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(「翻訳2」からのつづき)

 一九一九・二・二五。

 どのようにして、祈り[invocation]は有効であり得るということが分かるのだろうか?私は、私が先に吟味していた諸問題のためにしたのと同様に、〔この問題に〕取り掛かろう。そして、この〔祈りの〕有効性に異議を唱えようとして、どのような要請に我々は自発的に基づいているのかを、自問しよう。我々は自発的につぎのことを承認している、すなわち、ひとつの呼び掛けは、聞かれるためには、ひとつの(170頁)記号体系を働かさなくてはならない、ということを。さて、人はこう言うだろう、私が昨日熟慮した事例のなかには、単に観念のみが存するのである、すなわち、AがBのことを考えている、ということのみが、と。だが、AのなかにあるBの観念と、Bの存在との間に、ひとつの伝達〈通知〉が実際に成り立ち得るなどとは、思いもよらないことである、と。—— 長い間、ブラッドリーに賛同して私は、このことさえ、すなわち、観念とこの観念の対象との間の伝達不在さえ、否定してしまう状態にあった。現在の私は、自分が間違っていたと思うほうに傾いている。観念が、「の観念」でしかないとき、この観念はおそらく、孤立したものとして、〔つまり〕観念の対象から切り離されたものとして、解されるにちがいない。そしてこのことは、このように解された観念の形而上学的不充分さをはっきりとさせるのに充分ではないかと思われる。だが、問題であるのは、ある存在のために祈って助けを求めることは別のことであり、その存在のことを考えるよりも以上のことであることを、示すことであろう。正確には、ある存在のことを考えるとは、どういうことであろうか? それは、自分の注意を諸々の心像の或る体系の上に集中することであり、その際、この諸心像の体系は、ひとつの際立った心像の周囲にであれ、ひとつの名前の周囲にであれ、結晶しているのである。しかし、これは一般に、問題となっている人物が現前している場合に、その人物が我々にとって「」ではなく「」である限りにおいて、我々が採用する態度と、全く類似の態度をとることである。反対に、私が祈り求める瞬間から、観念より以上の何かが働き始めるということを、承認しなければならない。だが更に必要なことは、この祈り求めが、敢えて言えば、存在論的な基礎を有していることである。実際には、私は、誰のことでも祈り求めることが出来るわけではなく、《〔祈る〕ふりをする》ことしか出来ない。別言すれば、祈り求めることは、共同体[communauté]が存する処でしか、有効ではあり得ないように思われるのである。

 深くて詳らかにし難い意味において、我々は既に一緒に[déjà ensemble]存在することが、必要なのである。多分、我々が与えられた瞬間に実際に一緒だった頃から、この共同体の何か或るものが存し続けているのであるが、このものは依然として甚だしく模糊としていることを私は承知している。つまるところ、認める必要があると思われるのは、場景のためにそうしたように(上述参照)、我々が我々であったようにしているところのこの霊的な統一は、これもまた、時間の一瞬間に繫がれてはいないのだ、ということであり、この霊的統一は、私が自分を、この霊的統一が形成された時に私の精神状態であった精神状態に再び置くや否や、再出現するのだ、ということである(不快な語だが私は他の語を見いださない)。結果として、この実在的な統一によって強くされた[あるいは一層正確には、豊かにされた]祈り求め[invocation]は、私をして他者と真実に心を通わせ合わせる〈交心[communier]させる〉のであり、この他者は単に他者としてではなく、《汝》として捉えられているのである。明らかに非常に特異なことは、他者が、自らに向けられているこの呼び掛けに直接には気づかないことがある、ということである。それでは、どういう意味において、彼に《届く》のだろうか? 心理学で風潮となっている用語が我々に言うのを許すことは、彼の無意識的なものに届くのだ、ということである。だが、この答えそのものは全く何も意味していない。

(171頁)

