先生がよくお書きになる言葉で「照応」という言葉がある。フランス語の「コレスポンダンス」に当たるようだ。「自」と「他」とが響き合い共鳴することである、と言えると思う。「他」において「自分」の反映を見、確認すること。他者の持っている思想を理解する場合でも、自分の側に、その思想に相応するような「実体」がなければ、すなわち、ぼくが述べてきたつもりの「経験」というものがなければ、理解は本物ではないということ。だから、自分の側に充分な実体が培われてきているのであれば、他者の思想は、そこに自分の経験がひとつの「かたち」となって確かめられる契機となる。そのような相互的な人間精神のいとなみが「思想」というものだ、そう先生や、先生の一番弟子格の森有正氏は言っているのだと(これは解っている方にはほんとうに基本的なことで申し訳ないが)、ぼくは理解している。だから、「理解」に「忍耐」が要るということの意味は、迂闊に生きていてはいけないということなのだ。それをぼくはここで強調したいのだ。「努力」という静かな行為の意味もそこにあるのであって、「楽に解る」ようなものは本物の精神のいとなみには一つも無い、と判断できる。本当に「理解」するためには「自分」に迂回しなければならない。したがって本当に理解できているという「自信」があれば、他者の言葉を引用することも何ら「権威づけ」ではない。そこには自分が全責任を負い得る自分の判断・自分の思想しかないはずだから。ぼくは意識して、そういう状態でしか他者の言葉を引かないようにしているつもりだ。「誰の言葉かは言わない」と言ったことの真意はそこにしかない。曖昧にしか考えていない状態、はっきりと自分の精神で考え詰めていない状態で、他者の言葉を引用することが、何の意味も無い、「お上(かみ)主義」なのだ。他者に「照応」させ得るほどに自己を培うという「責任」をよく心得よう。