悪魔理論の成功者代表格は、白州次郎でしょうか?
白州次郎の本性を知る前の書物やテレビ報道やプロパガンダドラマに汚染されていて熱狂的なファンの時が私にもありました。

以下転載

白洲次郎が「日本一かっこいい」「風の男」としてもてはやされる一方、
山本五十六が「売国奴」「骨の髄までフリーメーソン」と非難されている。
私は白洲次郎とは「日本一ウサンくさい」「悲惨な男」だと思う。

昨今もてはやされている白洲次郎の言動とは、
もともな人間形成に欠けた子どもが、
矯正されてエージェントにさせられ、
プライドを持てない人生を送らされ、
生涯隠さねばならなかったその素性と、
コンプレックスの裏返しの虚勢であると私は思う。

そもそも白洲次郎こそ真珠湾攻撃と山本五十六のプロパガンダ工作の元祖なのである。
『いろおとこ』『ワシントンの桜の下』の仕掛け人は白洲次郎である。
五十六暗殺工作に海軍主計・中曽根康弘を使った元締めも白洲次郎である。

さてジークムントは1925年ロンドンに出て、
N.M.ロスチャイルド父子銀行で見習いをしながら、
ケンブリッジ大学で経済学を聴講している。
次郎がケンブリッジを1925年に卒業し、
1928年に白洲商店の倒産で帰国するまでの3年間、
密かに接触していたと思われる。
間を取り持ったのはロビン・ストラッドフォードだろう。
私はロビンも次郎と同じ身の上にあったと思う。
二人のオイリーボーイは『卒業旅行』に出かける。
その先にジークムントが待ち構えていたのだろう。
次郎はロビンとは終生の付き合いをしたという。
二人はお互いの傷を嘗めあう唯一の友だったと思う。

しかしジークムントは次郎と同じ年である。
そこでもう一度ウオーバーグ家の人間を調べたところ、
次郎の養父・白洲文平と接触した可能性のある人物がいる。

ウオーバーグ家にはアルスターウーファーとミテルヴェークの、
二つの家系に分かれていて両家は家風も気質も違うらしい。
ミテルヴェークのウオーバーグ家は有名な五人兄弟を輩出しているが、
長兄アビー・M・ウオーバーグが一人だけプーなのである。

そしてアビーはオッペンハイム家の出身の母親の風采を受け継いでいて、
髪が黒く肌も浅黒く目は暗褐色で子どもの頃の写真はアラブ人のようである。
次郎の親友のロビンの回想によるとケンブリッジ時代の次郎は、
色が浅黒く彫が深いので「アラブ人」で通していたという。

無理矢理にケンブリッジに行かされた次郎と違って、
アビーが一族でただ一人だけボン大学に行ったのは、
みんなの反対を押しきってのことである。
ボン大学で美術を専攻したアビーはその後一度も定職につかず、
親と弟たちにたかる生涯を送っている。

アビーがボン大学に入学したのは1886年。
白洲文平は1868年生まれでハーバード大学からボン大学へ留学。
ほぼ同時代の出来事として考えられる。
樺山愛輔もアマースト大学からボン大学へ留学して文平と学友になる。
アビーと文平と愛輔はボン大学で接点を持っていると思われる。

文平は次郎を引き受ける見返りに、仕事の成功を約束されるたのだろう。
金の卵の次郎をイギリスへ留学させるまで、たかだか25年間甘い夢を見るのである。
ボン大学の学友である文平と愛輔は、後年お互いの子どもを結婚させる仲でもある。
次郎本人もエージェントとして養成されたが、養父もエージェント、岳父もエージェント、
という図式が見えて来る。

アビー・M・ウオーバーグについては、
ロン・チャーナウ『ウオーバーグ ユダヤ財閥の興亡』に写真が載っているので参照されたい。
但しチャーナウはユダヤ財閥たちのポチらしいので、プロパガンダの記述には注意されたい。
風貌や経歴についてプロパガンダではないと思われる箇所から抜粋する。

