これはぼくの「経験」としての「判断」なのだけれどね、世に名の識れて地位の確立した知識人だからといって、その言い書くことがすべて「知性」から出ているなんてゆめゆめ思っちゃいけない。ほんとうに信じられないひどい言説、ほとんど人格崩壊を思わせるものがいくらもあるんだ。きっときみも同様の経験があることだろう。きみの「魂」が感じることに信を置いていればいい。それ以外にどうしようもないからね。だからぼくは知識人のお偉方に向って書くのではない。きみのような「人間であるかぎりの人間」に書くのだ。ぼくの体がどうなっていようともね。「魂」から書くんだ。知識人だって自分の「人間」を失っていない限りはぼくは相手にする。でもまあ、かれらはそうとうむずかしいね、そのくらい「謙虚」や「自信」っていうものを履き違えているとぼくは思う。ぼくの先生にたいする世の中の反応からもぼくはそういうことをたくさん学んだ。断言しておくけどかれらは魂から尊敬され敬愛されることはぜったいにない。そしてほんとうの自信がないものだから、自分が「反対」する存在を評価する者には、黙っていることが出来ずに、むきになって潰そうと自分からかかってくる。どうしてせめて沈黙していることができないんだろうか。ああいうものにぼくは悪魔の本性を見る思いがする。ぼくが悪魔と感じているものは、そういうものの霊的集合体なのかも知れない。先生は「本物」だ。ぼくの「思想」の純粋で本当の証びとだ。ぼくはそういう「魂の友情」以外のことをこれから語りたくない。だからここであらかじめ予防線を張っておいた。霊的戦争の様態について触れることはあるかもしれないが、それは決してぼくがほんらい語りたいことじゃない。ここで本質と外野とをはっきりさせておこうと思う。

 これからぼくがどういう書き方をするか、実体は在ってもぼくにも見当がつかない。それがこの欄のぼくにとってもの一番の魅力だ。「盲目になって書く」ところにほんとうの創造が生まれるのではないだろうか。