Side−S


足取りが重いのは、泥濘んだ干潟の所為だけではない。


だが…


「まさか、怖気づいたのではあるまいな?」


スオウにそう言われて癪に障ったから、オレは違うと証明するように、マサキの手を引き『翡翠の谷』へと急いだ。



先に入って行った連中の付けた泥が、石段をべったりと汚していて、足元を滑らせないように一歩、また一歩と用心深く下りる。


「…まるで、洞窟だな。」


この先に、山のような翡翠があるのか。いや、よく見ると所々だが、岩肌が少し光っている。



この洞窟の岩という岩全てが、翡翠であるらしかった。此処が『翡翠の谷』と呼ばれる所以だろう。




『これだけあれば、一生遊んで暮らせるぞ!』

『国への良い土産が出来た!』

『待て、お前達!これは全部私の物だ!誰にも渡さんぞ!』

『いや!これは翠の国が所有する物だ!秀の国には渡さない!』


怒号にも似た声が、洞内に響き渡る。



「やれやれ…醜い争いだな。」


スオウの言うそれには、オレも同感だった。



石段を下り、喚き声が近づくにつれ、洞内に光を放つ無数の翡翠が、まるで群れをなすようにどこまでも続いている。その色は緑のみならず、赤、青、紫、黄色、桃色、黒、白。文字通り、色取り取りの翡翠がまるで花畑のように広がり、その光景に圧倒され、思わず…


「…凄いなぁ」


それしか言葉が出てこない。





「ショウ皇子、足元をよく見ろ。」

「えっ?」


松明の灯りで足元を照らせば、争いの末に命を落とした者達の屍が転がっていて、その殆どが朽ち果てている。



「奴等は欲に目が眩んで見えていないようだが、ここは醜い争いを生み出してしまう場所のようだ。」

「……!」



スオウの言う通りかもしれない。現に今、秀の国王と急進派のフウマの言い争う怒号は途切れることがない。



「秀の国王ともあろう者が、この翡翠を独り占めしようとは、いささか了見が狭いのではありませぬか?」

『黙れ、若造!我が秀の周辺の国を手中に治めるためには、この翡翠が必要なのだ!』


「そのために、この翡翠が欲しいと?だから我々と手を組んだのか?」

『貴様のような若造には分かるまい!私がどんなに辛酸を嘗めて、秀の国を大きくして来たことを…。』


「国を大きくしてきたのは、己の欲望に従っただけだろう?それだけでは飽き足らず、この『翡翠の谷』を我が物にするだと?笑わせるな!」

『財力こそが全てなのだ!これは秀の国王である私にこそ相応しい宝の山だ!』



言い争う秀の国王とフウマを見ていると、妙な胸騒ぎがした。




オレはマサキが記憶を失くす直前の光景を思い出していた。



その場所はここではなく、翠の国王との『謁見の間』


翠の国王がお出ましになるのを、オレ達は今か今かと待っていた。


…その場に居たのは


『マサキ』『ジュン皇子』『カザマ』『タツヤ』『秀の国王』『フウマ』…


『秀の国から来た兵士たち』そして翠の国の『急進派』の者たち…


この『翡翠の谷』には、その時に居合わせた者が、ほぼ揃っている。


パズルのピースは、どれかひとつでも欠けていれば、マサキの記憶は取り戻せない。



フウマと秀の国王との間で、翠の国王への謁見を巡って言い争いが起こり、そのうち騒ぎが大きくなり、やがて誰かが剣を抜くと、それは騒ぎの域を越え…




…待てよ。あの時、『謁見の間』には、もう一人…誰かが居た。


…思い出せ。それが誰だったのか、マサキのためにも思い出さなければ…



『言葉を慎み、剣を収められよ!』



…そうだ。マサキの姉上の…『サク王女』だ…


だが、ここには『サク王女』は居ない。その行方は未だに分からないでいる。


その代わりに…今ここに居るのは『スオウ』



「言葉を慎み、足元を見よ!」




…まさか……いや、そんな筈は…



「…サク…姉さま」


「…マサキ?」


スオウに、サク王女を重ねて見ているのか?だが、あれはサク王女ではない。


いや…もし、マサキにそれを言ってしまったら、この場はどうなる?マサキは記憶を取り戻せなくなるのではないのか?それだけは絶対に避けたい。




オレの目の前で一体何が起きようとしているのか、運命の針はどう動くのか…


オレはただ固唾を呑み、その場を見守るしか出来ないでいた。






…つづく。