ざくざくと踏みながら
連なる日にちという葉っぱの山のような線路をざくざくとけっこうな音を立てて踏みながら進んでいるなあここのところ、、といま思いました。そんななか怖いということについて思うことがなんどかありました。たとえば本番が怖いと思うときまったくどういうわけだろう?それで命が尽きるわけでもないし人はミスをするものだし人さまは案外本人ほど気にしていないものなのにしかしお客さまをかぼちゃと思えばいいというのはなんというか腹立たしいというか。というのも失敗したと本人は思っていて思うようにできないと、それで落ち込んでもうやめようかと真剣に悩む、、、というのもそれから受験生が合格発表を見るのがさほど怖くない学校と怖くて怖くてどうしても見られない学校があるというのもなんでだろう?と思ってきたけれどそれだけ真剣で、だいじにしているということなんだと実感しています。人はやっぱりだいじなものは失いたくない。片足をひょいとひっかけてぶらんぶらんと楽しんでいるものが壊れてもそんなに打撃は受けないしやめるときも悩まない。。だから怖れを持つようになってからがある意味始まりなのかもしれないけれどしかしいっぽうでなにかに固執するとき人はダイナミックな命の流れを失い想像力を(ひいては創造力もきっと)失うのだそうです。先週観に行った映画「サティシュの学校」のなかに刺さる言葉はたくさんあったのだけどこの、なにかに固執するとき、、はわたしにとって街灯のような言葉になりそうです。帰り道