読んだ。

一気に3時間で読み切った。

 

仕事の絡みで紹介された本。

 

興味深いテーマであり、仕事に直結する題材であったことから、会社のデスクで堂々と読み切った。(ずっと文庫本を読んでる姿は不自然だったに違いない)

 

この方面の第一人者の作者先生に向かって失礼な言い方かもしれない。

だけど言いたい。

 

えー?

自分が講演で喋ってることとそっくりなんですけどー!

 

自分の話、この本からパクったと思われるのかなと思うレベルで。

そりゃ研究や調査の深みは段違いにこの本の方が深い。

だけど基本的な考え方はほぼ同じ(こっちは素人の感覚だけど)。

 

読んだこの勢いで、自分も使うフレーズを列挙しとこうと思う。

 

分断・細分化しすぎ?⇔善悪だけではない

ミミズは腸そのもの

人はピラミッドの頂点ではない

ちくわ(!)   ←これビックリした

殺菌消毒⇔どろんこ遊び

「腹」を使った日本語表現(「腑に落ちる」はここで知った。たしかに・・)

 

また、新たに勉強になった話もたくさん。

 

ナウル共和国

実際のりんごのビタミンCとサプリのビタミンCの抗酸化能

凍りつきモード

有機農業面積は全体の0.5%

ガイナーレ鳥取の取り組み

世界のエネルギー摂取量の75%が12種類の作物と5種類の動物から

 

共感できる内容でなければ、こういう本を一気に3時間で読み切ることはできない。

しかもこの先生、来週会社に来て講演してくれるらしい。

どんな人なのか興味あるわー。

 

1980年生まれって、松坂世代ってことかな?

なでしこ2部リーグ、FCふじざくらの試合を始めて現地観戦した。

甲府の試合にふじざくらイレブンがゲストで来たことがあって、一度観てみたいとは思っていたんだけど、本拠地が富士吉田の方なのでなかなかその機会がなかった。

 

なにげなく、Xのタイムラインに試合情報が流れてきた。

(かなりの甲府サポがリポストしていた)

 

え?小瀬でやるの?しかも観戦無料?

4月28日?

お、いけるじゃん!

 

この日は奥さんが不在。

まぁそれは別に関係ないけども。

(いたら行くっていったかな)

 

姫に声かけるも、「行ってらっしゃい」。

昔は将来の夢はなでしこJAPANだったのになぁ・・

 

ということで一人で参戦。

 

女子サッカーのリーグカテゴリがどうなってるのか、不勉強ながら知らなかった。

最高峰がWEリーグ、次がなでしこ1部、その次がなでしこ2部という。

だからまぁJで言えば今はJ3ってことになるのかな。

そこで現在3位。もちろん昇格を狙っている。

 

キックオフは13:00。

11:30頃小瀬に着くも、なんと第1,2、4駐車場が満車。

まさかみんなふじざくら?

 

昼ご飯を用意していかなかったため、スタグルで何とかしようと思っていたが列が長く断念。というか、結構な確率でソールドアウト状態だった。

 

目標2,000人ってことだったけど、いくんじゃね?これ。

この時点でそう思っていた。

 

これも結構並んでタオマフを購入。2,200えん。

入場無料だからこれくらいは出させてもらいますよ。いい記念だし。

 

 

試合の方は・・

気温30度の中、めっちゃファイトしてた。

女子サッカー現地観戦はじめてだったけど、すげぇ。

思ったよりはるかにレベル高かった。

ワンツー、ダイレクト、球際のぶつかり、サイドチェンジ・・。

 

相手の今治レディースも相当粘り強く。

結果的には1対1のドロー。

正直、感動した。

 

そして観客数。

目標としていた2,000人をはるかに超え・・・

 

この発表の時、歓声が上がった。

これまでのホーム来場者数平均は1300人余り。

たぶん上乗せ分は甲府サポなのだろう。

しかも、最近のサポではなくて甲府がJ2参入の頃からのサポが多かった感じもする。

(まわりでそんな会話がよく聞こえてきた)

 

この節のなでしこリーグでは、1部も含めて最多の観客数を記録。

後日発表されたWEリーグのこの節すべての試合の中でも、最多という快挙だった。

 

そりゃ勝ちたかったことでしょう。

だけど相手も一生懸命。こればっかりはしょうがない。

 

 

がんばってほしい。

甲府も、小瀬の試合て3000人入って歓声が上がったことを経験している。

地域に「おらが町のチーム」があることは素晴らしい。

それだけでいろんなことが活性化できる。

道のりは険しいけど、いつかは最高峰のリーグで。

 

がんばれ、FCふじざくら!