 一九一九・二・二六。— 実際、この無意識的なものとは何か? それは、自分が有していることを自分では知らないところの、ある一定数の述語部を所有している限りでの、当の他者である、と人は言うつもりだろうか? そのような解釈は受入れることの出来ないもののように私には思われる。いつものように取りかかろう。或る型の交信を考えよう。Aが一通の手紙をBに書く。Bがその手紙を受けとる。何が起っているか? この手紙は文字通り「受けとられて」いる——正に電報(あるいは無線電信)が「受けとられて」いるという意味で、すなわち、キャッチされているという意味で。この手紙は情報を含むものであることを私は認めており、手紙はBに、Aが病気であったこと、Aは現在回復し、旅行に出ようとしていること、等を知らせるのである。この知らせ[message]によって、どのような意味でBは届かれて到達されて〉いるのだろうか? 彼が手紙の内容によって単に情報を与えられるだけで感動させられるのではない限りでは。〔つまり〕彼が彼自身で自分を、Aを仕切りから仕切りへと移動させるカードのように扱うことに制限している限りでは(まさしく、整理カード箱を操作するように)。ここではAは、Bにとって専ら「」である。そしてそのこと自体によって 1〈1. 《そのこと自体によって》というのは多分軽率な言い方だろう。〉、B自身が自分にとって可能な限り存在しないのである。〔すなわち〕Bは自分自身にとってひとつの《知》以外のものとしては、〔つまり〕相互に結びつき合う諸概念の集まり以外のものとしては現われないのである。今、私は、この手紙が直接的な感情的価値を持つと想定しよう。《ねえおまえさん、私はもうだめだよ》。直ちにBの態度は変貌する。そして「私たち」という語が唯一、BとAとの間に築かれている人間関係を表現し得るものとなる(関係という用語はそれ自体不正確であり、議論して理解しうるような何ものも無い)。同情、憐憫。これらは、判断や述語づけが不可能であることによって明らかとなるものである。だがBは、同情している限りでは、何であるか? 私が気づくのは、彼が彼自身に明らかとなる、ということである。原理的に、我々自身の感動よりも以上に、我々を不意に捉えるものは何も無い。それは本性からのものであり、私は、或る程度自分自身に無自覚である感情は殆ど義務であるとさえ言える、と思うくらいだ。人のこの知られざるものは、感動の中で告知され、その人の価値を成すものであるが、どんな仕方でも「それ〉」としては扱われ得ないのである。〔だが〕疑いもなく、祈り求めに近づきやすいのは、「それ」である。そして私は〔ここに〕矛盾をはっきりと[in terminis]見る。だが、このことは、ただ、我々は言葉の彼方へ目を向けなければならないということを証明するだけである。

 私はよく分かっているが、人はこう言うだろう、感動させる手紙の場合においては、諸記号は本質的な、不可欠な役割を演じる、と。つまり人は、それら記号が感動を解き放つ、と認めるのであり、それが自然〈当然〉だと思うのである。何故ならそれら記号は《その場で即座に》[≪sur place≫]作用するから、と。しかし、ここで人はおそらく言葉だけに甘んじているのである。じっさいに重要なことは、「」から「我々」への移行、すなわち、ひとつの共同体[une communauté]の経験への移行なのである。ところで、この移行は、(172頁)機械的に説明されることを許すものだとは私には思われない。感動は私を場景へと戻らせ、この《隠されていた》私が《登場する》よう強いる。この私は、分類作業や分類の修正作業が問題であった限りでは、《幕の後ろに》留まっていたものなのである。

 一九一九・二・二七。— まさしく確かだと私に思えることは、感動させることは登場するよう強いる[forcer à sortir]ことだということである。それは動かすことだ、と私は言おう… 今、どのような意味において、感動の本来的に存在論的な価値について語られ得るのだろうか? 疑いないことは、我々が一般に想像〈空想〉上のものと呼んでいるものは、現実のものと同様な効果があり得るということである。ただ、この区別そのものには、どのような価値があるのだろうか?