『ヨハンノイム実科ギムナジウムに在学中の、十三歳のアビーを撮った写真を見ると、金色で色白の級友たちに交じって、彼の浅黒い髪と肌色に加え、顔の表情が目立つ。アビーは、一目見たらいつまでも忘れられない風采をしていた・・その暗褐色の目は、楽しげに細まったり、怒りでかっと見開いたりした。』

『生活を一家に頼っていたにもかかわらず、陰気なアビーは依然として弟たちの頭を抑えていた。彼にかかると、弟たちは催眠術をかけられたように言いなりになる有様であって、みんな威張ってはいたものの、兄の前ではどこか怯えて気圧されるところがあった。』

アビーはインデイアンに異常なほど興味を持ってアメリカの奥地に旅行している。

『のちに弟のマックスは、アビーのアメリカ南西部インデイアン調査旅行が、兄にとって決定的な出来事であった、と言った。』

アビーはインデイアンに親近感を持つ。
しかし1897年にハンブルクに戻るとアビーはマリーと結婚する。
マリーは1899年に長女を出産、白洲次郎が生まれた1902年にも長男を出産、
最後に1904年に次女を出産している。

しかしアビーとマリーの結婚生活はどうだったのか。
夫妻は1897年から1904年までフィレンツエに滞在している。
チャーナウは奥歯にものをはさんだような書き方しかしないが、
夫婦の間に軋轢が生じているのを目撃した女性客がいる。

『アビーとマリーの結婚上の最大の問題は、夫アビーの極端な自我没頭と精神不安にあった。フィレンツエ時代(1897~1904年)にすでに、彼は、慢性的な不安に苦しめられていると感じていた。当時、フィレンツのアビー邸を訪れたある女性客が、結婚したばかりの頃の彼の痛ましい姿をはっきりと書き残している。その時のアビーは三十三歳であったが、もうすでに彼の心は精神錯乱と正気の間を行きつ戻りつしていたのである。』

アビーは1905年にボン大学の講師になるべく帰国する。
不首尾に終わるがこの時期にもボン大学に関わっている。
文平と愛輔と関わる可能性があるのはこのアビーである。

ジークムント・S・ウオーバーグについては、
徳本栄一郎氏が貴重な手紙を発掘している。
1981年6月4日付けジークムント・ウオーバーグから白洲次郎宛。

『親愛なる次郎、我々が友情を結んで以来、最も有意義で満足感のある職務とは、
よき若者を教え導くことだった。』(『英国機密ファイルの昭和天皇』より)

よき若者を教え導くことに最大の意義と満足感を覚えるジークムントは、
自分が所有するスイスの製薬会社でLSDを開発させた人物でもあった。
甥のジミーはこのLSDを使って、かの悪名高きCIAのMKウルトラを考案している。

そもそもFRBの創設者であるポール自身が、第一次世界大戦ではドイツ諜報機関の代表。
兄のマックスも1919年パリ平和会議のドイツ代表。
ウオーバーグ一族はインテリジェンスとしてシナリオに深くかんでいるようである。
このような一族の隠し玉として白洲次郎が使われたのである。

ユースタス・マリンズ著『民間が所有する中央銀行』より以下抜粋。

『過去65年間の合衆国における心理学の発展のほとんどは、英国陸軍の心理戦争局(Bureau of Psychological warfare)によって指示されたものであることを知っているアメリカ人はほとんどいない。ほんの少しまえ、著者は新しい名前、タヴィストック人間関係研究所として知られているロンドンのタヴィストック研究所を知った。「人間関係」は人間行動のあらゆる局面を網羅し、タヴィストック研究所の穏当な目的は、アメリカ市民の人間行動のあらゆる局面を支配し影響力を行使することである。』

『タヴィストック研究所グループは、第二次世界大戦中に戦略事務局(OSS)、戦略爆撃調査部、連合国遠征軍最高司令部などの重要な米軍グループの全員を組織・訓練した。第二次世界大戦中、タヴィストック研究所はロックフェラー財団の医学部門と合同で、意識改革の薬の秘密の実験を行った。現在の合衆国の麻薬分文化はこの研究所に源を発し、この研究所は中央情報局(CIA)のトレーニング・プログラムを管理した。』

