この仕事の依頼を受けたのが、2月19日仙台のこと。

人選については色々あった末、自分が行くことになった。

 

会津若松。

この土地については、思う所が色々ある。

仕事で行ったことが1回。プライベートで行ったことが1回。

ただ、その時はいずれもこの土地を意識してのものではなかった。

 

会津といえば白虎隊。

お邪魔するにあたって、その背景を知らないといけない。

なので少し調べてみた。

 

すると・・

知らないこと、興味深いことがたくさん。

ペリー来航から鳥羽伏見、戊辰戦争、江戸城無血開城、会津の戦い。

会津の人々の教育。

 

どっぷりハマった。

寝るまえにこの関連の動画を毎日見た。

幕末の動乱は、切り口によって全然違う物語になる。

 

3月23日

会津に前泊、先方の社長と夕方打ち合わせの約束をしていた。

 

ただ、なるべく早くいきたい。

半日でも、これまで知った会津のその現場に立ってみたい。

朝7:00に家を出て、会津に向かった。

 

郡山11:00過ぎ。

ここまでは順調だった。

そこからの磐越西線、遠い昔に乗ったことがあるはずなんだけどまったく記憶になかった。

 

めっちゃ普通の在来線で、乗客がかなりいた。

会津までの75分。ずっと立っていくことになろうとは・・。

 

会津若松着12:31。

たぶん、この30年の間に駅舎も変わったんだろうと思う。

 

まずは昼メシだ。

事前の調べによると、どうもソースカツ丼が名物らしい。

ということで。

 

創業120年、マルモ食堂にて、ソースカツ丼(1000円)

まてよ、120年前って1904年・・明治時代!?

幕末からそう経たない時代からあるの!?

 

調べてみると、

若松駅の開業が1899年、1904年に喜多方まで延伸。

このタイミングで開業した店なのか・・。

 

そんな気持ちで味わうソースカツ丼は格別だった。

「子供がまだ食べてるでしょうが!」を思わせる食堂。

あれは富良野の話だけどw

 

続きまして。

市内観光周遊バス、「あかべぇ」の乗り場に。

  

1日乗車券600円。

都合3回乗る予定なので、一応元は取れる。

ちなみに逆回りは「ハイカラさん」らしい。

 

まずめざすのは飯盛山。

あの白虎隊の自刃の地。

会津若松駅からまっすぐの、その名も「白虎通り」をどんつきまで。

まっすぐ上る階段と、その横に動く歩道(有料)があるんだけど、そこからではなく。

左の参道から上るべきということだった。

 

さざえ堂。

これがまた不思議な建物で、こんな背の高い塔なのに階段がなく、滑り止めをの板を敷いた坂道で昇る。角度が絶妙なことと、上りと下りの道が別(人とすれ違うことがない)というのは緻密な計算による設計だと想像できる。

 

正式名称は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」

三十三体の観音像を安置する「さざえ堂」は、まさにそんな庶民の夢をかなえるためにできたもの。 一度に三十三の観音像を廻ることができるこの構造は、大いに庶民の人気を得た。 堂内に貼られた無数のお札は、その様子を如実に表している。

 

ほほぅ。

そういうためのものだったのか。

 

そしてついに、ここでのメイン。

「白虎隊自刃之図」 佐野石峰

 

 

の場所に今自分が立っている。

150年前に、実際にここでそんなことがあったと思うと、心が痛む。

この像で再現されている通り、白虎隊は13歳から17歳までの少年兵。

それが余計に・・。

 

「ならぬことはならぬものです」

六歳から九歳までの会津藩士の子どもたち(男子に限る)は、町ごとに十人前後でグループを作っていた。この集まりを「什(じゅう)」と呼んだ。 会津藩では、藩士の子弟は十歳になると、藩校日新館に通った。九歳以下の子たちが集まる「什」は、日新館入学前に、会津武士の“心構え”を身につけさせるための、ある種の幼児教育の場、だった。

 

属する「什」により、「お話」の内容には多少の違いがあったようだが、
最後の「ならぬことはならぬものです」は、もはや、決め台詞。
この有無を言わさぬ“断定”こそが、会津藩士の揺るがぬ「義」への信念を育てたと言っても
過言ではないだろう。

 