 ひとつの適合の遮断が存する処にしか、感動は存しない(《遮断》あるいは《ひとつの適合している拘束からの解離》)。だが、どうして、この遮断が、私が先に話していたところの、私の《登場〈外部へ出ること〉[sortie]》と一致するのか? そこにはひとつのはっきりしない問題が存する。《私》と、感動のなかで緩んだり途切れたりするそれらの相互適合の結びつきとの間には、どのような関係があるのか? それらの繫がりがこの〔《私》との〕関係を単に覆い隠していただけだと言うことは出来ない。例として、とてもしっかりした感情、ひとりの男が自分の妻にたいして経験する愛着を、挙げよう。彼は突然、自分の妻が彼に不実であることに気づく。このことから、私が〔上で〕話していた断絶〈遮断〉が生じ、〈私〉の「外部表出」[sortie]が生じる。実体論による解釈であれ、厳格な現象論による解釈であれ、そういうすべての解釈は、ここでは不十分なものであり、諸問題を提起することさえ出来ない。愛着においては、〈私〉[le moi]は、おしなべて自分の対象のなかに、あるいはもっと正確には、この対象に関わる諸活動のなかに、喪失されている。このことで私が理解しているのは、愛着はすべての現実的二分割を排除する、ということである。主体は当然、この愛着を意識することが出来、つまり経験する。だが、彼〈主体〉自身( ?)とこの愛着との間には、いかなる生ける関係も成り立たず —— そして愛着は、彼の目には、何か生気の無い不活発なものへと転じてゆく傾向があるのである。私自身が私にとって「」である限りにおいて、〔つまり〕私が私を知とする限りにおいては、述語と同等のものこそが私のものなのである。ここで、感動は呼び覚ます働き[fonction de rappel]をする:《問題なのは私なのだ。そのことを私は分かっていなかったのだ!》1 〈1. つまり、「私」という観念は曖昧なのである。「私」は、汝—その特殊な場合における—としてのであるか、彼としてのである。〉 感動の根元にある《ああ、まあ!》は、感動が中断するか変形するかするところのものそのものにたいして、過去遡行的〈回顧的〉な明晰さを照射する。感動は、私を徹底して《彼》として扱うことは私には出来ないことを、私に想起させる。あるいはもっと正確には、感動はこの想起そのものである…

 一九一九・三・一。— ラベルトニエール神父の試論について。(173頁)《存在を断定する》ということで、あるいは《存在の問題を提起する》ということでさえ、人は何を理解しているのかを、可能なかぎり正確に自問することの必要性。この「存在の問題」は根本において、存在が存するかどうかを自問することに〔本質が〕あり、この自問は、存在とは何であるかを知ることにさえ先立っている。だが、人がこの問いを提起するとき、人は何を言おうとしているのか? 同時代の人々は、この問いをひとつの価値問題へと変換してしまう傾向がある。だがこれは危険なことであると私は思う。ひとつの価値を持つこと—所有すること—は、どういう場合でも〈いずれにせよ〉、「ひとつの価値である」ことと混同されはしない。そして私は、この最後の表現が何かの意味を呈示しているのかどうかを、自問しているのである。根本において、動詞「持つ」[avoir]が表現する諸関係は、まずく定義されてきたと私には思われる。人は言うだろう、「実存する」ということ〈行為〉はひとつの価値を成す、と。だがこのことは正確にされる必要があるだろう。気づかれるべきことは、《「存在」は存するのか?》という形式の許での「存在」の問題の提起は、高度な予めの反省を前提している、ということである。《「存在」は存しない》という断定は何を含意しているのであろうか? 積極的には、「現象しか存しない」ということを。しかしこのことは見かけの上でしか真ではない。というのも、現象が「現象」と貼り札されるのは、適用されることなく表明されるひとつの観念との対立によってでしかないから。

 一九一九・三・二。— 私に由来する、他に由来する、これらの表現は何を意味するか? (自動書記〈コックリさん:死者との交信に利用される文字盤〉、夢、創作、等に関して)。

