進歩主義者の考えかた | 気になる映画とドラマノート

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越田清和と北朝鮮

 


 

 越田清和(きよかず)は、1955年生まれアジア太平洋資料センターで、10年以上働き、東チモールで緊急救援、復興支援に関わる。現在札幌自由学校「遊」理事。

 


 

 北海道ピースネット事務局で平和運動に取り組む。

 


 

 越田清和の北朝鮮論、「制裁ではなく、協力を」「政府による国際協力と戦争責任」を読むと、まず基本的に越田清和が、わたしなどからすれば、呆れるほど、まじめだなあ・・呆れるほどまじめだ」というものだ。

 


 

 ※もっとも、護憲、平和に納得しないからと言って奥さんをぶん殴るという話があるし、井上ひさしは、良い作品を書くストレスのウップン晴らしに奥さんを肋骨が折れるほど殴る蹴るして、それは編集者には、有名だったから、遅筆の井上ひさしに原稿を書いてもらうために、編集者は、奥さん、殴られてください、と頼むのが習慣だった、となぐられた妻本人が手記に書いている。

 


 

 だから、越田清和のまじめさが、どこまで本気なのか、わからないが、この文章を読むかぎり、とにかくまじめ・・・というより、日本と日本人に立派な良心的行動を求めてやまないのが、越田の態度なのだ。

 


 

 まるで、越田は日本人全員が大塩平八郎か、マザーテレサのような聖人聖女にならなねれば気が済まないような雰囲気を醸し出している。

 


 

 考えて見ると、左翼というのは、香山リカ、福島瑞穂、大江健三郎、村上春樹はじめ、皆、「ものすごい」まじめな考えをしているのである。

 


 

 たとえば、村上春樹本人が言ったかどうか知らないが、朝鮮日報では、村上春樹は、「日本人は韓国人が、もういい、というまで、謝罪し続けるべきだ」と言ったことになっている。なんというまじめな言葉ではないか。

 


 

 現実になにか、他人に迷惑をかけたかけないという場合、「相手が許してくれるまで謝ります」なんて言うひとがいたら、さぞかし、ポカーンと口をあけて、まじめだなあ、バカまじめだなあ、と世界中どこの人でも呆れるのではあるまいか。

 


 

 越田清和がいかにまじめかというと、「日本は国家としての戦争責任問題を考えずに、賠償を戦後処理としてのみ、考えてきた」(ちゃんと戦争責任を痛恨の念と罪責感のもとに生きるべきだった、と言う。)まじめだなあ。

 


 

 なぜ、越田清和が「まじめ、バカまじめか」というと、実際には、この世界には、真底、

 

加害国としての謝罪と贖罪の気持ちを持った政治家など、どこの国にも存在しないし、革命をして、政権を奪取した後に、トップについた後に、宮沢賢治の雨にもマケズ、風ニモマケズ」みたいに、民衆の幸福の事を考えて生涯を終えた政治家も、現実には存在しないのだが、越田清和は、そうではない日本と日本人が不満で不満で仕方がないのだ。

 


 

 たとえば、越田清和は、戦後、日本の旧軍人への恩給と遺族補償は手厚く、東南アジアへの補償は低い、というのだ。これも、真面目だなあ・・と思う。

 

 まったく、わたしには、そんな聖人君子に日本も、韓国も北朝鮮も中国もなれるとははじめから思わないので、イヤー、まじめだなあと思うだけで、なんぼ越田が日本の戦後賠償が足りなかったと並べあげても、ちっとも共感しないのだ。

 


 

 正確にいうと、人間、日本人にかぎらず、どこの国でも、過去の国の罪責を正確に調査する事自体、かなり困難な作業で、もう、面倒臭くなって、とんでもなく悪うございました、と言ってみたり、あれも悪くない、これも悪くない、と言ってみたりするのが普通で、、その普通を越えて、正確にどの程度悪くどの程度謝罪賠償するかを割り出すのは、かなり難しい、ということを越田はわかっているのだろうか。

 


 

 その証拠に、アメリカ政府は、2000年に入ってから、在米中国人団体の要望に答えて7年およぶ期間と調査要員に要するコストをかけて、日本軍の戦争犯罪を調査しなおしたのだが、従軍慰安婦性奴隷の実態を証拠立てる公式文書をついに発見できなかったのである。

 


 

 また、ドイツはドイツ国民全体としての罪というのは認めていない。というのも、ヨーロッパの一神教では、罪とは、個人が負う者で、国民が負うものとはまったく考えられていないからである。

