のことであることを、示すことであろう。正確には、ある存在のことを考えるとは、どういうことであろうか? それは、自分の注意を諸々の心像の或る体系の上に集中することであり、その際、この諸心像の体系は、ひとつの際立った心像の周囲にであれ、ひとつの名前の周囲にであれ、結晶しているのである。しかし、これは一般に、問題となっている人物が現前している場合に、その人物が我々にとって「汝」ではなく「彼」である限りにおいて、我々が採用する態度と、全く類似の態度をとることである。反対に、私が祈り求める瞬間から、観念より以上の何かが働き始めるということを、承認しなければならない。だが更に必要なことは、この祈り求めが、敢えて言えば、存在論的な基礎を有していることである。実際には、私は、誰のことでも祈り求めることが出来るわけではなく、《〔祈る〕ふりをする》ことしか出来ない。別言すれば、祈り求めることは、共同体[communauté]が存する処でしか、有効ではあり得ないように思われるのである。 深くて詳らかにし難い意味において、我々は既に一緒に[déjà ensemble]存在することが、必要なのである。多分、我々が与えられた瞬間に実際に一緒だった頃から、この共同体の何か或るものが存し続けているのであるが、このものは依然として甚だしく模糊としていることを私は承知している。つまるところ、認める必要があると思われるのは、場景のためにそうしたように(上述参照)、我々が我々であったようにしているところのこの霊的な統一は、これもまた、時間の一瞬間に繫がれてはいないのだ、ということであり、この霊的統一は、私が自分を、この霊的統一が形成された時に私の精神状態であった精神状態に再び置くや否や、再出現するのだ、ということである(不快な語だが私は他の語を見いださない)。結果として、この実在的な統一によって強くされた[あるいは一層正確には、豊かにされた]祈り求め[invocation]は、私をして他者と真実に心を通わせ合わせる〈交心[communier]させる〉のであり、この他者は単に他者としてではなく、《汝》として捉えられているのである。明らかに非常に特異なことは、他者が、自らに向けられているこの呼び掛けに直接には気づかないことがある、ということである。それでは、どういう意味において、彼に《届く》のだろうか? 心理学で風潮となっている用語が我々に言うのを許すことは、彼の無意識的なものに届くのだ、ということである。だが、この答えそのものは全く何も意味していない。(171頁) 一九一九・二・二六。— 実際、この無意識的なものとは何か? それは、自分が有していることを自分では知らないところの、ある一定数の述語部を所有している限りでの、当の他者である、と人は言うつもりだろうか? そのような解釈は受入れることの出来ないもののように私には思われる。いつものように取りかかろう。或る型の交信を考えよう。Aが一通の手紙をBに書く。Bがその手紙を受けとる。何が起っているか? この手紙は文字通り「受けとられて」いる——正に電報(あるいは無線電信)が「受けとられて」いるという意味で、すなわち、キャッチされているという意味で。この手紙は情報を含むものであることを私は認めており、手紙はBに、Aが病気であったこと、Aは現在回復し、旅行に出ようとしていること、等を知らせるのである。この知らせ[message]によって、どのような意味でBは届かれて〈到達されて〉いるのだろうか? 彼が手紙の内容によって単に情報を与えられるだけで感動させられるのではない限りでは。〔つまり〕彼が彼自身で自分を、Aを仕切りから仕切りへと移動させるカードのように扱うことに制限している限りでは(まさしく、整理カード箱を操作するように)。ここではAは、Bにとって専ら「彼」である。そしてそのこと自体によって 1〈1. 《そのこと自体によって》というのは多分軽率な言い方だろう。〉、B自身が自分にとって可能な限り存在しないのである。〔すなわち〕Bは自分自身にとってひとつの《知》以外のものとしては、〔つまり〕相互に結びつき合う諸概念の集まり以外のものとしては現われないのである。今、私は、この手紙が直接的な感情的価値を持つと想定しよう。《ねえおまえさん、私はもうだめだよ》。直ちにBの態度は変貌する。そして「私たち」という語が唯一、BとAとの間に築かれている人間関係を表現し得るものとなる(関係という用語はそれ自体不正確であり、議論して理解しうるような何ものも無い)。同情、憐憫。これらは、判断や述語づけが不可能であることによって明らかとなるものである。だがBは、同情している限りでは、何であるか? 私が気づくのは、彼が彼自身に明らかとなる、ということである。原理的に、我々自身の感動よりも以上に、我々を不意に捉えるものは何も無い。それは本性からのものであり、私は、或る程度自分自身に無自覚である感情は殆ど義務であるとさえ言える、と思うくらいだ。人のこの知られざるものは、感動の中で告知され、その人の価値を成すものであるが、どんな仕方でも「彼〈それ〉」としては扱われ得ないのである。〔だが〕疑いもなく、祈り求めに近づきやすいのは、「それ」である。そして私は〔ここに〕矛盾をはっきりと[in terminis]見る。