 

取ったホテルは熊本中心部ではなく、水前寺公園エリア。

ここは一度訪れてみたかった日本庭園と神社がある。

 

前日、ホテルにチェックインしてからちょっと歩き回ってみた。

が、公園の入り口がさっぱりわからない。

入場料のいる公園だから、どこからでも入れる造りになってるはずはなく、どこかにゲートがあるはず。だけど案内が全然ない。

 

こればっかりはグーグル先生の地図ではわからない。

HPで調べても、入り口がどこなのかは当たり前すぎてなのか、出てこない。

公園の敷地内にあるのかどうかも定かじゃなかった出水神社、ここを目指してみようと思って歩いていくと、そこに正門があった。

 

ただ、もう時間で閉まっていた。

まぁそれはしょうがない。この時点で18:00くらいだったし。

 

ハラへった。

なんか食べようと調べるも、いまいちこれという店がない。

ここいいじゃんと思って向かった店は、しばらくやってない感じだった。

もうなんでもいいや。

 

各地にあるこのチェーン。

さすがに地名を名乗るだけあって、その土地の名物の何品かはあるだろう。

と思ったけど・・

 

一品もねぇでやんの。

 

翌朝。

ちょっと早起きして朝飯。

熊本での動きはある程度シミュレーションしていた。

 

が、雨・・。

これは計算外だった。

まずはチェックアウトして荷物を車に置き、水前寺公園へ。

ホテルで傘を借りれたのは助かった。

 

水前寺公園の入り口。まんま出水神社の鳥居がある。

出水神社は公園内にあるため、400円払って中に入らないと参拝できない。

 

 

 

広くはないけど、それは見事な日本庭園だった。

1周歩いても30分くらい。

 

 

出水神社参拝。

御朱印の絵は細川ガラシャのシルエット。

明智光秀の娘で、キリスト教に目覚め、その弾圧に苦しみ最期を遂げた。

 

雨は降ったりやんだり。

ここまでは傘があったのでよかったが。

 

続いて健軍神社へ向かう。

車で来ていなければこの細かい動きはできない。

 

神社に参拝する時はその祭神や背景を調べるが、この健軍神社は神話でも戦国武将でも学問でもなく、正直よくわからなかった。

阿蘇との関連が深いらしく、参道が恐ろしく長いという事だけはわかった。

 

 立派な楼門。

 拝殿。

 御朱印。この文字好きだなぁ・・。

 

あと、これまで240社を超える神社を参拝してきたが、初めてのことがあった。

拝殿で2礼2拍手1礼をしている間、そこにいる神職の方が、鈴を鳴らしながらおおぬさ(棒に白い紙がついたお払いの時に使う道具)を頭の上で振ってくれる。

これは初めての体験だった。

しばらく見ていたが、参拝客全員にやっていた。

 

続きまして。

街中に近づき、別所琴平神社へ。

  

祭神は大物主命。

すごくたくさんの御朱印というかイラストが用意されていたけど、普通のにした。

あまり派手なのは好まないタチなので。

 

さらに街の中心部にある、山崎菅原神社。

 

小さな神社ではあるが、戦乱、天災のたびに場所を変え現在ここに鎮座するという。

もちろん祭神は菅原道真公。

 

続いてはメインとなる熊本城へ。

もうすぐ近く。

 

熊本に来たのは、あの8年前の地震の数日後以来。

その時には見舞いの品を持って、何軒かの家々を回った。

えがお健康スタジアムにも、実はその時に来ていた。

 

その時の熊本城は、もちろん入れず。

外から見ただけだったが、これは再起不能なんじゃないかという崩落ぶりだった。

 

あれから8年。

どうなっているだろうか。

それは楽しみでもあり、ドキドキもあった。

 

ナビに従い、二の丸の駐車場に入れる。

本来、ここからすぐの北口から入城できるはずだったらしい。

だけども修復工事で北口は使えず。

それならまずは城に行く前に加藤神社へ参拝する方が効率的だった。

 

加藤神社。

祭神は加藤清正公。

真田丸での清正のイメージは血の気が多く、喧嘩っ早い武将。

秀吉への忠義に厚く、朝鮮出兵などでも活躍し、戦いを主としたイメージだった。

 

しかし、熊本に来る前に色々調べたところ、それだけではないらしい。

熊本城築城(というか大幅な改修)、治水工事、街づくり、領民への愛情。

藩主として素晴らしいリーダーだったという。

のちに加藤家が熊本城を追われ、細川家が継いでも尊敬された、熊本のヒーロー。

熊本城に隣接する形で立派な神社が建立されていることも、その証明といえる。

 

