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〔 ヤスパース『哲学』III 第四章「暗号文の解読」1 の続き 〕

 したがって、私が暗号文の中に迫り入るのは、研究による洞察や、収集行為と合理的我有化を通してでは、未だないのであって、このような材料と共に初めてではあるが、実存的な生活の運動を通してなのである。第一の言葉の経験は、ただちに、可能的実存が自分自身を投入することを要求するのである。この経験は、手許に運んでくることが出来て誰にでも同一なものとして表示可能であるような経験ではない。というのもこの経験は自由を通して初めて獲得されるのであるから。この経験は、体験のような随意的直接性ではなく、暗号を通しての、存在の反響なのである。

 すべてのものが暗号となり得るのなら、暗号である〈暗号存在〉とは、何か任意なことであるように見える。暗号存在は、真理と現実を持つ場合には、検証可能なものであらねばならない。世界定位において私が検証する場合、それは、私が何かを(151頁)知覚可能なものにしたり、論理的に強制的なものにしたりすることを通してであり、私が何かを作り上げて成し遂げることを通してである。実存開明において私が検証する場合、それは、私が私自身および他者とつき合う仕方を通してであり、そのつき合い方において私自身を確信している仕方を通して、つまり私の行いの無制約性を通して、私が飛翔において、愛と憎しみにおいて、自己閉鎖と自己不随意において、内的に経験するところの諸々の運動を通してなのである。しかし、暗号の真理を私は端的に検証することは出来ない。というのも、暗号の真理は、言表されたものとしてはその客観性において一種の遊戯[ein Spiel]だからであり、この遊戯は妥当性へのいかなる要請も為さず、それゆえまた、いかなる正当化も必要としないからである。私自身にとっては、この暗号の真理は、いかなる単なる遊戯でもない。

 私が暗号を解読する処では、私は責任を負わされている。何故なら私は暗号を私の自己存在を通してのみ解読するからである。そして私の自己存在の可能性と真実性とは、暗号解読の仕方において私にたいして示されるのである。私は、私の自己存在を通して検証するのであり、そのためにこの〔私の〕自己存在自体よりほかの基準を持つことはない。この自己存在は自らを暗号の超越者に接して認識するのである。

 このように、暗号文の解読は、内的行為において遂行される。私は自分を絶えざる没落から救出しようと努め、自分を手中に収め、私から生じる決断を経験する。だがこの自己生成の過程は超越者への傾聴と一つであるのであって、超越者無しにこの過程は存在しないだろう。私の行為において、抵抗、成果、不随意そして喪失において、最後に、これらすべてを掬い上げて再び制約するところの私の思惟において、私は、私がそこにおいて暗号を聴取するところの経験をするのである。生じるところのもの、そしてその生じるところのものにおいて私が為すところのものは、問うことと応答することであるようなものである。私は、私の身に起こることから聴くのであるが、その起こることにたいして私が態度をとることによって聴くのである。私が自分と格闘し、諸事物と格闘することは、超越者を求めるための格闘なのであり、この超越者のみが、此の〔特定の〕内在者において暗号として私に現象するのである。私は、事実的世界経験の感性的現前の中へと、勝つか屈服するかの現実的行動の中へと、押し入ってゆく。なぜなら此処においてのみ、存在するところのものに私が傾聴する領野があるからである。

 存在は、万人が知り得るものであろう、と思うことは、愚かなことである。人間たちがそれであったところのもの、彼らが超越者をそういうものとして確信していたところのもの、彼らが超越者で充実させられていた仕方、彼らにとって本来的現実はどのような現実を意味していたかということ、そのために彼らはどのように内面的に生きたかということ、彼らは何を愛したかということ、これらすべては決してひとりの単独的個人が現前的に摑み取り得ることではないであろう。いかなる仕方でも存在は万人にとって〔同等に〕在るようなものではない。自分〔自身〕ではない者にとっては、すべては暗黒なままに留まるのである。

