ぼくの形而上的アンティミスムはぼくの魂にある理念なのだ。「盲目になって書く」とぼくは言った。もし絵画や彫刻、音楽が、あるいは詩歌が、魂の暗闇から次第に形を成して浮かび上がってくるのではなく、或る意識的な原理や計画に基づいて「作成」されるものであれば、それは「魂」から生じたものではなく、「魂」に触れるものでもないのではないだろうか。ぼくは魂から生じて魂に触れるような思想を欲する。それがなお「思想」とよびうるものであれば、ひとつの芸術にきわめて近い。こう言うべきだろう、そもそも魂の思想でない芸術というものがあれば、それは芸術とよべるだろうか、と。ぼくの思想は自ら実現を、実践を欲する思想だ、とも言った。これも同じことなのだ。具体的に実現された「かたち」をもたない芸術というものがあるだろうか。「芸術理論」はそれ自体芸術ではなく、常に具体的創造としての実践を要求するものとしてのみ意味をもつ。しかしその要求される「創造」は、「理論」そのものから「導出」されることは決して出来ないのだ。むしろ「理論」自体が、謂わば一旦忘れられて、「盲目の創造行為」によって「実証」されることを欲している、とぼくは考える。「感動」はそこにしか生まれない。「魂の思想」であろうとするぼくの思想もまったく同じ事情に置かれている。ぼくは「書く」ことによって自分の思想を「証」したい。不断の実証行為としての生にぼくは生きる。それがぼくの「考える人間」としての必然だ。考えることは無為ではなく、実は行為そのものなのだ。「思想は行動なのだ」(アラン)という言葉、また、「芸術は思想をもたねばならない」という先生の言葉を、ぼくはこのように‐自分の全量をかけて‐会得する。