だが、このことは、ただ、我々は言葉の彼方へ目を向けなければならないということを証明するだけである。 私はよく分かっているが、人はこう言うだろう、感動させる手紙の場合においては、諸記号は本質的な、不可欠な役割を演じる、と。つまり人は、それら記号が感動を解き放つ、と認めるのであり、それが自然〈当然〉だと思うのである。何故ならそれら記号は《その場で即座に》[≪sur place≫]作用するから、と。しかし、ここで人はおそらく言葉だけに甘んじているのである。じっさいに重要なことは、「彼」から「我々」への移行、すなわち、ひとつの共同体[une communauté]の経験への移行なのである。ところで、この移行は、(172頁)機械的に説明されることを許すものだとは私には思われない。感動は私を場景へと戻らせ、この《隠されていた》私が《登場する》よう強いる。この私は、分類作業や分類の修正作業が問題であった限りでは、《幕の後ろに》留まっていたものなのである。 一九一九・二・二七。— まさしく確かだと私に思えることは、感動させることは登場するよう強いる[forcer à sortir]ことだということである。それは動かすことだ、と私は言おう… 今、どのような意味において、感動の本来的に存在論的な価値について語られ得るのだろうか? 疑いないことは、我々が一般に想像〈空想〉上のものと呼んでいるものは、現実のものと同様な効果があり得るということである。ただ、この区別そのものには、どのような価値があるのだろうか? ひとつの適合の遮断が存する処にしか、感動は存しない(《遮断》あるいは《ひとつの適合している拘束からの解離》)。だが、どうして、この遮断が、私が先に話していたところの、私の《登場〈外部へ出ること〉[sortie]》と一致するのか? そこにはひとつのはっきりしない問題が存する。《私》と、感動のなかで緩んだり途切れたりするそれらの相互適合の結びつきとの間には、どのような関係があるのか? それらの繫がりがこの〔《私》との〕関係を単に覆い隠していただけだと言うことは出来ない。例として、とてもしっかりした感情、ひとりの男が自分の妻にたいして経験する愛着を、挙げよう。彼は突然、自分の妻が彼に不実であることに気づく。このことから、私が〔上で〕話していた断絶〈遮断〉が生じ、〈私〉の「外部表出」[sortie]が生じる。実体論による解釈であれ、厳格な現象論による解釈であれ、そういうすべての解釈は、ここでは不十分なものであり、諸問題を提起することさえ出来ない。愛着においては、〈私〉[le moi]は、おしなべて自分の対象のなかに、あるいはもっと正確には、この対象に関わる諸活動のなかに、喪失されている。このことで私が理解しているのは、愛着はすべての現実的二分割を排除する、ということである。主体は当然、この愛着を意識することが出来、つまり経験する。だが、彼〈主体〉自身(?)とこの愛着との間には、いかなる生ける関係も成り立たず —— そして愛着は、彼の目には、何か生気の無い不活発なものへと転じてゆく傾向があるのである。私自身が私にとって「彼」である限りにおいて、〔つまり〕私が私を知とする限りにおいては、述語と同等のものこそが私のものなのである。ここで、感動は呼び覚ます働き[fonction de rappel]をする:《問題なのは私なのだ。そのことを私は分かっていなかったのだ!》1 〈1. つまり、「私」という観念は曖昧なのである。「私」は、汝—その特殊な場合における—としての私であるか、彼としての私である。〉 感動の根元にある《ああ、まあ!》は、感動が中断するか変形するかするところのものそのものにたいして、過去遡行的〈回顧的〉な明晰さを照射する。感動は、私を徹底して《彼》として扱うことは私には出来ないことを、私に想起させる。あるいはもっと正確には、感動はこの想起そのものである… 一九一九・三・一。— ラベルトニエール神父の試論について。(173頁)《存在を断定する》ということで、あるいは《存在の問題を提起する》ということでさえ、人は何を理解しているのかを、可能なかぎり正確に自問することの必要性。この「存在の問題」は根本において、存在が存するかどうかを自問することに〔本質が〕あり、この自問は、存在とは何であるかを知ることにさえ先立っている。だが、人がこの問いを提起するとき、人は何を言おうとしているのか? 同時代の人々は、この問いをひとつの価値問題へと変換してしまう傾向がある。だがこれは危険なことであると私は思う。ひとつの価値を持つこと—所有すること—は、どういう場合でも〈いずれにせよ〉、「ひとつの価値である」ことと混同されはしない。そして私は、この最後の表現が何かの意味を呈示しているのかどうかを、自問しているのである。根本において、動詞「持つ」[avoir]が表現する諸関係は、まずく定義されてきたと私には思われる。人は言うだろう、「実存する」ということ〈行為〉はひとつの価値を成す、と。だがこのことは正確にされる必要があるだろう。気づかれるべきことは、《「存在」は存するのか?》という形式の許での「存在」の問題の提起は、高度な予めの反省を前提している、ということである。《「存在」は存しない》という断定は何を含意しているのであろうか? 