 


 

 同様に、英国も、香港統治について、香港の近代化に貢献したとは主張しても、謝罪しなければいけない、と言っていない。

 


 

 つまり、越田清和、大江健三郎のように、「日本人」が「植民地支配」の責任を認めるというのは、まったく世界に例のない道義性の国民レベルでの実現、まるで日本人全体そのものがキリストの生まれ変わりのような異様な状態の実現を目指しているのである。

 


 

 越田清和の異様な目標の例

 

 1.民衆間の連帯的関係を基礎とする「民際協力」を作り上げていく。

 

 ※こんなのは、ありえない。世界中、どこの国の民衆もそれぞれの職を持ち、時にスポーツを観戦して興じたり、テレビや映画を見たり、歌を聞いたりしているのであり、ごく少数の例外的な人びとが、ボランティア活動をしている。

 


 

 「民衆間の連帯的関係を基礎とする「民際協力」」などまったくの空論である。

 


 

 2.越田清和は、2002年の日朝平壌宣言で「過去の植民地支配によって朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明」した・・・だから、北朝鮮を経済援助するべきだ、という。

 


 

 しかし、越田清和は気づいていない。日本政府は、「金を出す約束の伴わない、口頭の約束だからこそ、 痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明した」そういう小狡い政府なのではないか、と。わたしなら、国って、ずるいから、口先だけで謝って済むなら、いくらでも謝りますよ、というつもりだったんだろうなあと思うが、越田清和は、おおまじめに、謝ったのなら金を出そうという。そういうくそまじめな人間は怖い。いったい金は湧いて出てくるとでも思っているのだろうか?

 


 

 3.「植民地主義と人種差別主義に対する謝罪と補償」という視点に立って北朝鮮の経済援助をすべきである、と言ったって、わたしも、国もそんな善人じゃないから、そんな提案をきくものではない。

 


 

 だいいち、越田清和自身が、2001年に南アフリカのダーバン会議で、「反人種主義と差別撤廃世界会議」が開かれたその結果を紹介している。

 


 

 結果は、「謝罪と補償」をめぐって、激しく意見が対立して、合意が得られなかった。

 


 

 なあんだ、とわたしは思う、世界の会議で、謝罪と補償の合意が得られたのなら、日本は、恥じて、早く謝罪と補償をしなくてはいけないと切迫感にかられることもあり得るかもしれないが、会議途中に代表団がひきあげるくらいの決裂ぶりなのである。

 


 

 結果、どうなったかというと、奴隷性に対する人道的罪は認めるが、謝罪と補償はしない、ということになった。

 


 

 ならば、小泉首相が、「 痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明」をしたからと言って、補償するわけがないではないか。

 


 

 他国がしなくても、他人はしなくても、自分がそうするというのは、聖人の振る舞いであり、ましてや、その金は、越田清和の金ではなく、日本人全体が、工夫と努力を重ねて貯めた金なのだ。決めるのは、越田や大江健三郎のような聖人ではない。

 


 

 道義的責任をしぶしぶ認めたということを、越田清和が非難するのも、まるで子どもが親の仕事のために時にはずるい事をするのをあくまでも追及して、家庭内暴力をしてでも、反省させるようなもので、異様にまじめなのだ。

 


 

 越田清和は、ダーバン宣言が「アフリカの植民地と奴隷の人身売買の被害を訴えたものだが、日本も似たようなものだ」と言うが、冗談ではない。どこの世界に、凶悪犯罪をした者への糾弾の様子を見て、親兄弟に、あんたも似たようなものだ、反省しろ、あんたの場合は謝罪賠償もしろ、という者があるだろう。いたら、家庭内暴力のドラ息子かひきこもりだけだろう。

 


 

 4.越田の「きちがいじみたまじめっぷり」が炸裂するのは、まるで関係のない国のアフリカ人をアメリカや英国の奴隷商人がいきなりとっ捕まえて、1人いくら、という値段をつけて売買したことと、当時日本人だった朝鮮系日本人を徴用令によって、労動の就業させ、給与を払った事を同じだというのだから、驚き呆れる。

 


 

 「奴隷」と「強制連行」とは、同じだというのだが、そもそも、金銭の支払いのある労動が「奴隷」なら、サラリーマンも、いやな仕事でも、がまんしてやらねばならない点で「強制連行」であり、「奴隷」になってしまう。なんと、「くそまじめ」とは恐ろしいことか。

 


 

 5.越田清和は、自分でダーバン会議は、補償は決裂したとはっきり言っておきながら、

 