『LSDカウンターカルチャーが発生したのは、S.G.ウオーバーグ商会所有のスイスの医薬会社のサンドス.A.Gが、リゼルグ酸からLSDと呼ばれる新しい薬を開発したときである。ジェームズ・ポール・ウオーバーグ(1910年に連邦準備制度を作成したポール・ウオーバーグの息子)は、政策研究所(IPS=Institute of Policy Studies)と呼ばれる合衆国にあるタヴィストック研究所の支部機関の資金調達を行った。ジェームズ・ポール・ウオーバーグはCIAプログラムを設計してLSDの実験を行った。そのなかの何人かはのちに自殺を図った。MK-ウルトラと呼ばれ、ゴットリーブ博士が指導を行ったこのプログラムは、犠牲者たちの家族による合衆国政府に対する巨大な訴訟を引き起こした。』

白洲次郎はケンブリッジを卒業してから3年間何をしていたのか。
空白の3年間についてどの伝記本にも記載がない。
鬼塚氏によるとジークムントは次郎を要人たちに引き合わせ、
チャーチルやMI6の長官が出入りする最高級のクラブの会員にしたという。

チャーチルも連中の忠誠な犬として生涯を送っている。
キッシンジャーも発狂寸前の凄まじい洗脳プログラムを受けて、忠誠を誓わされたという。
白洲次郎にもMKウルトラに先行するプログラムが組まれ実施されたと私は思う。
なぜならお坊ちゃん育ちで潔癖症の次郎が、ヘドロのような連中のエージェントになるには、
LSDによる得体の知れない人格変容プログラムが必要だったと思うからである。
3年後、白洲次郎はジョン・シラスとして帰国する。

吉田茂は1921年からイギリス駐在員だったのですでに打ち合わせ済みだろう。
日米開戦のシナリオ通りに五十六が連合艦隊司令長官に任命され、
吉田茂が終戦まで現役を退き水面下で秘密工作を謀る。
このほとんどすべての背後に白洲次郎がいるのである。

日米開戦直後からヨハンセングループを代表して国家機密情報を流し、
山本五十六、尾崎秀実、近衛文麿、近衛文隆、おそらくもっと沢山の要人を暗殺、
山本五十六にはプロパガンダ工作も仕掛けている。
『ワシントンの桜の下』『いろおとこ』の背後にいるのは次郎である。
海軍の者が河合千代子の妾宅に行くと山本五十六がどてらを着て現れた、
というガセを流させたのも次郎である。

白洲次郎とは何者か。彼は生贄の子どもである。
ユダヤ財閥ウオーバーグ家の長男の庶子として生まれながら、
言語を矯正され人格も変容され汚れ仕事をさせられた悲惨な男である。

私は昨今のブームが不思議だ。
エージェントとして暗躍したことは抜きにしても、
白洲次郎はひとり日米開戦と東京が焼け野原になることを予告し、
特権階級ゆえに徴兵を忌避して、家族と鶴川に疎開しているが、
これが「先見の明がある」と『プリンシプルのない日本』の中で、
辻井喬や今出海らに喝采されている。
みんなが出来ないことをしていると。
それは当たり前である。みんなは徴兵忌避したら逮捕される。

白洲次郎はまた、
「占領を背負った男」「GHQに従順ならざる唯一の日本人」
と讃えられている。
それはそうだ。ザ・オーダー直々のエージェントである。
GHQの方が吉田&次郎を恐れるべきである。
マッカーサーはその辺のところを分って吉田茂と付き合っていた思う。

鬼塚さんはマッカーサーだけがハリマンと堂々と渡り合い、
他の奴らはみんな宦官だったと述べているが、
私はマッカーサーも解任直後から宦官の仲間入りをしたと思うようになった。

逆に魂を売り渡していたルーズヴェルトは、
戦争を長びかせて金儲けする連中に嫌気が差し、
宦官をやめようとしたため、ヤルタ会談で暗殺工作をされている。

まずルーズヴェルトの健康にとって最悪の地であるヤルタを会談の場所に選び、
リヴァデイア宮殿のかつてのロシア皇帝の寝室を宿泊所に差し出す。
銃殺刑にされたニコライ五世が使っていたベッドを提供したのである。
私は悪い冗談だと思っていたが、アイクによると舞台設定に凝るのが連中のシュミだという。