 明瞭だと思われるのは、私が収集する情報は、私から区別された源泉を持つ、ということである。この意味では、この情報は他に由来するのである。他方で、私は他者に情報を伝えることができる。つまり《情報の源泉》の働きをすることができるのである。今、私は、見かけ上でしか明瞭ではないこの後者の行為を探究しようと試みているのではない。はっきりしていることは、私は他者にとってしか《情報源》ではないということである。つまり、私が—私自身にとってあるいは誰か他の者にとって—ひとりの他者である限りにおいて、私が他者の本性を帯びている限りにおいて、私は《情報源》である、ということである。私である限りにおいて、私は絶対に情報を提供することはできない。ゆえに、《私》と《他処》の間の対立は、《しかじかの源泉》と《しかじかの他の源泉》の間に存在するであろう対立には少しも似ていないのである。「ある創作が私《に由来する》」と言うことは、いかなる意味も呈示するものではない 1。〈 1. 実際、理解すべきことは、《に由来する》[venir de]とは、私というもの[le moi]が絶対に〔情報の〕源泉ではない限りにおいて、ある源泉に由来する、ということなのであり、「これは私に由来する」と言うことには意味は存しない、ということなのである。〉 人は反論するだろう、私は少なくとも「発明する」ことと「情報を与える」こととを〔いわば〕合法的に対立させることができる、と。だがそれは問題ではない。人は実際、「我々は各自、他処で汲まれた諸情報の一定の貯えを所有しており、この諸情報から諸々の組合せを引き出すのだ」という偽観念から出発する。だが、そのようにして我々によって( ?)掘り出されるものが「我々のもの」であることは、可能な限り少ないのである。

(174頁)

 つぎのように言うことは正しいと思われる、すなわち、私が他者たちに対峙することが一つの情報源が他の諸々の情報源に対峙する如くではない程、私は私〔自身〕であり、また、私が自分を私〔自身〕として考えない程、私は自分を一冊の年鑑のように取扱う、と。

 何らかのインスピレーション〈思いつき〉に関して、このインスピレーションは私に由来するのか、他処に由来するのか? と人は問う。だがインスピレーションは諸記号の集まりとは比較できない。《この考えは私に由来する》と言うことは、《この考えは誰か或る人に由来するのではない》ということを意味するか、あるいは更に、《この考えは何処からのものかと問うことには、何の意味も無い》ということを意味するのである。このような否定の積極的な反対見解を掘り出さなければならない。

 一九一九・三・三。— 私が昨日示そうと試みたことを、私は再び取り上げる。記号によって伝達されるすべてのものは、実を言えば、あるひとつの源泉に由来するのである。私が諸々の信号を受けとると、私は、誰がこれらの信号を発しているか — 何処からこれらの信号は来ているかを、どうしても自問する。ところで、すべての情報は記号を内包している。私はここで、私が情報と呼ぶものの本性を探究しようと試みるのではない(それ〈情報と呼ばれるもの〉は、私を方向づけ、あるいは更に、私の行動と反応の能力を増大させることに定められているところの、何ものかであることを、人は示すことはできるだろう)。疑いを容れないことは、私が或る規定された何者かである限りで、私は情報源の働きを為し得る、ということであり、この限りでの私はひとつの「」であって、この彼はひとつの歴史を有し、一種の、自らの意のままになる諸経験の倉庫を有しており、この諸経験の各々はその各々の脈絡から解き離され得るのである。— すなわち、ひじょうに真実らしいことであるが、私が私でない限りで、あるいは一層正確には、「[je]」でない限りで、私は情報源の働きを為し得るのである(というのも、「」は、「斯く斯くの者ではない」ということによって私を定義することを、私は示したのであるから)。このゆえに、もし誰かが《誰が彼〈彼女〉にこの情報を与えたのですか?》(パリで最高のホテルの名)と問うならば、私は、《私です》、《その情報は私由来です》、と答えることが出来ようが、ここでの「私」とは、「斯く斯くの者」と等価なものでしかないのである。この情報が何か外部的なもの(正確にすべき)に関わるものであるほど、私は一層容易に質問に答えることが出来るだろう、あるいはもっと言えば、私が知っているもの(私が提供できるもの)と私が知らないもの(私が提供できないもの)との間の区別は一層有効なものであるだろう。しかしまた、その程度に応じて、「私」という言葉がこの言葉の真の本質的な語義で取られることは、それだけないであろう。今、もし、なにかの評価や、なにかの観念〈考え〉が問題であるなら、問いは明瞭な意味を呈示するのを止める。なぜか? 要するに、それについて人が「それは私由来だ」と言うことの出来るところのものは、ある集まり〈集合〉に属するところのものであり、すなわち、「私」ではないところのものであるということなのだ。霊的次元[l’ordre spirituel]において出処の問題が、収集されて整理分類されることの出来るものにしか適用されない、と人は言い得るだろうか。我々が、ある経験や、ある考え、ある閃きに関して、出処問題は呈示されない、と言明するとき、我々は正確には何を言おうとしているのであろうか?