積極的には、「現象しか存しない」ということを。しかしこのことは見かけの上でしか真ではない。というのも、現象が「現象」と貼り札されるのは、適用されることなく表明されるひとつの観念との対立によってでしかないから。 一九一九・三・二。— 私に由来する、他に由来する、これらの表現は何を意味するか? (自動書記〈コックリさん:死者との交信に利用される文字盤〉、夢、創作、等に関して)。 明瞭だと思われるのは、私が収集する情報は、私から区別された源泉を持つ、ということである。この意味では、この情報は他に由来するのである。他方で、私は他者に情報を伝えることができる。つまり《情報の源泉》の働きをすることができるのである。今、私は、見かけ上でしか明瞭ではないこの後者の行為を探究しようと試みているのではない。はっきりしていることは、私は他者にとってしか《情報源》ではないということである。つまり、私が—私自身にとってあるいは誰か他の者にとって—ひとりの他者である限りにおいて、私が他者の本性を帯びている限りにおいて、私は《情報源》である、ということである。私である限りにおいて、私は絶対に情報を提供することはできない。ゆえに、《私》と《他処》の間の対立は、《しかじかの源泉》と《しかじかの他の源泉》の間に存在するであろう対立には少しも似ていないのである。「ある創作が私《に由来する》」と言うことは、いかなる意味も呈示するものではない 1。〈 1. 実際、理解すべきことは、《に由来する》[venir de]とは、私というもの[le moi]が絶対に〔情報の〕源泉ではない限りにおいて、ある源泉に由来する、ということなのであり、「これは私に由来する」と言うことには意味は存しない、ということなのである。〉 人は反論するだろう、私は少なくとも「発明する」ことと「情報を与える」こととを〔いわば〕合法的に対立させることができる、と。だがそれは問題ではない。人は実際、「我々は各自、他処で汲まれた諸情報の一定の貯えを所有しており、この諸情報から諸々の組合せを引き出すのだ」という偽観念から出発する。だが、そのようにして我々によって(?)掘り出されるものが「我々のもの」であることは、可能な限り少ないのである。(174頁) つぎのように言うことは正しいと思われる、すなわち、私が他者たちに対峙することが一つの情報源が他の諸々の情報源に対峙する如くではない程、私は私〔自身〕であり、また、私が自分を私〔自身〕として考えない程、私は自分を一冊の年鑑のように取扱う、と。 何らかのインスピレーション〈思いつき〉に関して、このインスピレーションは私に由来するのか、他処に由来するのか? と人は問う。だがインスピレーションは諸記号の集まりとは比較できない。《この考えは私に由来する》と言うことは、《この考えは誰か或る人に由来するのではない》ということを意味するか、あるいは更に、《この考えは何処からのものかと問うことには、何の意味も無い》ということを意味するのである。このような否定の積極的な反対見解を掘り出さなければならない。 一九一九・三・三。— 私が昨日示そうと試みたことを、私は再び取り上げる。記号によって伝達されるすべてのものは、実を言えば、あるひとつの源泉に由来するのである。私が諸々の信号を受けとると、私は、誰がこれらの信号を発しているか — 何処からこれらの信号は来ているかを、どうしても自問する。ところで、すべての情報は記号を内包している。私はここで、私が情報と呼ぶものの本性を探究しようと試みるのではない(それ〈情報と呼ばれるもの〉は、私を方向づけ、あるいは更に、私の行動と反応の能力を増大させることに定められているところの、何ものかであることを、人は示すことはできるだろう)。疑いを容れないことは、私が或る規定された何者かである限りで、私は情報源の働きを為し得る、ということであり、この限りでの私はひとつの「彼」であって、この彼はひとつの歴史を有し、一種の、自らの意のままになる諸経験の倉庫を有しており、この諸経験の各々はその各々の脈絡から解き離され得るのである。— すなわち、ひじょうに真実らしいことであるが、私が私でない限りで、あるいは一層正確には、「私[je]」でない限りで、私は情報源の働きを為し得るのである(というのも、「私」は、「斯く斯くの者ではない」ということによって私を定義することを、私は示したのであるから)。このゆえに、もし誰かが《誰が彼〈彼女〉にこの情報を与えたのですか?》(パリで最高のホテルの名)と問うならば、私は、《私です》、《その情報は私由来です》、と答えることが出来ようが、ここでの「私」とは、「斯く斯くの者」と等価なものでしかないのである。この情報が何か外部的なもの(正確にすべき)に関わるものであるほど、私は一層容易に質問に答えることが出来るだろう、あるいはもっと言えば、私が知っているもの(私が提供できるもの)と私が知らないもの(私が提供できないもの)との間の区別は一層有効なものであるだろう。しかしまた、その程度に応じて、「私」という言葉がこの言葉の真の本質的な語義で取られることは、それだけないであろう。今、もし、なにかの評価や、なにかの観念〈考え〉が問題であるなら、問いは明瞭な意味を呈示するのを止める。なぜか? 