米国への帰途の船中で側近のホプキンスが重態に陥りヘリで病院搬送、
残ったワトソン大佐は急死、ルーズヴェルトも人事不省に陥っている。
奇跡的に持ち直した彼は覚悟したのだろう、別荘へ休養に行った先で急死している。
私は自殺ではなく暗殺されたと思う。

鬼塚英昭著『20世紀のファウスト』によると、
ヤルタ会談の詳細を書いたステテイニアス国務長官も解任され、
しばらくしてから暗殺されているのである。

そしてまた鬼塚氏は『原爆の秘密 国外編』で、ルーズヴェルトが急死する一ヶ月前に、
アメリカ陸海軍内で原爆投下を阻止するクーデターが起きようとしていたことを述べている。
心理戦による日本の降伏を狙った『作戦計画I-45』である。

『私はこの「作戦I-45」こそ、フォレスタルとキング提督、デーヴィス、ザカリアスたちが仕掛けた一種のクーデターだったと思っている。それは原爆投下を知った彼らが、原爆投下を阻止する動きに出たと信じるのである。』

『なによりも、ルーズヴェルトに彼の考えを修正してもらわないといけなかった。それで、この「日本占領実施に関する戦略的計画」と「作戦計画I-45」の文書が、エルマー・デーヴィスに渡され、彼を通じて、当時ハイド・パークで休養中であった大統領のもとへ廻されたのである。』

『フォレスタルはルーズヴェルトにザカリアスの計画書を送った海軍長官である。この日記(ステイムソンの日記。副官が”最近出された大統領命令”のことで、フォレスタルとステイムソンがスミス予算局長と会見する段取りをつけようとしてきた云々、という記述がある)を読むと、ルーズヴェルトは”あの計画”を承認する大統領命令をすでに出していたのではと思えてくるのだ。ステイムソンはフォレスタルとスミスの会談が破局に至った経緯を詳しく書き留めている。ステイムソンとフォレスタルの間に確執があったことが読み取れる。そして、ルーズヴェルトの死である。』

つまりルーズヴェルトはOKを出していたのであるが、
「私は大統領をやめたい」と呟いてウオームスプリングの別荘で急死した。
それは自殺であると鬼塚さんは示唆されているが、私はやはり暗殺であると思う。
ルーズヴェルトは殺されることを覚悟の上で、
今までやってきたことの罪滅ぼしをしようとしていた。
すでにヤルタでも暗殺されかけていたが、しかし最善を尽くそうとしたと。
原爆投下阻止のクーデターを起そうとしたフォレスタル海軍長官も、
後に野戦病院で暗殺されている。

一方マッカーサーは朝鮮戦争で苦杯を嘗めたあげく解任された後は、
連中に逆らうことをやめにしたのだろう。
寄らば大樹の陰の優雅な人生を送ることに決めたようだ。
彼はアメリカに帰国すると国民に歓呼の声で迎えられる。
そして凱旋パレードと演説を済ました後、
ニューヨークのアスター家所有のホテルに落ち着くのである。

世界最高級のウオルドルフ・アストリアホテルのスイートで、
老兵は死なずにジーン夫人とともにリッチな余生を送る。
そしてアスター卿に骨抜きにされたチャーチルと同じように『回顧録』を書く。
あの有名な昭和天皇の「私の全てを委ねに参りました」という嘘八百のシーンを。

白洲次郎のカッコいいキャッチ・コピーも似たようなものである。
次郎&正子のプロパガンダ本や写真集や武相荘(ぶあいそう)の洒落た佇まいと、
東京大空襲の焼死体の炭化して真っ黒焦げになった母子の写真を比べて、
誰かが言わないとあまりにも理不尽だと思って私が言う。

『武相荘』は東京大空襲の悲惨さと対極にある不謹慎なシロモノである。
観光名所のようにしたり、そこで高級弁当を予約して食ったり、
次郎&正子愛用のコピーグッズを買って喜んだりするような所ではない。

『武相荘』とは最高国家機密情報を流し続けた無線基地であり、
原爆投下までシナリオを演出した売国奴たちの出先機関である。
その総指揮をとったのが吉田茂である。