物語における行動原理と描写。 | 『Go ahead,Make my day ! 』

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【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

結局、一度も見ないうちに終わってしまった仮面ライダー響鬼ですが。

伝え聞くところによると、途中でプロデューサー交代があって、大幅な路線変更が行われたり、それが遠因となって意味不明の脚本とか、登場人物たちのキャラ立てまでおかしくなってしまったのだそうで、「作品」を作り上げていく上で、一貫したビジョンというものがどれだけ重要なものか、(こちらは個人作業ではありますが)創作者の末席を汚す者として、肝に銘じなくてはいけないな、と思いました。

 

と、まぁ、堅苦しい文章はこれくらいにして。

 

こちら とか、こちら とかで袋叩きにされているヒビキさん。

まるで、まだ逮捕されただけなのにすでに実刑確定扱いの某IT企業の社長のようで、ちょっと可哀そうになってしまいました。

そこで「言うこと弁護士すること詐欺師」と言われたこの私、作品は見てはいませんが、調書(公式ホームページ )と、目撃証言に基づいて、弁護を展開してみたいと思います。

 

取り上げるのは「仮面ライダー響鬼」第47話「語る背中」。

 

オロチを沈める役目を担う宗家の鬼、イブキ。しかし彼は精彩を欠き、音撃棒を使いこなすことが出来ない。ヒビキは彼に、厳しい言葉を投げかける。

そして、清めの儀式の直前。ヒビキはイブキとトドロキに嘘をつき、二人を偵察に出す。そして、イブキに代わって儀式を始めてしまう――。

 

ま、かなり端折りましたけど、状況はこんな感じでしょうか。

えー、ここでのヒビキさんの罪状(?)は、宗家の鬼として死をも覚悟したイブキを騙し、勝手に儀式を始めてしまったスタンドプレーのようですが。

 

ところが、ここでのヒビキの行動原理を「彼は主人公であり、ヒーローである」という大前提のもとに考えてみると、答えは一つしかないんですよね。

 

それは 自 己 犠 牲。

  


鬼達にとっては、魔化魍と戦うこと自体が命のやりとりであり、常に死は意識しているはずです。

その鬼の中でも名門の出であるイブキが「死にたくない」というのですから、清めの儀式がいかに危険なものであるかは想像に難くありません。

しかも、音撃棒を使いこなせないイブキでは、その危険はいっそう高いものに(ここでヒビキが「お前にはムリだ」とか、そういう相手のプライドを傷つけるような説得をしていないことは、注目するべき点です)。

しかし、イブキが宗家の鬼の自負にかけて、どんなに不安でも弱音を吐けないことが、ヒビキには判っていたのでしょう。血迷っても「代わって欲しい」などとは言えないことが。

 

これに先立つ第46話のラストのほうで、こんなシーンがあります(以下、番組HPをより転載)

 

夜、香須実(蒲生麻由)を呼び出したイブキはいきなり彼女を抱きしめる。

 
「少しの間だけこのままでいさせてください………僕はまだ死にたくない……」

 
遠くからそんなイブキを見ていたヒビキは…。

 

この二人が恋仲かどうかは記述が見あたらないので判りませんが、少なくともイブキはこの女性に好意を寄せているように見受けられます。

そして、イブキが吐露した本心。

これで「本人がやると言ったから」とか「吉野が決定したことだし」と言って、イブキを死地に追いやるようなら、ヒーローとしてそちらのほうがどうかしています。

 

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さて、ここからが本題(←前置きが長ぇな)。


公式ホームページのストーリー解説を読む限り、ストーリーボードに私が列挙したような流れ、登場人物たちの動機付けがなされていたことは、間違いないように思います。

では何故、実際に見ている真名さんや藍花さんたちにそれが伝わっていないのか。

何故、ヒビキのトンデモなスタンドプレーにしか見えなかったのか。


そうです。真犯人はヒビキさんではなく、細川茂樹でも勿論なく(当たり前だ)、トンチキな台詞しか書けないバカな脚本家と、見ている人に伝わっているかどうかなんて気にも留めなかった(または「どうせ子供の見るモノだから」とタカを括った)マヌケな演出家なのです。

彼らが作中で、必要な描写を手抜きしたことこそが、全ての原因だと思います。


実はこの一連のストーリーの流れをとにかく筋の通るものにするには、ちょっと設定をいじるのと、あとは1分弱のシーンを挿入するだけでいいんですよね。

それはトドロキくんをヒビキさんのウソの共犯にすることと、その上でトドロキくんからイブキさんにヒビキさんの手紙を渡す → ヒビキ(細川茂樹)による「実は……」というナレーションを挿入することのたった二つ。

それだけで(ま、多少ご都合主義的には見えますけど)十分な説得力は生まれますし、最終回前、最後のクライマックスの戦闘シーンの中心人物が 主 人 公 で は な い という、あまり番組的に美しくない事態も(笑)上手に回避できたはずなのです。


さて、では何故、彼ら(演出家・脚本家)はそうしなかったのか。

予算だの時間の都合だのという生々しい側面は、部外者の想像の域を出ないので置いといて。


おそらく、自分たちが作っているストーリーが、視聴者に伝わっているかどうかを検証するという配慮が欠けていたのではないかな、と思います。

必要なことをきちんと語っているつもりでも、言葉が足りてないことは日常でもよくあることです。

まして、作品という形で語るのであれば、どれだけ語っても語り足りるということはないはずです。そして、その膨大な語りの中から不要な部分を削り落とし、必要なものだけを取り出す作業こそが、創作であるはずなのですが。

最初から語ることを軽んじたり、見る者の目を意識しない怠惰な削りでは、鑑賞に堪え得るものなど出来るはずもありません。
 

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えー、見てもいないくせに最後は糾弾調になってしまって、どう締めたものかと迷っているのですが(笑)。

 

創作というのは、常に読み手の目を意識していないと自分勝手な理屈の、本当に読むに堪えないものになってしまいます。

私もこのブログに自分の作品を載せていますが、いつ「何が言いたいのか分かんない。面白くないよ」とか「アッタマ悪い文章だね。バッカじゃねぇの?」とか、厳しい言葉を書き込まれるんじゃないかと、ヒヤヒヤしています。

別にお金を貰って書いているわけじゃありませんが、少なくとも読んでくださる方には、それだけの時間を費やして戴いているのであって、少なくとも「読んで時間のムダだった」と思われないものを書くことは、公共の場で何かのメッセージを発する人間の責任かな、と少々暑苦しいことをこの記事を書きながら思いました。
 

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追記。


ヒビキさんの行動原理の私なりの解釈を書く上で、真名さんや藍花さんに対する反論めいた書き方になったのも、ちょっと反省しています。どうもアツくなると抑えが効かない九州男児なもんで……。


お美しいお二人(はあと)の寛大な対応を切に願う次第です(笑)