要するに、それについて人が「それは私由来だ」と言うことの出来るところのものは、ある集まり〈集合〉に属するところのものであり、すなわち、「私」ではないところのものであるということなのだ。霊的次元[l’ordre spirituel]において出処の問題が、収集されて整理分類されることの出来るものにしか適用されない、と人は言い得るだろうか。我々が、ある経験や、ある考え、ある閃きに関して、出処問題は呈示されない、と言明するとき、我々は正確には何を言おうとしているのであろうか? 私はここに記しておく:それによって我々が(175頁)我々自身と伝達し合うところの諸手段は、我々に他の者たちと伝達し合うのを許すところの諸手段と、本当に異なるものではない、と。人は私に言うだろう:我々は我々の生について、我々が他の者たちの生について持ち得るところの感情とは、かなり異なった感情を持っている、と。それは確かである。だが、その〔我々の生について持たれる〕感情は、我々自身との交際〈意思伝達〉[communication]ではなく、私が存在様態[manière d’être]と呼ぶところのものなのである。「無意識的なもの」とは、それである——〔それは〕我々における(?)ものであり、そのものと我々は意思伝達し合うのではなく、弁証法的交際を維持するのではない。《我々における》[en nous]とは何を意味するのか? 当然、「私[je]」を容器として扱う誘惑には、抵抗しなければならない。ある種の観念論でさえ、この誘惑に屈しており、物体は精神の内にある、と主張している。物体が精神の内に無いのは、鍵盤が、鍵盤の奏でる音楽の内に無いのと同様である。おそらく、諸々の容器のみが伝達〈交際〉し合うのだろう。我々が互いを、〔情報の〕伝達をする能力のあるものと見做す程度に応じて、我々は自分たちを不可避的に、容器のように扱うのである。気づくべきなのは、Aの意識をBの意識から孤立させる唯心論的原子論が、この必然性から逃れていないことである。だが、認識すべきことは、反対に、AとBは、伝達し合わないものである限りでも、だからといって孤立し合ってはいないということであり、その理由はまさしく、AとBは根拠のある仕方で容器と同一視されることは出来ないからである。我々が伝達行為をし得るのは、我々が相互に孤立している限りにおいてこそなのである。 一九一九・三・五。— 目録という言葉こそは、「私」ではないところのものを、最も良く性格づけるものである。私は、目録の働きを為さない程度に応じてしか、存在しないし — 思惟しないし — そして行為しないのである 1。〈1. 根元的自由の唯一理解可能な概念への移行。〉 観念がそれ自体は出処を持たない、と言うことは、観念がひとつの行動としてしか扱われようがない、と言うことであり、〔つまり〕予め存在する目録のなかに最初には現われていないものとしてしか扱われようがない、と言うことである。他方、すべての観念は、自らを表明した限りにおいては、自らに対応する目録の中に入れられたものとして浮び出る〈姿を現す〉。このこと自体によって、〔すべての〕観念は、真似られ〈模倣され〉、再生されるのである。 目録とは、「彼」である。 一九一九・三・六。— 想起することは、ひとつの目録から汲むことなのか? まず第一に私が記しておくのは、目録というものは、ある他者のために用意された諸々の答えからしか成っていない、ということであり、これらの答えはある他者に、その他者がどんな存在でも、それがたとえ他者である限りの私自身であっても、向けられている、ということである。知ること、それは、この意味において、斯く斯くの操作を遂行している状態にある、ということである(人はここで、歌手の目録、外科医の目録、ある演劇〈劇場〉の目録、あるいは、ある分類諸カードの目録のことを考えることが出来る)。「私は知らない」と言うことは、(176頁)この意味において、「それが私の目録の中に現われない」ということを意味する。ベルクソンにおいて、純粋記憶それ自体は目録を構成する傾向がないかどうか? ということを私は知りたいものだと思う。純粋記憶の全問題はそこにある。 学ぶこと、それは常に、ひとつの装置を組み立てることであり、その〈自分の〉目録を豊富にすることである 2。〈1. 私は、いかにしてひとりの人間〈存在〉が学ぶことが出来るか、そのことを知ろうとする形而上学的問題は、側に置く。これは実のところ、習慣に関するラヴェッソン的問題である。〉 だが、このことは、経験という観念の内容を汲み尽くすには、程遠い。ひとつの経験を持つということにおける最深のものは、学ぶという行為には還元されないのだから。学ぶこと、それは常に、後に来るものを参照することであり、事情が要請するなら一定の操作を遂行する状態に入る〔ことが出来るようになる〕ことである。この〔学ぶという〕ことは、粗雑な空間的想像力のためには、貯蔵するという行為、蓄えをするという行為で、象徴されるものなのである —— 実際には、我々の能動的な諸能力を増大させることが問題となっているのであるが。この意味において、学ぶことは、現在において生きることではなく、むしろ、生きられる現在を捨象することである。(私は、自分がベルクソン的な区別の周囲をうろついていることを、ひじょうによく承知している。