 

ここから見える熊本城天守閣は、もしかしたら一番の迫力かもしれない。

この看板を入れるために引きで撮っているが、ここに立ってみると迫力ある。

また、御朱印の文字がなんとも力強い。

加藤神社は、これから令和の大造営を計画しているという。

なんともこの雰囲気や加藤清正公のエピソードに惚れ、次の御朱印帳はこの加藤神社の御朱印帳にすることに決めた。

(実は参拝後一度後にしているが、熊本城見学後に思い立ち、戻って購入した)

 

表面には熊本城と加藤神社のデザイン。

裏面は清正公の虎狩りの場面。

 

さて熊本城。

修復工事のため、導線は後から作られた橋を延々と歩くことに。

行く前にまずは腹ごしらえだ。

雨も強くなってきて、傘もないし。

値は張るが、ここで妥協はしたくない。

肥後牛を贅沢に使った御膳。3000円くらいしたけどさすがに旨かった。

 

どかーん。

以前来た時はもちろんこの場所まで来れてはいないため、どれくらい修復したのかはわからないけど、おそらくは絶望的な所からここまで回復したのだと思う。

 

城の内部は例によって資料館になっていて、ますます加藤清正ファンになる流れができている。そのまま天守閣まで登ると、圧巻の眺めだった。

 

熊本城の造りは相当考えて作られており、敵が侵入しようとするとまっすぐ進めない。

90度の曲がり角が多く、減速した所で石落としや鉄砲が上から狙う。

他の城も大体そうはなっているのだが、その距離と角の数が段違いに多い。

 

あと、マジで広い。

川の流れも変えたという事で、こここそ難攻不落の城と言える。

西南戦争の最後は籠城戦になったが、最後まで薩摩藩はここを落とせなかった。

戊辰戦争の会津若松の鶴ヶ城は落とされ、時系列的にはその後の事だけれど。

 

 

よく見ると、まだまだ崩落個所はたくさんある。

これを完璧に直すにはあとどれくらい時間がかかるのか・・。

 

さて一路北Qへ。

帰りは3時間の高速。

熊本—大牟田—八女—久留米—鳥栖—福岡—小倉。

この道を走るのにふさわしいBGMは・・

 

松田聖子でしょう!(笑)

たしか久留米出身だったはず。

 

Spotifyでイントロクイズ状態から一人カラオケに。

最っ高のチョイスだった・・。

全く眠くならずにアッという間に小倉まで走れた。

 

そんな盛りだくさんのひとり旅。

この写真がダイジェストだね(笑)

 

おまけ

小倉ではソウルフードと言われる資(すけ)さんうどんを。

 

普段丸亀製麺を食べている身としては、まったく違う面のやわらかさ。

これはこれでうまかったな・・。

 

 

 

タイトルは北Qだけど、ここで書くのはそこの話ではない。

北Qから仕事の依頼が入ったのはもう数か月前。

週末ばかりに依頼が入るのは仕事の性質上しょうがないんだけど・・

 

調べてみるとなんと、ここにアウェイ熊本戦がある。

日曜日の飯塚での講演時間は午前中。

翌日の準備、翌々日の本番のために北Qにいればいい。

 

お?

がんばれば現地いけるのでは?

 

そのシミュレーションをしてみた。

飯塚からえがお健康スタジアムまでは車で約2時間と出た。

電車で行こうとするとかなり遠回りになり、また熊本駅から遠いため話にならない。

レンタカーを調べると一泊二日で約1万円。

高速代ガソリン代を考えるとまぁ約2万円の自腹となる。

 

が、熊本にハナから行こうと思えばそんなんでは到底いけない。

なら決行でしょ!

 

 

北Qへはスターフライヤーの黒い機体。

慣れない第一ターミナル出発。

土曜日のうちに小倉に入り、得意先の社長とメシ。

 

翌日、朝早くレンタカーを借り、飯塚へ向かう。

小倉の都市高速は分岐がめっちゃ多く、ある意味首都高よりも難しい。

ナビがないと絶対ムリなところを抜け、飯塚へ。

 

講演前にいきたい神社があった。

 

皇祖神社。

9時前に到着して参拝するも、社務所が開いていない。

そこに書いてあった番号に連絡すると、10分ほどお持ち頂けますかと。

御朱印をお願いしてさらに待つこと10分。

結局都合30分ほどこの境内にいた。

 