「ダーバン会議にでの動きを視野に入れると」と何が視野なのかわからないが、無理やり、言いくるめて、日本政府は「道義的責任を含めて」北朝鮮に経済支援をするべきだ、というのだから、こうなると、もはや、当たり屋、やくざの補償金詐欺、恐喝の屁理屈だ。

 


 

 現実には、世界では、補償は決裂したのに、勝手に「動きを視野に入れると」と言いくるめようというのだから、これでは、鬼の形相の詐欺師ではないか。

 


 

 旧植民地に対する経済援助は、本来ならば、「道義的責任を含んでいる」はずであるが、というのだが、そんなふうに思うのは、病的にまじめな人間、しかも、金持ちだけである。いっしょにしないでほしい。日本は日本人の老人や難病の福祉だけでも大変なのに、越田はくれてやろうくれてやろうというのだから、驚く。

 


 

 6.越田は、アジア太平洋資料研究センターという左翼の民間団体が、「フィリピン、インドネシア、パキスタン、バングラデシュなどのNGOが参加して、次のように声明を出したという。「すべての人びとを対象にした繁栄の実現」と。

 


 

 頭がおかしいのではないか?これが、日本、アメリカ、などの援助する側が言うなら、わかる援助される側のNGOが集まって、「すべての人びとを対象にした繁栄の実現」というのは、これ、はっきり言って、寄こさないと怒るぞ、こら、としまいに恫喝しているのだ。これでは、「フィリピン、インドネシア、パキスタン、バングラデシュ」の人びとは、先進国からの援助金をあてにして、自分で壮絶な努力をするという道を閉ざすことが越田らのアジア太平洋資料研究センターのスタッフにはわからないらしい。善意の押し売りで、わたしらが、あなたがたのために、先進国から、金をふんだくってあげるから、待っててね?というわけだ。まじめだなあ。

 


 

  平和的生存権にもとづく国際協力という打出の小槌をふるえば、植民地主義の罪障感とともに、なんぼでも、先進国の懐から、貧困国の人びとに経済援助を送ることができると越田は考えているのだ。これは、越田は、自分では富を生み出さず、理屈と交渉力によって、金をだせようとしている事実において、経済ブローカーにほかならない。

 


 

 わたしは、今後も、「戦後責任論」の著者高橋哲哉や大江健三郎、越田哲哉らに、次の本質的質問をなげかけたい。

 


 

 「わたしたち日本人が自分自身の生き方と被害者の生き方とを重ねあわせながら、日本国家が隠してきた歴史の空白を被害者とともに、取り戻し、被害を及ぼした原因と被害者に対する責任を問うことで、自分たち自身も力をつけていく」

 


 

 わたしの記事に「自己正当化」とコメントした人がいるが、では、あなたは、上記のような崇高な生き方を実行出来るんですか?もう一度よく読んでください。赤色部分をといいたい。。

 


 

 日本人の大部分が、そんな立派な生き方、できねえー。と言ったら、越田や高橋哲哉や大江健三郎はなんと答えるのだろうか。

 


 

 赤字に書いてあることを実行できるなら、わたしのような考えを「ひどい自己正当化」というべきなのだ。

 

 ここまで、書いてきて、わかったが、越田や高橋哲哉や大江健三郎の言っていることは、AKB48のおっかけをしたり、毎日仕事が終れば居酒屋でしゃべったり、カラオケをしたりして、一生を過ごす人は、無価値であり、日本と在日朝鮮のかけはしになるボランティア活動をする生き方はすばらしいという事になるのである。

 

「民衆が主体となった北朝鮮民衆との連帯の地道な努力を私たちは思い起こす必要がある」という言明に、わたしは断固反対する。ひとは、なにに関心を持ち、何に関心をもたなくてもよい。ダンスに明け暮れようと、映画ざんまいでも、市民ランナーとして、まるで政治に無関心でもよく、「私たちは思い起こす必要がある」なんて事はない。過去歴史に無知でもかまわないし、また、たいていの人は無知なのだ。

 


 

 もっと言えば、自治体において、選挙で投票した有権者が、役所でどういう政策をとっているか、よほど自分の利害に関わる事以外に、内容は知らない。

 

 家業に忙しく、知る必要もない。だからこそ、代議員を選んでいる。

 

 マスコミや野党が国民への説明が不足している、というのは、単にマスメディアの報道担当者の気にいらない政策だから、その点を強調したがるだけで、どんな国の国民も、いちいち、政策を吟味しているものではない。