この区別を利用しないわけにはゆかない)。このゆえにこそ、学ぶことと楽しむこととの間には、ひじょうに深い差異が存するのである。このことを具体的に明らかにする事どもは容易に見いだされる。すなわち、人は自分の美的享楽を、つぎのように自問して害することがあるのである:《私は、私が観ているものを役に立たせるだろうか? 私はこの作品を〔後で〕識別できるだろうか? どうやって? もし後で人が私にこれこれの質問をするなら、私はそれに答えられるだろうか?》と。苦痛が問題である場合には、これは償われることは、明らかである。あるがままの経験(体験[das Erleben])は、純粋経験としてと同時に機械的能力として、経験自体よりも生き長らえる、と言うべきだろうか? しかし、いかにして、当の経験は、純粋経験である限りで、自らを保存することが出来るのだろうか? 保存という観念は、ここでは意味を引き剝がされるように私には見える(この点については、以前の私の諸反省を参照)。むしろつぎにように言おう:経験は私の存在に合体するのであり、このゆえに私の存在を変形させ、そしてこの意味において、我々の内に生き続けるのだ、と。然り、これはひとつの生ける付着集積現象[accrétion]なのである(例えば聞かれたメロディーであり、我々が再生出来るこのメロディーは、他方では我々の存在を豊かにする傾向があるのである)。更に言うべきであろうか? この付着集積現象は我々の統覚上の総量を増大させに来るのだ、と。つまり、それは、それによって我々が宇宙を評価し、価値づけるところのものなのだ、と。私はこれは確かなことだと思う。だが、この統覚的総量の只中で、この付着集積は、如何にして、それ自体にとっての自己解放と再生成とを為し得るものであり続けるのだろうか? 人には、この付着集積を、他の諸要素と並置される一要素として扱う傾向が、そしてこの要素を(177頁)そのまま全体のなかに再認され得るものとして扱う傾向が、逆らい難くある(a+b=S。ゆえにaは依然としてSのなかにある)。この意味における記憶は、たしかに、存在の一様態である。私は、私が想起するところのものを再び生きる程度に応じて、その、私が想起するところのものである。だが、人はつぎのように言い得るであろうか? 「それ」が存在するのは、私が「それ」ではない程度に応じてである、と。記憶は、再び生きられない限りで、生き延びるのであろうか? 人は言う、《その通り、可能性の状態において》、と。だが私には、人はここで改めて目録の観点に身を置いていると思われる。つまるところ、人はこう考える傾向があるであろう、すなわち、私がたとえば或る状態を再び見いだし得るのは、この状態が私と同様に私と共に持続した場合のみであり、しかもこの状態が私の内に在っても無くてもよい場合のみだ、と。だが、反省するならば、これは私には馬鹿げて見える。《当時》は《当時》のままであり、《今》にはならない。確かに、私の過去に再接合するのは私のほうであって、私の過去が私の後を追って言わば私と合流したのでは全然ないのである。記憶は老化しない。記憶は、本来自分の歳である歳でしかないのである。そうであるなら、ある偶然の事実(プルーストのマドレーヌ菓子の一口)が我々の内に解き放ちに来る経験は、原初的には我々によって生きられた経験と、原理的に同一なのである。その際いかなる仕方でも、この経験が保存されたと言うことは出来ない。というのも、保存されるということなら、老化や変化の仕方もそうなのだから。 私は白状するが、以上すべてのことは私を全然満足させるものではない。そして、この恐るべき問題を何処に持って行ったらいいのか、私は分からない。それでも私は進歩しているという感情を持つ。とてもゆっくりとしたものではあるが、それはほんとうである。私が、私の精神と比較して別の精神の外在性について語る時、私は確かに、我々二人ともを、一致しないけれども互いに補い合う二つの目録として扱っているのである… 私には思われるのだが、習得をするのは常に身体であり、精神はこの調整に応じるだけのことなのである。
公式ジャンル記事ランキング:イラスト・アート・デザイン75位24 4 21〔ヤスパース『哲学』III 第四章「暗号文の解読」1 の続き 〕 したがって、私が暗号文の中に迫り入るのは、研究による洞察や、収集行為と合理的我有化を通してでは、未だないのであって、このような材料と共に初めてではあるが、実存的な生活の運動を通してなのである。第一の言葉の経験は、ただちに、可能的実存が自分自身を投入することを要求するのである。この経験は、手許に運んでくることが出来て誰にでも同一なものとして表示可能であるような経験ではない。というのもこの経験は自由を通して初めて獲得されるのであるから。この経験は、体験のような随意的直接性ではなく、暗号を通しての、存在の反響なのである。 すべてのものが暗号となり得るのなら、暗号である〈暗号存在〉とは、何か任意なことであるように見える。暗号存在は、真理と現実を持つ場合には、検証可能なものであらねばならない。世界定位において私が検証する場合、それは、私が何かを(151頁)知覚可能なものにしたり、論理的に強制的なものにしたりすることを通してであり、私が何かを作り上げて成し遂げることを通してである。