のがみプレジデントホテル集合9:30には一応間に合った。

このホテルは約27年前に九州担当で来ていた頃からあるホテル。

そこでピンで講演をすることになるとは、ある意味それも感慨深いものがあった。

 

70分思いっきり喋った。

その足で、いよいよ一路熊本へ。

飯塚出発12:10。

 

ナビによると、下道(国道200号)で南下し、鳥栖ジャンクションの近くで高速に。

そのまま熊本ICまでひた走ればいい。

 

ノンストップで行きたかった。

だけど、トイレ、昼飯、着替えなど、しなければならないこともあった。

広川PAで一通りのことをし、あとはおにぎりを食べながらノンストップ。

 

熊本ICを降りたのが14:05。

もう始まってる。

でもまぁ上出来だ。

 

スタジアムに着いてからの駐車場、これが一番不安だった。

有料なのか、無料なのか、大体どこにあるのか。

結果、一度スタジアムまで行って関係者入り口の兄ちゃんに聞くと、戻ってかなり歩く無料の大駐車場だった。

 

ここからの徒歩が結構遠く、ヤキモキ。

スタジアムに着いて案内の人にアウェイゲートを聞くと、案の定一番遠い所だった。

スタグルエリアには見向きもせず、ずんずん歩く。

すると・・

ぽつんと。

 

やっと着いた。

階段を駆け上がり、スタンドに。

 

前半27分。

スコアは・・ 1-2!?

なに、もうこんなスコア動いてるの?

 

まったく経過もわからず、とりあえず疲れたから前半は後ろで見ていよう。

跳ねてるエリアには知り合いがいるはずだ。後半から合流したい。

 

渋谷くんと神谷くんが激突。

キーパーが交代に。山内くんが登場。

 

クロスから失点。2-2。

目まぐるしい。

 

続いてまたもや神谷くんがFWと激突。

これは相当厳しいもので、脳震盪の疑いがあって交代。

 

おいおい・・。

色々ありすぎるなこの試合。

 

とりあえずハーフタイムでリセットして・・

なんて考えてると、長いADTの最後に相手ハンドでペナ外でFKを得る。

これに異を唱えたのか、大木監督にイエローカードが出される。

 

前半ラストプレー。

サトカズのクロスバーチャレンジからのサンペーゴール!

 

マジ?入った?

これデカい!!

 

3-2でHT突入。

最初の3つのゴールを見ていないけど、相当色々あった前半。

こういう時の後半は逆になんもなかったりするんだよなぁとか思いながら。

 

戦闘服に着替える。

跳ねゾーンに行ってみると、いるいる。知り合いが。

よくまぁホント、遠くまで行くよな甲府サポ。

 

熊本は正直パスワークがうまくて、見ていてキツい。

よくあんな連携ができるわと思うくらい、ワンタッチパスがうまい。

というか、必ずワンタッチで出せるところに選手がいる。

ボールを取れない時間が長いため、神経をやられる。

 

それでも最後の所はやらせず耐えていた。

ジレずにとはまさにこのこと。

甲府がボールを奪っても速い攻撃が出せない。

というか、相手のプレスも勤勉ですぐセカンドを拾われてしまう。

 

後半はチャンスらしいチャンスもほぼなかった(ように見えた)。

慣れない3バックということもあったと思う。

 

ズドン!

相手のタテパスをカットしたマサのボールが運悪く相手FWの足元に。

そのまま足を振りぬかれ、ネットに突き刺さった。

山内くん的には位置なのか反応なのか、コースはそれほどでもなかっただけに悔しいゴールだったと思う。

 

これで3-3。

このあとさらに危ないピンチもあった。

だけどそこは体を張って守った。運もあったと思う。

 

ただ、負けてない。

あれだけボール支配率が低くても、取った勝ち点は同じ1。

現地ではホントにマイボールの時間が短すぎて見ていて厳しい試合だったけど、夜にホテルで映像で見ると、意外と甲府のカウンターの脅威も与えられていた感じが見れた。

奪った後の1本目のパスがいい所に出れば大チャンスという場面もかなりあった。

少し安心した。

 

サポ仲間はこのまま甲府へ戻るという。

そうだよな、日曜だもんな。

 

自分は、この日は熊本泊まり。

翌日夕方に北Qに戻ればいい。

計画を練るために早めにホテルへ入ろう。

 

だけど疲れた・・。

あまりに種類の違う午前中と午後だった。

 

その②へ続く

王子がいなくなって、部屋の使い方をリセットする。

ちょっとこれまでの部屋の使い方の遍歴を整理してみようと思う。

 

そもそも、我が家の2Fの造りはちょっと変則的になっている。

これがそのデフォルトの姿。

 

家を建てた時は、まだ夫婦2人だったため西側の部屋はなんにも使っていなかった。

王子が産まれると、自分が寝る&ゴムシートを敷いて遊び部屋にした。

よくプラレールとかピタゴラ装置的なの作って遊んでたっけ。

 

姫が産まれると、遊びスペースはそのままに・・

あれ?王子はどこで寝てたんだっけ?