幼い子供たちが自らを律する。

これが会津という土地の文化、白虎隊の話と深く関連しているのは間違いない。

 

背景を知れば知るほど、どんどんのめり込むわ・・。

 

 

14:35のバスに乗らないと、今度は鶴ヶ城での時間が少なくなってしまう。

白虎隊記念館に入るかどうか本気で迷ったが、それはまた今度の機会に。

 

さて、今度は飯盛山から見た、お城へ。

バスで20分ほど。途中、会津武家屋敷や東山温泉を通る。

見るべきところはたくさんあるが、今回は残念ながらスルー。

 

 

鶴ヶ城入り口で降りてしばらく歩くと、立派なお堀が。

 

どかーん。

鶴ヶ城。

ここに1ヵ月会津藩の人は、籠城していたのか・・。

 

入館して、記念館となっているそれぞれの階を見学して歩く。

歴史映像や、年表なども興味深かった。

だけど一番インパクトあったのは、新政府軍による砲撃を受けた城の写真。

ホントこれ、わずが150年前のことなのが信じられない。

 

伊達政宗はこの会津を心底欲しがったという。

おそらくは、この「義」。

最後まで誇り高く。

男子も女子も、大人も子供も。

 

そういう土地であることは、現代にも受け継がれている。

 

その会津藩を率いた松平容保(かたもり)。

写真はいつの頃なのかわからないけど、見ようによればこの少年のような風貌。

これがまた、心を揺さぶる。

 

新政府軍・土佐藩の板垣退助は、白旗を上げて出てきたこの藩主に敬意を払い、同じ目線の椅子を用意していたという。

 

なので会津の人たちは実際に攻め落とされた土佐藩の事は恨まず、攻められてはいないけど「容保の首を差し出せ」と言ってきた長州藩に対しては今でも遺恨が残っているという。

 

 

それとこの時、鶴ヶ城には多くの人がいた。

観光客じゃなくて地元の人。

城には目もくれず、スマホを連打している。

ゲンシグラードンのデイドデイであった。

自分も参戦。、最後の挑戦で個体値98をゲット。

会津産が残る、いい記念になった。

 

閑話休題

 

バスで駅前に戻り、仕事モードに。

この会津周遊とこれまでの勉強が大いに役に立った。

やっぱりその土地の事を知り、実際に見て回ることは仕事上非常に有益でもある。

会津で生まれ育ったその社長は「ならぬことはならぬものです」の言葉を愛していた。

 

翌日、車で向かう同僚とは別で、ゆっくり歩いて会場まで。

途中にある、蚕養国(こがいくに)神社に参拝。

 

冷たい雨の降っていた前日とは打って変わり、陽の光が差すいい天気。

 

特別ゲスト的扱いで迎えられ、講演もわりとうまくいった。

つかみで話した会津ウンチクは正直不発。

だって参加者のほとんどが会津の人じゃなかったので。

(まあ織り込み済みで、それをオチに使わせてもらったけど)

 

帰りは磐越西線ではなくバスで郡山へ。

長い帰路だった。

 

 

得意先の社長からたいそうな日本酒をいただいた。

これにもいわれがあるのだろうと思い、調べてみた。

 

「玄宰(げんさい)」とは、
江戸時代中期の1782年から1788年にかけて、
日本各地の天明の大飢餓という最大の飢餓が起きました
これを乗り越えるべく、会津藩五代藩主松平かたのぶ公は
、家老の田中三郎兵衛玄宰(はるなか)に改革を命じます
玄宰(はるなか)は、財政面では酒造り、漆器、薬用人参栽培を奨励して、
財政の確立や立て直しを図り、さらにこんな時こそ人材育成が必要として、
藩校日新館を創設し教育に力を注ぎました
「大吟醸 玄宰」は、
会津の酒向上の最大の功労者で家老「田中三郎兵衛玄宰」の名前を田中家より頂き、
命名させて頂きました

 

会津ではお祝いの席に、御中元等にも良く使われる、もらった人は黙ってほくそ笑む。知らない人はいないだろう、会津を代表する大吟醸です。極上の風味をお楽しみ下さい。
 

おお・・。

さすがにこれは恐れ多い。

家じゃ日本酒飲むことないんだよなぁ・・。

 

いや、会津若松すごいわ。

また行きたいね。