実存開明において私が検証する場合、それは、私が私自身および他者とつき合う仕方を通してであり、そのつき合い方において私自身を確信している仕方を通して、つまり私の行いの無制約性を通して、私が飛翔において、愛と憎しみにおいて、自己閉鎖と自己不随意において、内的に経験するところの諸々の運動を通してなのである。しかし、暗号の真理を私は端的に検証することは出来ない。というのも、暗号の真理は、言表されたものとしてはその客観性において一種の遊戯[ein Spiel]だからであり、この遊戯は妥当性へのいかなる要請も為さず、それゆえまた、いかなる正当化も必要としないからである。私自身にとっては、この暗号の真理は、いかなる単なる遊戯でもない。 私が暗号を解読する処では、私は責任を負わされている。何故なら私は暗号を私の自己存在を通してのみ解読するからである。そして私の自己存在の可能性と真実性とは、暗号解読の仕方において私にたいして示されるのである。私は、私の自己存在を通して検証するのであり、そのためにこの〔私の〕自己存在自体よりほかの基準を持つことはない。この自己存在は自らを暗号の超越者に接して認識するのである。 このように、暗号文の解読は、内的行為において遂行される。私は自分を絶えざる没落から救出しようと努め、自分を手中に収め、私から生じる決断を経験する。だがこの自己生成の過程は超越者への傾聴と一つであるのであって、超越者無しにこの過程は存在しないだろう。私の行為において、抵抗、成果、不随意そして喪失において、最後に、これらすべてを掬い上げて再び制約するところの私の思惟において、私は、私がそこにおいて暗号を聴取するところの経験をするのである。生じるところのもの、そしてその生じるところのものにおいて私が為すところのものは、問うことと応答することであるようなものである。私は、私の身に起こることから聴くのであるが、その起こることにたいして私が態度をとることによって聴くのである。私が自分と格闘し、諸事物と格闘することは、超越者を求めるための格闘なのであり、この超越者のみが、此の〔特定の〕内在者において暗号として私に現象するのである。私は、事実的世界経験の感性的現前の中へと、勝つか屈服するかの現実的行動の中へと、押し入ってゆく。なぜなら此処においてのみ、存在するところのものに私が傾聴する領野があるからである。 存在は、万人が知り得るものであろう、と思うことは、愚かなことである。人間たちがそれであったところのもの、彼らが超越者をそういうものとして確信していたところのもの、彼らが超越者で充実させられていた仕方、彼らにとって本来的現実はどのような現実を意味していたかということ、そのために彼らはどのように内面的に生きたかということ、彼らは何を愛したかということ、これらすべては決してひとりの単独的個人が現前的に摑み取り得ることではないであろう。いかなる仕方でも存在は万人にとって〔同等に〕在るようなものではない。自分〔自身〕ではない者にとっては、すべては暗黒なままに留まるのである。 そのようにして私は超越者の暗号文の解読において、私が傾聴するところの存在を摑み取るのであるが、それは私がその存在のために闘うことによってなのである。なるほど私はただ(152頁)超越者の存在の傍らでのみ、本来的存在の意識を持つのであり、ここでのみ、私にとって安らぎはあるのである。しかし、私は絶えず再び闘いの不安静のなかにいるのであり、独り打ち捨てられて失われた如しなのである。私が存在をもはや感知しないならば、私は私自身を失っているのである。 哲学的な実存は、隠れたる神にはけっして直接に近づかないという態度に甘んじる。私が暗号文のために準備している場合に、暗号文のみが語るのである。私は哲学しつつ、私の可能性のために〔自ら〕全力を注ぐことと、私の現実性が〔私に〕贈られることとの間で、浮遊状態にあり続けるのである。それはひとつの交際、私自身と超越者との交際であるが、それがただ稀にのみであるのは、あたかも暗闇の中でひとつの目が光るかのようである。日常的なものは、あたかも無であるかのようである。人間は、自らの不気味な寂寥のゆえに、もっと直接的な接近を、諸々の客観的保証を、確かな支えを求め、祈ることで言わば神の手を摑み取り、権威へと向き直り、神性を人格的形態において見るのである。この人格的形態として神性一般は初めて神なのであるが、その一方で神性は無規定に遠いままなのである。 2.実存的観想。— 哲学的な打ち捨てられた状態において〔も〕、実存的な観想が、絶対的意識に基づいてあり続ける。この観想は祈りではない。祈りはむしろ哲学することの限界であり、哲学的には近づき難く、それゆえ疑わしいものである。しかしこの観想は夢想[Phantasie]として、可能的実存の目なのであり、可能的実存の能動的な闘いに投入されて、路の開明と充実となるのである。 現存在の現実性は、意識一般の内で、世界定位における諸対象へと解消された。それでもやはり夢想は、合理的に解消されてはいない現実性のなかで、そして更に再び、この現実性〔そのもの〕の解消のなかで、存在を観るのである。