「こんな時に」
って言葉を、SNS上で見かけることが多いかな。
9年前の震災後の時とは違う、
頑張って復興しよう、とは間違いなく違う。
頑張ろう、気をつけよう、って呼びかけるコメントや動画もあり、
他方では、どうなるんだ、どうなってるんだ、と鬼気迫る様子も。
国は、首相は、知事は・・・
支持政党はどこかとか、そういう話に触れるつもりではないです。
ただ、当たり前のように、
当たり前にできてたことができなくなってたり、
当たり前に思っていたことがそうではなくなったり、
当たり前に手に入りそうなものが入らなくなったり、
という現実と直面しているわけです。
(緊急事態というのはそういうことですよね、と)
せっかくの花見の季節なのに花見ができなかったことも、
行ってみたかったところに行けてないことも、
個人的にはそんなに落ち込む要素ではないのですが、
ちょっとずつ(ちょっとではないかな)変わってきている生活が、
いろいろと思いを巡らせます。
アメブロの機能で、
「○年前にあなたが書いた記事です」
と、頼んでもいないのに(笑)過去の記事が表示されて、
何気なく読んでみると、
他人事のようにふむふむと思うこともあって、
「話し相手」って記事がちょっと刺さりました。
ひとりで会社やってると、
実はお金よりも必要なものは「話し相手」だと、
誰かに聞いたのかネットで見たのかは覚えてないのですが、
「話す」という行動をしないと代謝も悪くなる気がするし、
全ての判断基準が自分になるのは危険な場合もあるし。
そんな当たり前のようなこと、
何年か前のブログで見て思い出すわけです。
50代・独身・実家暮らし(誰が呼んだか「5DJ」)なので、
今は家族と自宅にいることが多いです。
外食ばかりしていたのですが、当然のごとく家で食べます。
料理も少しは手伝うし、後片付けや食器洗いは率先してします。
しかし、シンクの高さと私の体が合わないせいか、
食器洗いを延々していると腰に来ますね。
家事は大変だよな、母には申し訳ないなと
当たり前のことを実感します。
当たり前が当たり前じゃないこともわかっているつもりだったし、
当たり前がこの先も当たり前じゃないこともわかっているのですが、
(連呼してすみません)
そう言いながらも、
心配性で、もしうまくいかなかったらと考えるタチの私が、
決してのんびりと過ごしているわけではない中で、
喜怒哀楽とか当たり前の感情を、
無闇に抑えなくてもいいのかなと思ったりするわけです。
こんな時だから、と言わず、
面白いことがあれば笑えばいいし、
悲しいことがあれば泣けばいいし、
頭にくることがあれば怒ればいいし、
叫びたい名前があれば叫べばいい(「ルメール!」記事参照)
のかな。
時は戻らず、前に進んでいくだけなので、
前を向いて生きていくしかない。
いつかの自分に戻ることも、
何かを取り戻すこともできないと思うけれど、
当たり前のように自分にできることがあるならば、
頑張っていきましょう。