ユーミンが歌ってる『目に映る全てものはメッセージ』と言う歌詞ですが、その①でご紹介したX(Twitter)の投稿さら何を受け取りましたか?
で、これ↓↓
私が受け取った『メッセージ』は、『逆もまた真なり』です。
『見返り』を求めるって話ではなく、他罰的な人や攻撃的な人のことが頭に浮かんだのですが、
私が『こう』であるから、相手も『こう』であるはず
が、根底にあり行動するのが人であると思うんですよ。
私は人を攻撃する思考をそもそも持っていないので、私が相手に攻撃していない以上、相手から攻撃されたりしないと思って生きているので、時々攻撃的な人から先制攻撃されて混乱するんです。
えっ⁈なんで⁈ってなる。
それは、何にもしていないのに突然臭いにおいを出すカメムシのように、いや、私は何もしないから落ち着いてって思うんですよ。
でも、他罰的な人や喧嘩上等!の人は、攻撃されたと認識する感度がバカ高く、なぜならば、私なら『こう』するからと、相手の言動を深読みするからで。
認知の歪みって、こんなところにも現れるんですよね。
相手は自分と『同じことをする』(と思ってる)んです。
だから、そんな風に思っている人からは離れるしか道はないんですよね。
戦いの中でしか生きていけない人、戦いの中で生き続けることを選択している人からは離れるしかないんです。
表題の、『まずは自分が変わる』に付いては、次の記事でお話しします。
【編集後記】
『本物の仲間』の『仲間』と言う言葉に、ん?と引っ掛かり、引っ掛かりを覚えた『仲間』と言う言葉に付いて考えてみました。
私個人のことなので、誰の役にも立たない呟きですが(苦笑)
私はそもそも群れるのが苦手なので、
(人が3人以上いると気を使いすぎて疲れる😅)
『仲間』と言う言葉に『集合体(大勢いる)』を想像してしまって、1対1のイメージを持てなくてね😓
仲間と言う言葉の甘い(生ぬるいと言う意味でなくてね)感じ、憧れるし良いなぁと、帰る場所があると言う安心感とかね、『仲間』と言う言葉に感じるですよ。
でも、集団の中で馴染めなかった過去しかない私にとって『仲間』は、憧れで欲しいと思うけれど、その中にいて居心地が良いと言うイメージが出来ない😓
(無視などのイジメにあったり、いつの間にか別のグループが出来ていて取り残されるとかね)
そんなこんなで集団の中に入る怖さってのが根底にあって、そして自分の意思に反していても集団の中の多数が優先されるとかね、そんな集団の中に所属する不自由も『仲間』と言う言葉のイメージとして感じ取ってしまう。
そんな、私の中にある『不自由さ』を感じさせないでいてくれる人がいてくれれば良いかなと思います。
(世の中は私の中になるイメージで作られているので、イメージできないものは手に入らないんだよねぇ)
ただ、そんな私ですが、単体(1対1)の仲間?同志?と言う存在はいます。
特に手を出し合う仲ではないけれど、あの人が頑張っているのだから、私も頑張ろうと思える人。
私のイメージが貧困なのかな?
1対1でも仲間って言って良いのかを教えて貰えると嬉しいです。