 私はここに記しておく:それによって我々が(175頁)我々自身と伝達し合うところの諸手段は、我々に他の者たちと伝達し合うのを許すところの諸手段と、本当に異なるものではない、と。人は私に言うだろう:我々は我々の生について、我々が他の者たちの生について持ち得るところの感情とは、かなり異なった感情を持っている、と。それは確かである。だが、その〔我々の生について持たれる〕感情は、我々自身との交際〈意思伝達〉[communication]ではなく、私が存在様態[manière d’être]と呼ぶところのものなのである。「無意識的なもの」とは、それである——〔それは〕我々における(?)ものであり、そのものと我々は意思伝達し合うのではなく、弁証法的交際を維持するのではない。《我々における》[en nous]とは何を意味するのか?

 当然、「[je]」を容器として扱う誘惑には、抵抗しなければならない。ある種の観念論でさえ、この誘惑に屈しており、物体は精神の内にある、と主張している。物体が精神の内に無いのは、鍵盤が、鍵盤の奏でる音楽の内に無いのと同様である。おそらく、諸々の容器のみが伝達〈交際〉し合うのだろう。我々が互いを、〔情報の〕伝達をする能力のあるものと見做す程度に応じて、我々は自分たちを不可避的に、容器のように扱うのである。気づくべきなのは、Aの意識をBの意識から孤立させる唯心論的原子論が、この必然性から逃れていないことである。だが、認識すべきことは、反対に、AとBは、伝達し合わないものである限りでも、だからといって孤立し合ってはいないということであり、その理由はまさしく、AとBは根拠のある仕方で容器と同一視されることは出来ないからである。我々が伝達行為をし得るのは、我々が相互に孤立している限りにおいてこそなのである。

 一九一九・三・五。— 目録という言葉こそは、「私」ではないところのものを、最も良く性格づけるものである。私は、目録の働きを為さない程度に応じてしか、存在しないし — 思惟しないし — そして行為しないのである 1。〈1. 根元的自由の唯一理解可能な概念への移行。〉 観念がそれ自体は出処を持たない、と言うことは、観念がひとつの行動としてしか扱われようがない、と言うことであり、〔つまり〕予め存在する目録のなかに最初には現われていないものとしてしか扱われようがない、と言うことである。他方、すべての観念は、自らを表明した限りにおいては、自らに対応する目録の中に入れられたものとして浮び出る〈姿を現す〉。このこと自体によって、〔すべての〕観念は、真似られ〈模倣され〉、再生されるのである。

 目録とは、「」である。

 一九一九・三・六。— 想起することは、ひとつの目録から汲むことなのか? まず第一に私が記しておくのは、目録というものは、ある他者のために用意された諸々の答えからしか成っていない、ということであり、これらの答えはある他者に、その他者がどんな存在でも、それがたとえ他者である限りの私自身であっても、向けられている、ということである。知ること、それは、この意味において、斯く斯くの操作を遂行している状態にある、ということである(人はここで、歌手の目録、外科医の目録、ある演劇〈劇場〉の目録、あるいは、ある分類諸カードの目録のことを考えることが出来る)。「私は知らない」と言うことは、(176頁)この意味において、「それが私の目録の中に現われない」ということを意味する。ベルクソンにおいて、純粋記憶それ自体は目録を構成する傾向がないかどうか? ということを私は知りたいものだと思う。純粋記憶の全問題はそこにある。

