ボローニャ中央駅付近を闊歩していると、「サラゴサ方面のバスは何番だったかしら?待てども待てどもバスが来ないようなんだけど、どういうことかしら」、あるいは「そこのお若いの?Sasso Marconi方面のバスは何処から出るんだっけ?」などと、通りすがりの淑女、紳士に訊ねられて、困惑することが時々ある。

もちろん、かりそめの住人とはいっても、知っているかぎりのことを、手取り足取り教えるのが、常に心がけてはいるが、所詮、他所者だから、私のBolognaデータベース等たかが知れているから、じれったくて致し方なくなる。

かかる他所者とはいえ、極東、欧州、イタリア各地などから、ボローニャ中央駅に戻ってくると、たちどころに、心持ちが至極安らぐ。

澳門、用賀、築地、宮城県に戻ると同時にしたたか感じられる、その土地への愛着心というか、まったく、同じような感慨で全感覚を満杯にさせられてしまう。

そんな案配に、他所者なのにもかかわらず、他所者としてあっさり看過出来ないというか、ボローニャにまつわるあらゆることに無関心ではいられなくなる。

1980年 8月2日に起きた、ボローニャ中央駅爆破事件などは、到底、やり過ごすこと出来ない、最たるものの一つだ。

一体、誰の差し金によって引き起こされたのかについては、さまざまな推理憶測、仮説が開陳されており、論文、ノンフィクション、ドキュメンタリー、小説にとどまらず、漫画、映画、ドラマ化されてもいるけれども、いずれも的のど真ん中を貫くものではなく、 あの日から、27年を経過したいまでも、真相は五里どころか、三千里の霧の中である。

たしかに資料は豊富だが、年を経るに従って、爆破事件に関する新刊の書き下ろしは、少なくなりつつあるようだ。

Feltrinelliのような大手の書店を探しても、直ぐに入手出来るのは、たった二種類きり、それも一つは詩集という現状である。

かといって、記憶が風化しているかというと、そうでもなく、何人かに実際訊ねてみると、1980年当時、すでに物心がついていた以上の世代の目撃証言は、いすれも至極生々しい。

一つ事例をあげるならば、ある中小企業につとめる、今年五十二になるという、女性の証言には、非常時においての融通のきかなさ、地獄の沙汰もコネ次第といったものを感じる。

救急車が何台あっても足りない位だったわ。とにかく、どうにもならなくなって、最後には、タクシーとか、パトカーとか、いろんな車を使って負傷者を搬送していたようだったわ。病院へ向う路はどこも車が渋滞していたわ、そう、救急車がなかなか前に進まなかったわね。いっそのこと、車から降りて病院に運んだらいいのに、と思ったほどよ。あの日どころか、救急車、パトカー、消防車のサイレンが何日経っても鳴り止まなかったんじゃなかったかしら。


<続>