最初は寝室で3人で寝てたのかな。

 

これが2013年11月の写真。

この時は間にタンスと本棚を置いて部屋を分けている。(こんな時期あったんだ)

たぶんこの時も模様替えをする時の写真だと思う。

 

2014年1月25日。

2人に勉強机を買った。

この組み立ては大変だったなぁ・・。

家に帰ってきた意味。

これはブログに書いてあった。

 

1F東側。写真は2015年1月5日のもの。

このレイアウト時期が3年ほど。

 

2017年1月。

2Fのくぼみコーナーを王子に明け渡す。

写真はその前の状態。自分のグッズが置いてある(ちなみに王子が両手に持ってるのはこのブログの本)

ここを・・

王子専用勉強机スペースに。

今思えばよくこの机2Fに運んだな。

この時から事実上、2Fの半分は王子の部屋となった。のかな?(憶えてない)

 

机をひとつ上に移動したことでリビングのレイアウトも変わった。

神棚の下に姫の勉強机を。

東側にいろいろ飾り物を。

 

2018年1月11日

真ん中に二段ベッドを設置。

王子が中学に合格したその日だった。

上に王子、下に自分。しばらくこの体制が続いたが・・

さて。この2段ベッド時代がどれくらい続いたかは定かでない。

自分の記憶では、この状態で夜にスワロウテイルのDVDを観た記憶があり、それが写真フォルダの2018年10月24日に入っているので、少なくともそれまではこの形だったと思う。

 

やがて姫も大きくなり、リビングで勉強は集中できないと。

2Fに姫の机も移動することになった。

これは移動前の状態。2020年4月13日。

ここは今思えば自分のスペースとして使えていた幸せな時代だった(苦笑)

(この時にはすでに2段ベッドは切り離し、それぞれが使っている)

 

ここに姫の机が移動してきた。

これでゆっくり勉強や絵が描ける。

(すぐ後ろに父の寝るところがあるというのもかわいそうだが)

 

2024年3月。

王子が京都に一人暮らしをすることになり、姫のスペースを考え直すことに。

模様替え直前。

正直、この時点で自分と姫にプライベート空間はなく、さすがに中学2年になろうかという姫にはかわいそうな状態。

 

さぁ。

どっちがいい?

 

と聞くと、王子がいたサイドがいいという。

 

では、模様替えに入る。

机が1ついらなくなるので解体。

 

自分のベッドを東側に移動。

 

なんか久しぶりに自分のスペースができた感じ。

クローゼット部分の割り振りも考え直し、かなり整理された。

 

その中で新しい発見があった。

クローゼットの奥の壁に点検口があった。

そこを開けると、北側の屋根のウラに広大なスペースが。

たぶん20年くらいずっと開けなかった扉なので、開けると新築の木材のニオイがした。

 

ここをタイムカプセルとすることにし、小さい頃書いてくれた手紙や絵、写真とかそういうメモリアルものを置いておく。

もってこいの場所となった。

 

かくして、新しい生活が始まった。

王子は最初の5年間、ひとりっ子だった。

ここからの5年間は今度は姫がひとりっ子になる。

自分のスペースもできたので充分にその時間を楽しんでほしい。

 

あ、あと我が家の男性は自分だけになってしまった。

テトも女子だし。

焼津出張。

これについては割と自主的に入れたスケジュール。

この日に会社を離れたい理由があった。

 

3日間、7回連続のリモート研修が予定されていて、自分もそこで話す役割があった。

それが会社のスタジオから中継ということで、全部生中継という計画だった。

 

やだよそんなの。

13分のプレゼンを7回?

それも3日間拘束?

 

リモート研修でしょ?同じことやるんでしょ?

こっちがリアルタイムでやる必要ある?