 学ぶこと、それは常に、ひとつの装置を組み立てることであり、その〈自分の〉目録を豊富にすることである 2。〈1. 私は、いかにしてひとりの人間〈存在〉が学ぶことが出来るか、そのことを知ろうとする形而上学的問題は、側に置く。これは実のところ、習慣に関するラヴェッソン的問題である。〉 だが、このことは、経験という観念の内容を汲み尽くすには、程遠い。ひとつの経験を持つということにおける最深のものは、学ぶという行為には還元されないのだから。学ぶこと、それは常に、後に来るものを参照することであり、事情が要請するなら一定の操作を遂行する状態に入る〔ことが出来るようになる〕ことである。この〔学ぶという〕ことは、粗雑な空間的想像力のためには、貯蔵するという行為、蓄えをするという行為で、象徴されるものなのである —— 実際には、我々の能動的な諸能力を増大させることが問題となっているのであるが。この意味において、学ぶことは、現在において生きることではなく、むしろ、生きられる現在を捨象することである。(私は、自分がベルクソン的な区別の周囲をうろついていることを、ひじょうによく承知している。この区別を利用しないわけにはゆかない)。このゆえにこそ、学ぶことと楽しむこととの間には、ひじょうに深い差異が存するのである。このことを具体的に明らかにする事どもは容易に見いだされる。すなわち、人は自分の美的享楽を、つぎのように自問して害することがあるのである:《私は、私が観ているものを役に立たせるだろうか? 私はこの作品を〔後で〕識別できるだろうか? どうやって? もし後で人が私にこれこれの質問をするなら、私はそれに答えられるだろうか?》と。苦痛が問題である場合には、これは償われることは、明らかである。あるがままの経験(体験[das Erleben])は、純粋経験としてと同時に機械的能力として、経験自体よりも生き長らえる、と言うべきだろうか? しかし、いかにして、当の経験は、純粋経験である限りで、自らを保存することが出来るのだろうか? 保存という観念は、ここでは意味を引き剝がされるように私には見える(この点については、以前の私の諸反省を参照)。むしろつぎにように言おう:経験は私の存在に合体するのであり、このゆえに私の存在を変形させ、そしてこの意味において、我々の内に生き続けるのだ、と。然り、これはひとつの生ける付着集積現象[accrétion]なのである(例えば聞かれたメロディーであり、我々が再生出来るこのメロディーは、他方では我々の存在を豊かにする傾向があるのである)。更に言うべきであろうか? この付着集積現象は我々の統覚上の総量を増大させに来るのだ、と。つまり、それは、それによって我々が宇宙を評価し、価値づけるところのものなのだ、と。私はこれは確かなことだと思う。だが、この統覚的総量の只中で、この付着集積は、如何にして、それ自体にとっての自己解放と再生成とを為し得るものであり続けるのだろうか? 人には、この付着集積を、他の諸要素と並置される一要素として扱う傾向が、そしてこの要素を(177頁)そのまま全体のなかに再認され得るものとして扱う傾向が、逆らい難くある(a+b=S。ゆえにaは依然としてSのなかにある)。この意味における記憶は、たしかに、存在の一様態である。私は、私が想起するところのものを再び生きる程度に応じて、その、私が想起するところのものである。だが、人はつぎのように言い得るであろうか? 「それ」が存在するのは、私が「それ」ではない程度に応じてである、と。記憶は、再び生きられない限りで、生き延びるのであろうか? 人は言う、《その通り、可能性の状態において》、と。だが私には、人はここで改めて目録の観点に身を置いていると思われる。つまるところ、人はこう考える傾向があるであろう、すなわち、私がたとえば或る状態を再び見いだし得るのは、この状態が私と同様に私と共に持続した場合のみであり、しかもこの状態が私の内に在っても無くてもよい場合のみだ、と。だが、反省するならば、これは私には馬鹿げて見える。《当時》は《当時》のままであり、《今》にはならない。確かに、私の過去に再接合するのは私のほうであって、私の過去が私の後を追って言わば私と合流したのでは全然ないのである。記憶は老化しない。記憶は、本来自分の歳である歳でしかないのである。そうであるなら、ある偶然の事実(プルーストのマドレーヌ菓子の一口)が我々の内に解き放ちに来る経験は、原初的には我々によって生きられた経験と、原理的に同一なのである。その際いかなる仕方でも、この経験が保存されたと言うことは出来ない。というのも、保存されるということなら、老化や変化の仕方もそうなのだから。