それは、あたかも事実的な存在が現存在の背後に嵌まっていて、現存在から空想的に推論されるかのようにではなく、存在が夢想にとって、暗号において直観可能な仕方で現前するようなふうに、観られるのである。 私は、存在が何であるか、私がどのように現存在を知るのか、知ることは出来ない。私は、私が現存在の象徴性格を超出しない限りで、現存在を暗号としてただ解読することが出来るだけなのである。私は、現存在を世界定位において諸々の概念を通して認識するが、存在を現存在においてただ夢想を通してのみ解読するのである。夢想はつぎのような逆説である:すなわち、実存は、何であれ現存在するところのものをもって存在の一切と見做すことが出来ず、超越者の内に〔こそ〕自らを保持するために、現存在のあらゆる確実なものそれ自体からは自らを解離する、という逆説なのである。(つづく)第一部:諸々の暗号の本質(129頁)三つの言葉(129頁)1.超越者の直接的な言葉(第一の言葉)—(130頁) 2.伝達において一般的となる言葉(第二の言葉)—(131頁) 3.思弁的言葉(第三の言葉)—(134頁) 4.内在者と超越者 —(136頁) 5.諸々の暗号における現実性 —(139頁) 諸暗号の多義性(141頁)1.象徴性〈象徴学〉一般(存在の表現と交わりの表現)—(142頁) 2.象徴解釈(任意な多義性)—(144頁) 3.象徴性と認識 —(145頁) 4.解釈可能な象徴性と観想可能な象徴性 —(146頁) 5.循環している解釈行為 —(147頁) 6.任意な多義性と暗号の多義性 —(148頁)暗号文の解読の場としての実存(150頁)1.自己存在を通しての暗号解読 —(150頁) 2.実存的観想 —(152頁)
”愛と思索” 思索家としての高田博厚2020年01月29日(水) 23時50分14秒テーマ:自分に向って初再呈示 ぼくは高田博厚をなによりも思索家ととらえており、評価もこの点からである。 ”愛と思索”2020年04月06日(月) 17時00分30秒テーマ:高田博厚 芸術論これは常に呈示すべき重要な核心 2018年12月15日(土) 14時14分47秒テーマ:自分に向って愛とは、離れていると苦しいと感じること。これは必然の理である。それを引き受けるところに信仰が生まれる。思索は、この分離感覚を埋めようとする反省となる。 感覚の探求が思索だ。 愛の思索は必然的に形而上的思索となる。感覚から分離されず感覚を掘り下げる思索である。マルセルも高田博厚も、ぼくもこの路をゆく。別事覚書事実現象にたいして偶然とか必然とか云うのは、或る観点(心境)からの主観的感情表現にすぎない。
4/25(木)記事タイトルアクセス 1 アラン「デカルト」紹介 577 11/17 17:15 11.1% 3 2 ””ガルージン駐日ロシア大使、広島を訪れ慰霊碑に献花”” 8/5 04:47 7.4% 2 3 Aneignung (我有化するということ) 4/11 17:11 7.4% 2 4 我有化(Aneignung・アンアイグヌンク)の自由 ・ 逢着された存在 2/25 22:56 3.7% 1 5 検索欄より '21.2.24 2/24 02:40 3.7% 1 6 *参照(ロシアと日本・駐日ロシア大使へのインタビュー) 8/13 15:58 3.7% 1 7 // 10月6日~ 10/12 11:10 3.7% 1 8 初撮り 5/26 17:58 3.7% 1 9 検索欄記録 4/4 00:19 3.7% 1 10 参照(文化・ロシアと日本) 8/16 02:01 3.7% 1 11 4.21 4/22 13:33 3.7% 1 12 記 7/30 23:14 3.7% 1 13 参照 3/13 18:40 3.7% 1 14 アイスランド, ヴァトナヨークトル 3/19 02:21 3.7% 1 15 愛と思索 12/15 14:14 3.7% 1 16 愛と感謝とはちがう 3/11 17:31 3.7% 1 17 参照 3/24 13:45 3.7% 1 18 姫椿(2014.3) 3/12 23:14 3.7% 1 19 限界状況経験の本質(ヤスパース論考)9 11/14 23:00 3.7% 1 20 ”「神」は主体性のため” 7/28 16:41 3.7% 1 21 木は見ている 5/26 16:46 3.7% 1 22 参照 キッシンジャー氏発言 ほか 8/15 01:20 3.7% 1 23 この問題、どうしたらいいんだろう、と人間がかんがえるとき、天のほうでもかんがえてくれている 8/29 01:58
人気記事ランクイン記事一覧 ガブリエル・マルセル 形而上的日記 第二部 翻訳3 799位 ヤスパース『哲学』III 第四章「暗号文の解読」2 799位 侮辱の意味 799位 4.21 799位 勉強の楽しさ 799位
2009年刊の自著を読むと、すばらしい透明な精神の風を浴びてぼく自身が蘇生する。歴史上、誰もこのような本を現わさなかった。ぼくの使命は、このぼく自身の本の伝道師になることだ。あれからどうしてこれだけの年月が経たねばならなかったのだろう。よりゆたかに確認を見いだすために この間の地獄の辛苦があったのか。ぼくの本は立派以上に創造的にそれに持ちこたえた。当時よりもはるかに解りやすく神の息吹きのなかにいるように読める。