 

ということで、この日程で出張が入ればそれを断れるという背景があった。

研修のプレゼンは事前に収録ということにさせてもらった(これはこれで大変なんだけど)

 

焼津。

数年前に参拝した焼津神社へまたいきたい。

 

あれはたしか最初の御朱印帳だから・・

調べてみるとR1,11,20。

しかも御朱印帳1冊目のまだ前半だった。

 

古事記の知識もまだそんなになかった時期。

特にヤマトタケルは古事記の後の方で登場するので、この焼津神社のいわれをその頃はまだ認識していなかったと思う。

 

焼津着13:30

ホテルに荷物を預けて、チャリを借りようと思ったが出払っていて断念。

歩いていくしかない。

まずはなんか食おう。

地元っぽいお店で、海の幸を食べたい。

 

 

お食事処 黒潮

黒潮定食2000円。

めっちゃ豪華。

 

そのまままっすぐ焼津神社へ。

以前は車で来たので、位置関係はわからなかったけども。

 

 

前とかなり変わっていた。

社務所が新しく別なところに建てられていた。

 

日本武尊(ヤマトタケル)像

 

古事記に出てくるヤマトタケルは、腕っぷしも正義感も強いんだけど、強すぎて親も恐れるあまり、他の地方を制圧するというミッションばかり与えられていた。

 

鹿児島、出雲を制圧して戻ってくると、今度は東に行けと。

その途中、この焼津で敵に殺されかけた所、咄嗟の機転で草を焼き返し、身を守ったその場所にこの「焼津」という地名が付いたと言われている。

(※所説あり)

 

社務所は変わったけれども、拝殿と本殿は変わらない。

(そりゃ変わるはずない)

5年ぶりに参拝して、御朱印をいただく。

 

今回は、古事記特別の御朱印帳の方。

通常の御朱印帳にはダブりなしをルールにしているため。

 

それが、なんというかすごい巡り合わせで。

古事記特別の最新の御朱印は、昨年の11月に参拝した茂原の橘樹神社。

ここがなんとオトタチバナヒメを祀る神社。

 

ヤマトタケルとオトタチバナヒメ。

この並びは古事記フリークなら涙モノの並び。

しかもこの2柱を祀る神社の少なさもあって、レア度はかなり高い。

見開きで並ぶ状態であったことも、地味に大きい。

(もし御朱印を書く宮司さんがこれに気づいたら・・と思ってたけど残念。気づかず)

 

今回の焼津訪問の、プライベートサイドはこれが一番のミッションだった。

コンプリートできて嬉しい。

 

来た道ではないコースをまた歩き、ホテルに戻る。

ホントはチャリを借りられれば千手観音の大覚寺にも行きたかったが断念。

都合2時間弱歩き続けたため、足がさすがに疲れた。

 

夜は焼津の社長と久しぶりにメシ&飲み。

なんとその社長、前職時代にあの乾くるみと寮で同室だったという事もあり、昔からよく話をする間柄だった。

久しぶりという事もあって、焼酎のボトルを空けてしまった。

正直、バカ飲みしてしまった。

 

翌日、会議でみなさんに言われた。

 

あれ?さっきリモート研修で話してましたよね!?

もう焼津に移動されたんですか?ワープとかできるんですか?

 

ああ、実はあれ収録なんです(笑)

 

ホラこの方が効率的じゃん。

結果的に仕事2個やってるよ。

ちょっと前、DF50周年記念パーティーというのが開催されていた。

それが3月9日の事で、めっちゃ行きたかったけども断念した。

 

後日聞くと、そこになんと50人くらいの人が集まったそうで。

自分が16期で、50周年っていうんだからそっから34期いるんだ・・。

そんじゃ全然知らない人ばっかじゃないの?

 

それがどっこい。

結構ウチの代の前後3期が多かったようで。

写真を見ると、識別できる人が結構いることに驚いた。

中には、懐かしくて声出たような人もいた。

 

うわー。

そんなことなら行けばよかった。

 

近い年齢のメンバー15人くらいで二次会もあったようで。

そこで結構自分の事も話題にしてくれてたらしい。

 

数日後、ラインが入る。

 

✉今度、京都からM美が東京に来るらしく、またみんなで集まろうということになったんだけど来れない?

 

メンバーを見るとまたこれが結構すごい。

中には卒業以来?ってのもいる。

 

30日新宿三丁目18:30。

山口戦がキックオフ13:00だから・・・間に合う。

よし。いくいく。

 

総勢15人。

 

写真左から一周

Y内、J、自分、M貴、M幸、M下、M美、Sやん、Yちゃん、K条、Y恵、Kわ、A太郎、M穂、K原

 

自分の同期と1個下と3個下。

なぜか2個下がいなかったのは不思議だけど。

 

まぁしかし。みんな超久しぶりだけど全然そんな気がしない。

このメンツで会うと、それぞれとのエピソードが多すぎる。

こまかなワンシーンの事を話に出すと、それが膨らんで記憶の引き出しの奥が開けられて止まらなくなる。

 