 私は白状するが、以上すべてのことは私を全然満足させるものではない。そして、この恐るべき問題を何処に持って行ったらいいのか、私は分からない。それでも私は進歩しているという感情を持つ。とてもゆっくりとしたものではあるが、それはほんとうである。私が、私の精神と比較して別の精神の外在性について語る時、私は確かに、我々二人ともを、一致しないけれども互いに補い合う二つの目録として扱っているのである… 私には思われるのだが、習得をするのは常に身体であり、精神はこの調整に応じるだけのことなのである。

 存在、それは失望させないところのものである。我々の期待が満たされる瞬間の存在が存する。私が語っているのは、我々が全的にそれに参与するところの、あの期待のことなのである。存在を否定する教説は、つぎのように表明される:いっさいは虚無である、すなわち、何も期待してはならず、何も期待しない者だけが失望させられないだろう、と。私が思うのは、この〔教説の〕基礎の上でのみ、問題は提起され得るということだ。《何も存在しない》と言うことは、《何も重要ではない》と言うことである。この虚無主義[nihilisme]の意味を深く究めること。「存在すること」と「実存すること」とを混同しないよう気をつけること。絶対的価値の問題と実体の問題との連帯性を示すこと。すなわち、価値の保証としての実体性を。この見かけは基礎づけられている〈充分な根拠のある〉ものだろうか?

 一九一九・三・七。— これらすべてはまだ余りにも漠然としている。私によく分かることは、存在とは充実であるということであり、そしてこの〔充実という〕語によっては、知的な諸規定のひとつの総合が解されるのではない、ということである。(p.178頁)[人が通常理解しているような「最も実在的な本体」[Ens realissimum]とは全然似ていない] だが、もっとより方法的に取り扱わなければならない。存在が存するのかと自問することは、私には思われるのだが、つぎのような観点に身を置くことである、すなわち、その観点の者は、諸事物の根底へと赴くのであり—あるいは赴くのであろう—、この者は諸現象の織物(出来事のヴェール)を通して見るのである—あるいは見るのであろう—。〔存在が存するのかと自問することは〕更にまた、つぎのような観点に身を置くことである、すなわち、その観点の者は、現実存在〈実存〉を、最も奥にある石のようなものとして経験するのであろう。《何も存在しない》という断定は、この意味においては、自らを、最も高い智慧の表現、最も豊かな経験の表現として、呈示するものである。そして、これら最上級のものどもが言おうとすることは、この智慧あるいはこの経験がそれら自体にとっては、生(せい)の内容を消尽すものとして見えている、ということなのである。事実、ひとつの感覚というものがあるのであって、その感覚においては、生は確かに、ひとつの試練[épreuve]に、ひとつの濾過の次元に、同化されることがある。我々が生において前進する程度に応じて、何が生に抵抗するか、抵抗しないか、何が蒸発し、何が坩堝(るつぼ)の底に残るのかを、我々は一層よく見分けるのである。《いっさいは虚無である》と言う者は、ある経験の名においてしか語ることが出来ない。この経験が文字通りに彼のものであれ、彼が他者の観念的に理解された経験を自分のものにしたのであれ、である。(つづく)