 そのようにして私は超越者の暗号文の解読において、私が傾聴するところの存在を摑み取るのであるが、それは私がその存在のために闘うことによってなのである。なるほど私はただ(152頁)超越者の存在の傍らでのみ、本来的存在の意識を持つのであり、ここでのみ、私にとって安らぎはあるのである。しかし、私は絶えず再び闘いの不安静のなかにいるのであり、独り打ち捨てられて失われた如しなのである。私が存在をもはや感知しないならば、私は私自身を失っているのである。

 哲学的な実存は、隠れたる神にはけっして直接に近づかないという態度に甘んじる。私が暗号文のために準備している場合に、暗号文のみが語るのである。私は哲学しつつ、私の可能性のために〔自ら〕全力を注ぐことと、私の現実性が〔私に〕贈られることとの間で、浮遊状態にあり続けるのである。それはひとつの交際、私自身と超越者との交際であるが、それがただ稀にのみであるのは、あたかも暗闇の中でひとつの目が光るかのようである。日常的なものは、あたかも無であるかのようである。人間は、自らの不気味な寂寥のゆえに、もっと直接的な接近を、諸々の客観的保証を、確かな支えを求め、祈ることで言わば神の手を摑み取り、権威へと向き直り、神性を人格的形態において見るのである。この人格的形態として神性一般は初めて神なのであるが、その一方で神性は無規定に遠いままなのである。

 2.実存的観想。— 哲学的な打ち捨てられた状態において〔も〕、実存的な観想が、絶対的意識に基づいてあり続ける。この観想は祈りではない。祈りはむしろ哲学することの限界であり、哲学的には近づき難く、それゆえ疑わしいものである。しかしこの観想は夢想[Phantasie]として、可能的実存の目なのであり、可能的実存の能動的な闘いに投入されて、路の開明と充実となるのである。

 現存在の現実性は、意識一般の内で、世界定位における諸対象へと解消された。それでもやはり夢想は、合理的に解消されてはいない現実性のなかで、そして更に再び、この現実性〔そのもの〕の解消のなかで、存在を観るのである。それは、あたかも事実的な存在が現存在の背後に嵌まっていて、現存在から空想的に推論されるかのようにではなく、存在が夢想にとって、暗号において直観可能な仕方で現前するようなふうに、観られるのである。

 私は、存在が何であるか、私がどのように現存在を知るのか、知ることは出来ない。私は、私が現存在の象徴性格を超出しない限りで、現存在を暗号としてただ解読することが出来るだけなのである。私は、現存在を世界定位において諸々の概念を通して認識するが、存在を現存在においてただ夢想を通してのみ解読するのである。夢想はつぎのような逆説である:すなわち、実存は、何であれ現存在するところのものをもって存在の一切と見做すことが出来ず、超越者の内に〔こそ〕自らを保持するために、現存在のあらゆる確実なものそれ自体からは自らを解離する、という逆説なのである。たしかに、哲学的夢想も諸概念を使用するけれども、その諸概念はこの夢想にとって、現存在の構築物の建造石材ではないのである。この夢想は諸概念をこの諸概念自体として思念してはいない故に、この諸概念も夢想にとって、すべてのものと同様、暗号となるのである。このように現存在を透明なものとして見いだすことは、観相学的な直観行為のようであるが、(153頁)しかしこの行為は、知識という形を目標として求めて、表徴から「根底に存するもの」へと推量してゆくような、粗忽な観相学〔の行為〕なのではなく、真の観相学なのであって、このような観相学が『知る』ところのものは、この観相学にとってただ直観行為においてのみ在るのである。暗号において私は、私自身の存在の根と関連しているとはいっても私と一つにはならないものを、存在として私に対峙させて持つのである。私が真実であるのは、目的を追求したり現存在の利害関心に尽くしたりせずに、私が私自身として暗号において在ることによってなのである。