ああー!!あったあった!それなー。

それで言えばさ・・

 

話止まんないって。

そんなのしょうがないよ。

 

あっという間に10:00のあずさギリギリの時間。

時間が圧倒的に足りなかった。

 

またやろう。

今度は立川あたりで。

 

そういえば、3つ下のK原くんからDF50周年の記念品をもらった。

(なぜ彼がくれたのかは知らない)

このために作ったソックスだそうで。

普通にタダでもらっちゃったけどよかったのかな。

 

この仕事の依頼を受けたのが、2月19日仙台のこと。

人選については色々あった末、自分が行くことになった。

 

会津若松。

この土地については、思う所が色々ある。

仕事で行ったことが1回。プライベートで行ったことが1回。

ただ、その時はいずれもこの土地を意識してのものではなかった。

 

会津といえば白虎隊。

お邪魔するにあたって、その背景を知らないといけない。

なので少し調べてみた。

 

すると・・

知らないこと、興味深いことがたくさん。

ペリー来航から鳥羽伏見、戊辰戦争、江戸城無血開城、会津の戦い。

会津の人々の教育。

 

どっぷりハマった。

寝るまえにこの関連の動画を毎日見た。

幕末の動乱は、切り口によって全然違う物語になる。

 

3月23日

会津に前泊、先方の社長と夕方打ち合わせの約束をしていた。

 

ただ、なるべく早くいきたい。

半日でも、これまで知った会津のその現場に立ってみたい。

朝7:00に家を出て、会津に向かった。

 

郡山11:00過ぎ。

ここまでは順調だった。

そこからの磐越西線、遠い昔に乗ったことがあるはずなんだけどまったく記憶になかった。

 

めっちゃ普通の在来線で、乗客がかなりいた。

会津までの75分。ずっと立っていくことになろうとは・・。

 

会津若松着12:31。

たぶん、この30年の間に駅舎も変わったんだろうと思う。

 

まずは昼メシだ。

事前の調べによると、どうもソースカツ丼が名物らしい。

ということで。

 

創業120年、マルモ食堂にて、ソースカツ丼(1000円)

まてよ、120年前って1904年・・明治時代!?

幕末からそう経たない時代からあるの!?

 

調べてみると、

若松駅の開業が1899年、1904年に喜多方まで延伸。

このタイミングで開業した店なのか・・。

 

そんな気持ちで味わうソースカツ丼は格別だった。

「子供がまだ食べてるでしょうが!」を思わせる食堂。

あれは富良野の話だけどw

 

続きまして。

市内観光周遊バス、「あかべぇ」の乗り場に。

  

1日乗車券600円。

都合3回乗る予定なので、一応元は取れる。

ちなみに逆回りは「ハイカラさん」らしい。

 

まずめざすのは飯盛山。

あの白虎隊の自刃の地。

会津若松駅からまっすぐの、その名も「白虎通り」をどんつきまで。

まっすぐ上る階段と、その横に動く歩道(有料)があるんだけど、そこからではなく。

左の参道から上るべきということだった。

 

さざえ堂。

これがまた不思議な建物で、こんな背の高い塔なのに階段がなく、滑り止めをの板を敷いた坂道で昇る。角度が絶妙なことと、上りと下りの道が別(人とすれ違うことがない)というのは緻密な計算による設計だと想像できる。

 

正式名称は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」

三十三体の観音像を安置する「さざえ堂」は、まさにそんな庶民の夢をかなえるためにできたもの。 一度に三十三の観音像を廻ることができるこの構造は、大いに庶民の人気を得た。 堂内に貼られた無数のお札は、その様子を如実に表している。

 

ほほぅ。

そういうためのものだったのか。

 

そしてついに、ここでのメイン。

「白虎隊自刃之図」 佐野石峰

 

 

の場所に今自分が立っている。

150年前に、実際にここでそんなことがあったと思うと、心が痛む。

この像で再現されている通り、白虎隊は13歳から17歳までの少年兵。

それが余計に・・。

 

「ならぬことはならぬものです」

六歳から九歳までの会津藩士の子どもたち(男子に限る)は、町ごとに十人前後でグループを作っていた。この集まりを「什(じゅう)」と呼んだ。 会津藩では、藩士の子弟は十歳になると、藩校日新館に通った。九歳以下の子たちが集まる「什」は、日新館入学前に、会津武士の“心構え”を身につけさせるための、ある種の幼児教育の場、だった。

 

