たとえば、「神を求めて」という題で書くことは出来そうだが、その前に自己の全量を求めることがあるべきだと思うぼくは、この題で書くことはしないだろう。それに、神を論じること自体が正当だと思うには、ぼくはあまりにも、沈黙における芸術的創造を通して神の覚知へ向かうという高田さんの姿勢に馴染みすぎている。この欄でも、ことさら神について書いたことはない。それはあまりにもぼくの生と一つだからである。ぼくが書きたいことを書いていれば、それは分かるひとには分かる。そういうものとしてしか神は感得されない。ぼくのいっさいは、神の正しい感得のために捧げられている。しかしあまり神を語らないのもよくないと気づいた。なぜぼくが神を求めるのか。それは高田さんが神を求めるからだ。高田さんも、なぜ人間は神を求めるのか、という問いとともに思索し生きた。ルオーは神への信仰に生きつつ問い、創造した。高田さんの奥様は、ぼくとの電話で、「神はいます」と伝えられた。だからぼくは神を信じている。日本にいるからといって、神を語ることを控えてはならない。それはたとえば教義としての宗派を受け入れることではないのだ。