なまくらな回教徒とは、幾度となく、出会ってきた。

喇嘛団(ラマダン)時でも、白昼アマンとの営みに現を抜かすことがあると公言してはばからない者、不飲酒戒を破る者、背中に四十八手の図を入墨して恥じない者、極めつけは、不食猪戒そっちのけで、ある酒場で生ハムソーセージをツマミに飲酒していたなんて姿を目撃したこともあった。

なまくら共を目の当たりにして、あっけに取られたこともあったが、一部において回教が浄土真宗的に軟化俗化していると思えばよいと、そう次第に受け止めるようになった。

といったって、アザーン(礼拝の時を告げる声)やコーランの朗詠に聞き惚れ仕舞いに骨抜き海月にされても、私が回教への宗旨変えをしないのは、アルコールの精との縁を切ることが不可能なのと、ヨークシャーやら、黒豚、もち豚、イベリコやら、豚の旨味を知っているからである。

敬虔な回教徒からすれば、旅の途上は決まって、オアシはさほどかけなくとも、飽食、飽飲の限りを尽くしたような生活振りになるが、アザーンを耳にする時だけは、しばしほろ酔いも覚め、メッカや太古に思いを馳せたりして、いささか神妙な面がまえになる。

ニコシアのタベルナでドルマデス、でろでろに溶けたハルミ、リゾリモーネ、ムサカ、スブラキに熱中しつつ、ウーゾやクラシー(葡萄酒)にへべれけになっていた夕暮れもそうだった。

ギリシャ正教徒への神経尖らせた上での配慮からか、南側の各地に点在するモスクからは、拡声器を通して礼拝の時が告げられることはなかったが、その代わりに、キプロス島北側と南側を分割するグリーンライン越しに、北側に点在するモスクから、バリトンサックスががなり立てるようなアザーンが聞こえてきた。

ややあって、アザーンに抗うか、それを掻き消すかのように、グリーンラインにほど近い正教教会から、夕刻を告げる鐘がヴォリュームいっぱいに鳴り始め、不協和音奏でるかと思いきや、やがて案配よさげに混淆しては、ニコシア上空に銅間声とチャペルによる交響詩二重奏が響き渡った。

当時、グリーンラインの向こう側へ行くには、トルコ本土へ渡らなければならなかった。

北と南に分断されてなければ、一分とかからない場所に辿り着くのに、一日丸つぶれになるような時間を要するのだった。

現在は、白昼に時間が限られるが、北と南の住民の往来が可能になったらしい。

あの夕暮れの時のアザーンと鐘の交響詩二重奏は、果たして今も聞こえるかどうか。

ニコシアがのべつに呼んでいる。



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Lesley MacKley
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