属する「什」により、「お話」の内容には多少の違いがあったようだが、
最後の「ならぬことはならぬものです」は、もはや、決め台詞。
この有無を言わさぬ“断定”こそが、会津藩士の揺るがぬ「義」への信念を育てたと言っても
過言ではないだろう。

 

幼い子供たちが自らを律する。

これが会津という土地の文化、白虎隊の話と深く関連しているのは間違いない。

 

背景を知れば知るほど、どんどんのめり込むわ・・。

 

 

14:35のバスに乗らないと、今度は鶴ヶ城での時間が少なくなってしまう。

白虎隊記念館に入るかどうか本気で迷ったが、それはまた今度の機会に。

 

さて、今度は飯盛山から見た、お城へ。

バスで20分ほど。途中、会津武家屋敷や東山温泉を通る。

見るべきところはたくさんあるが、今回は残念ながらスルー。

 

 

鶴ヶ城入り口で降りてしばらく歩くと、立派なお堀が。

 

どかーん。

鶴ヶ城。

ここに1ヵ月会津藩の人は、籠城していたのか・・。

 

入館して、記念館となっているそれぞれの階を見学して歩く。

歴史映像や、年表なども興味深かった。

だけど一番インパクトあったのは、新政府軍による砲撃を受けた城の写真。

ホントこれ、わずが150年前のことなのが信じられない。

 

伊達政宗はこの会津を心底欲しがったという。

おそらくは、この「義」。

最後まで誇り高く。

男子も女子も、大人も子供も。

 

そういう土地であることは、現代にも受け継がれている。

 

その会津藩を率いた松平容保(かたもり)。

写真はいつの頃なのかわからないけど、見ようによればこの少年のような風貌。

これがまた、心を揺さぶる。

 

新政府軍・土佐藩の板垣退助は、白旗を上げて出てきたこの藩主に敬意を払い、同じ目線の椅子を用意していたという。

 

なので会津の人たちは実際に攻め落とされた土佐藩の事は恨まず、攻められてはいないけど「容保の首を差し出せ」と言ってきた長州藩に対しては今でも遺恨が残っているという。

 

 

それとこの時、鶴ヶ城には多くの人がいた。

観光客じゃなくて地元の人。

城には目もくれず、スマホを連打している。

ゲンシグラードンのデイドデイであった。

自分も参戦。、最後の挑戦で個体値98をゲット。

会津産が残る、いい記念になった。

 

閑話休題

 

バスで駅前に戻り、仕事モードに。

この会津周遊とこれまでの勉強が大いに役に立った。

やっぱりその土地の事を知り、実際に見て回ることは仕事上非常に有益でもある。

会津で生まれ育ったその社長は「ならぬことはならぬものです」の言葉を愛していた。

 

翌日、車で向かう同僚とは別で、ゆっくり歩いて会場まで。

途中にある、蚕養国(こがいくに)神社に参拝。

 

冷たい雨の降っていた前日とは打って変わり、陽の光が差すいい天気。

 

特別ゲスト的扱いで迎えられ、講演もわりとうまくいった。

つかみで話した会津ウンチクは正直不発。

だって参加者のほとんどが会津の人じゃなかったので。

(まあ織り込み済みで、それをオチに使わせてもらったけど)

 

帰りは磐越西線ではなくバスで郡山へ。

長い帰路だった。

 

 

得意先の社長からたいそうな日本酒をいただいた。

これにもいわれがあるのだろうと思い、調べてみた。

 

「玄宰(げんさい)」とは、
江戸時代中期の1782年から1788年にかけて、
日本各地の天明の大飢餓という最大の飢餓が起きました
これを乗り越えるべく、会津藩五代藩主松平かたのぶ公は
、家老の田中三郎兵衛玄宰(はるなか)に改革を命じます
玄宰(はるなか)は、財政面では酒造り、漆器、薬用人参栽培を奨励して、
財政の確立や立て直しを図り、さらにこんな時こそ人材育成が必要として、
藩校日新館を創設し教育に力を注ぎました
「大吟醸 玄宰」は、
会津の酒向上の最大の功労者で家老「田中三郎兵衛玄宰」の名前を田中家より頂き、
命名させて頂きました

 

会津ではお祝いの席に、御中元等にも良く使われる、もらった人は黙ってほくそ笑む。知らない人はいないだろう、会津を代表する大吟醸です。極上の風味をお楽しみ下さい。
 

おお・・。

さすがにこれは恐れ多い。

家じゃ日本酒飲むことないんだよなぁ・・。

 

いや、会津若松すごいわ。

また行きたいね。