想いの道 ~会長の独り言~ -5ページ目

会長の独り言『夏が来れば思い出す』

親父が会社を起こしたのは1956年の事です。多分いすゞの中古トラックだったと記憶している。社名は末永運送。1945年生まれの僕が11歳の時。これはロジテム九州が法人として会社スタートした時であり、実はその5、6年前から個人事業として白トラ営業をやっていた。創業の場所は今の福岡市中央区白金、当時は福岡市向田町57番地です。母方の祖祖父、僕の曾祖父さんが大きなお百姓さんで、畑の一画を潰して車庫用地として借り受けて始めたのです。僕が生まれ育った家も爺さまの持ち家で、いまだに健在です。周囲は今は大きなビルなどに囲まれていますが、昔ながらの姿で生きながらえています。

古い社員の人はご存じでしょうが、僕には3人の弟がいます。それも年子。ですから僕が小学校4年の時は、弟達は3年、2年、1年生。その時代は子供の数は多かったのですが、4人連れ立って通学する姿は通った高宮小学校でも目立っていました。団塊の世代と言われるのが弟達です。

夏が来れば思い出すのが、両親と行った海水浴のことです。トラックの荷台に柱で枠組みして、シートで覆った即席キャンピングカーで生の松原海水浴場によく連れて行ってもらったものです。当時は車の数も少なく荷台に人が乗っても何のお咎めもない古き良き時代でした。6年の時に親父がイギリス製のオースチンという中古の乗用車を買いましたが、高宮小で自家用車がある家庭は3軒。そのうちの1軒が我が家でしたから、嬉しかったものです。でも我が家はそんなに裕福では有りませんでしたよ。

1台から始めた運送会社も徐々に軌道に乗り始めてきました。当時の僕の毎朝の日課はトラックのエンジン始動のお手伝い。夏場はいいとして冬の寒い朝はエンジンの起動が悪く、トラックのフロントで起動を促すクランクを回す仕組みになっており、小学生の力では中々きついお手伝いでした。中学校に通う頃には毎朝の通学前の義務は配車表に行き先と運転手の名前を書く事。よく鍛えられました。

あの頃のトラックのエンジンの唸り声、匂いは今でも鮮明に脳裏に焼き付いて離れません。白金から箱崎米山町に移ったのが中学3年、そして東区社領に移転し、今の箱崎埠頭へと繋がっているのです。64年の簡単な変遷でした。会長の独り言と言うよりボヤきでした。終わり。