絶えず思惟することを説く方というのは、大変立派な方だと思う。
公式ジャンル記事ランキング:イラスト・アート・デザイン799位24 4 26その意味は、ぼくはそういう相手よりじぶんを高い地位に置いてよいのだよ、という天慮が示された、ということである。主観的にだけではなく客観的にもそうなる。それが天子であるぼくの場合。もっと冷静ならもっと違う心境でものを言えるのは勿論であるが、中くらいならこういう理解にしておいていい。人間の心境は上下するから、すべての状態に応じた心境を用意するのがよい。
初再呈示2023年04月25日(火) 18時15分03秒テーマ:自分に向って『 他人は自らを私に、私のものである諸記号と〔いわば〕交差するところの諸記号によって、伝えるのであり、それだけのことなのである。だが、〔ここで〕生じるかもしれないことは、次第しだいに、私は私自身と対話していると意識する〔ようになる〕ということであり(このことは、他者と私とが同一であるということも、それどころか私には同一に見えるということさえも、全く意味しない)、すなわち、次第しだいに、かの絶対的なもの、《非関係性》[unrelatedness]であるところの絶対的なものへの、参与が為されるということなのである。つまり、我々は次第しだいに、斯く斯くの者、斯く斯くの他者であることを、やめるというわけである。我々は単純に《我々》なのである 2。〈2. 一九二五年の覚書。— このことに結びついているのが、かの経験、〔すなわち〕汲み尽くされない富の経験、永続的な《再び》の経験であって、この経験は倦怠の反対そのものなのである。そしてこのことに気づくことは、持続[la durée]について作らなければならない概念にとって、大変に重要なことなのである。〉 』146頁 「形而上的日記」 原著 (一九一八・八・二三)(《再び》の原語は≪encore≫(アンコール)です。持続的増大、反復、を意味するでしょう。訳業の苦労が一瞬にして報われたと感じる箇所が突如現われることがあるものですね。)
4/24(水)記事タイトルアクセス 1 検索欄録 3/10 00:25 5.1% 2 2 もう訪れた今年の蝶 4/24 15:39 2.6% 1 3 「礼拝」 (1982) 691 2/17 05:13 2.6% 1 4 ”精神的に癒されるフランス” 5/5 02:05 2.6% 1 5 ソユーズ 7/7 20:31 2.6% 1 6 高田博厚における哲学と美術 11/7 22:50 2.6% 1 7 参照 2/23 19:23 2.6% 1 8 信じられる 721 3/8 16:00 2.6% 1 9 ”自然がいい 「フォルム」の意味” 7/26 14:42 2.6% 1 10 ノスタルジア:愛と死 723 3/9 02:46 2.6% 1 11 逆手 ・ 生きる 720 3/8 01:18 2.6% 1 12 いいところだけ取るな 魂においてはすべてはすべてのためである 8/26 23:22 2.6% 1 13 ”コメント録 情操こそは知性” 7/27 02:22 2.6% 1 14 検索欄より 2/25 18:15 2.6% 1 15 408 ルオー 「サラ」 1956 7/26 10:47 2.6% 1 16 読者へ (715)加筆 3/3 22:01 2.6% 1 17 検索欄紹介 2/27 14:38 2.6% 1 18 非知(Nichtwissen)〔ヤスパース『哲学』原典訳〕 3/7 23:16 2.6% 1 19 神戸 725 3/9 23:50 2.6% 1 20 夢の教会堂 722 3/8 23:24 2.6% 1 21 粗弾きを楽しむ 4/27 17:20 2.6% 1 22 ・・・ 730 3/11 19:02 2.6% 1 23 読者登録報告 11/3 01:52 2.6% 1 24 「彫刻家・高田博厚における〈自然〉と〈神〉」(論題) 11/12 17:46 2.6% 1 25 熊谷守一さんの言葉 11/28 20:02 2.6% 1 26 検索欄紹介 3/1 17:19 2.6% 1 27 言葉の結晶 1/19 17:55 2.6% 1 28 Selbstwerden (727) 3/10 15:42 2.6% 1 29 雑記 〔補〕 〔729〕 3/11 06:50 2.6% 1 30 日本庶民と日本人 (731) 〔補〕 3/12 07:52 2.6% 1 31 ”399 傷つくことの真相・手紙255 / 論文上梓” 7/21 15:25 2.6% 1 32 参照(政治) 2/20 18:09 2.6% 1 33 無思慮無分別において現われる真理 ・ 先生という呼称は思考操作であり、ぼくこそ先生である 4/17 00:14 2.6% 1 34 人間が成長するというのは嘘である 4/28 21:50 2.6% 1 35 五月雨は轟きのなかに静けさがある 5/11 17:15 2.6% 1 36 Alain : système des beaux-arts 5/11 18:09 2.6% 1 37 海(わだつみ)の曲 5/12 19:12 2.6% 1 38 参照 8/17 15:03