 観相学的像と比較できる、存在の諸暗号の現実性は、与えられても創られてもいるものである。与えられているというのは、この現実性は捏造されるのではなく、また、主観性の空虚から出来するのでもなくて、現存在の内で初めて語るものだからである。創られているというのは、この現実性が客体として強制的かつ普遍妥当的で、万人に同一なのではなく、実存という基盤に基づき、実存の存在接近として、直観する夢想の内に現存するからなのである。心理学的に心の一産物として理解されるのではなく、実在的-対象的に現実性として諸科学を通して研究されるのでもなく、暗号は、ある存在が暗号のなかで語るかぎりは、客観的であり、〔しかし同時に〕主観的であるのは、〔人間の〕自己が自らを暗号のなかに反映させるからである。ただしこの自己は自らの根元において、暗号として現象する存在と関係づけられているのである。

 暗号の内に私は留まるのである。私は暗号を認識するのではなく、私を暗号の内へと深化させるのである。あらゆる暗号の真理は、具体的でその都度歴史的に充実させるものである直観[Anschauung]においてある。自然において私にこのような存在が自らを啓示するのは、ただ、私が、まったく一回かぎりの諸形態を、まさしく此の場において斯くあるように現存在するもののもつ、全然一般化されえない親密性[Intimität]として、私に語るに任せる場合のみである。

 暗号文の解読は、時間の内なる現存在に差し向けられている。この解読は、この現存在を蒸発させてはならない。というのも、そうなると、この解読行為は、現実性とともに存在をも取り逃がしてしまうであろうから。この解読は、現存在を存立するものとして、世界定位での研究がそうするように固定化してもならない。というのも、そうなると、この解読行為は、現存在としては出会われない自由もろとも、超越者への路を失ってしまうであろうから。実存的夢想にとって問題なのは、むしろ、存在するあらゆるものを、自由によって貫通されたものとして把捉することなのである。暗号の解読は、ひとつの存在知の意味を持つのであり、この存在知においては、現存在としての存在と自由としての存在とは同一となる。この同一化は、いわば、夢想の最も深い眼差しにとっては、これらの存在の一方だけではなく、両方のものが根拠であるためなのである。

 思弁的思想は、伝達可能なものとなった暗号文である。この暗号文は解釈するが、その解釈行為は、存在を了解する行為ではまったくなく、(154頁)了解行為のなかで、存在実体の、本来は了解不可能なものに触れることなのである。それゆえ、私がただ了解するだけの思弁的思想を、私はつぎの場合には了解していないのである、すなわち、私がその思想を通して、存在である理解出来ないものに突き当たることのない場合である。その存在を通して、また、その存在と共に、私は本来的に存在するのであるが。私は思想的な言葉を媒介とすることによって了解をするのであり、この媒介において私は、何処で私が理解不可能なものに出会ったかを、私にたいして理解可能にするのである。しかしこの了解行為は、無限の前進の最後に完全に概念的把握が出来るようになるものを、漸次的に概念把握してゆくことではない。そうではなく、〔この了解行為は、〕了解可能と了解不可能との対立の彼方で存在として存するところのものを、より一層決定的に顕現させることなのである。〔そして〕この存在は、了解可能性の内で消滅しつつ現象するのである。(つづく)

 

 

 

 

第一部:諸々の暗号の本質(129頁)

 

三つの言葉(129頁)

1.超越者の直接的な言葉(第一の言葉)—(130頁) 2.伝達において一般的となる言葉(第二の言葉)—(131頁) 3.思弁的言葉(第三の言葉)—(134頁) 4.内在者と超越者 —(136頁) 5.諸々の暗号における現実性 —(139頁) 

 

諸暗号の多義性(141頁)

1.象徴性〈象徴学〉一般(存在の表現と交わりの表現)—(142頁) 2.象徴解釈(任意な多義性)—(144頁) 3.象徴性と認識 —(145頁) 4.解釈可能な象徴性と観想可能な象徴性 —(146頁) 5.循環している解釈行為 —(147頁) 6.任意な多義性と暗号の多義性 —(148頁)

 

暗号文の解読の場としての実存(150頁)

1.自己存在を通しての暗号解読 —(150頁) 2.実存的観想 —(152頁)