数日前、お世話になっているブロ友さんからメールがありました。
「久しぶりにsakki さんのブログを覗いたら、コメ欄が談話室になっとるわ」
談話室? 確かにね。
「遊歩道の現場」の最終回「家族の約束」 には、たくさんのコメントを頂きました。
私の活動記録に、ご自身の体験や考えを重ねて、コメントを寄せて下さる方が居る。
ブログを書いていて、これほど嬉しいことはありません。だから丁寧にお返事すると、またお返事が来て…。
こんな場所が持てて私は幸せです。皆様、心の籠ったコメントをありがとうございました。
実は、このシルバーウィーク明けに、満81歳の母が引越しを控えています。目下のお題というのはこのことなのでした。
母は、このブログにも何度か登場しています。
取り壊しを待つばかりの無人の団地にたった1匹取り残された、サバ(猫)を引き取った顛末(→「取り残されたサバ 」)や、
そのサバがまさかの脱走 4週間も野良猫ライフを満喫して戻って来た話(→「完全家庭内野良猫・サバの脱走」) など、
登場するたびにたくさんのコメントを頂きます。母は、なかなかの人気者のようです。
今日は、この母の引越し準備の中間報告をしようと思います。
ごった返しの室内の写真は撮る気もしないので、
代わりに、猫崎公園の猫たちにご登場願い、行間を埋めてもらいます。
どうかひと時、お付き合い下さいませ~
ダリオ♂。2003年生まれ(推定)
4月頃、首の下や脇が大きな毛玉となって脱落。一時別猫のようなみすぼらしい姿になった。
去年まで触れなかったのに、毛玉のケアをしているうちにブラッシングの快感にに目覚め溺れ
素晴らしい毛並みが復活した
日本の夏はきついだろう。長毛種は外に居てはいけないのだとつくづく思う
51年前、昭和39(1964)年の東京オリンピックの年に、都内にある団地が造成されました。総戸数は400余戸でした。
400組の若い夫婦がここで子供を育て、それぞれに充実した人生を送り、いまや、平均年齢は80歳近くにもなりました。
今から40年ほど前のことです。
「いずれこの団地を、エレベータ付の高齢者にも住みやすい形に建替えましょうよ」と言い出した人がいました。
最初は夢物語でした。
でも、高齢化と設備の老朽化が深刻になるにつれ賛同者が増え、住民とデベロッパーの熱意とが艱難辛苦を乗り越えて、
あのオンボロな団地が、「新生・オリンピックガーデンズ」(仮称)という、近代的なマンション群に生まれ変わったのです。
そしてついにこの9月から、800所帯の入居が始まったのでした。
この、「40年前の建替え言い出しっぺ」が、私の母だったのだそうです。
鍵の受け渡しに現地へ行った時、団地の大木をそのまま移植したためどこか懐かしい感じのする敷地を歩きながら、
「整理していたら、その時に書いたチラシが出て来たよ。
40年かかったよ。でもまあよくやったもんだね。間に合わず亡くなった人も何人も居た。お父さんにも見せてあげたかった」と、
感無量の様子でつぶやいていました。
サリ(宮ちゃん)♀ 2003年生まれ(推定)
夏バテが心配された彼女。食にムラがあるため少しでも多く食べさせようと毎回腐心する。
コセクインを混ぜると「何か入れたわね~」と拒否するため、見えない所でこそこそ混ぜる。
明らかな効果が見られるようになり、嬉しい。
デリの前には、猫同士身体をすり合って「喜びの舞」が繰り広げられるが、その中心が彼女なのも面白い。
クールなようで、実は感情豊かな下町のおばちゃんタイプなのかもしれない
さて、800戸が一斉に入居するのですから、交通整理も大変です。
エレベータを占有できる1所帯の搬入時間を2時間半に限定した上で、各所帯に引越し日が割り振られました。
6月、母のところにも、引越しの幹事会社さんが見積りにやってきました。
「こ、これは…」家に入るなり担当者は絶句。母の家財道具の多さに言葉を失ったのでした。
母の荷物がこれほど多いのには理由がありました。
団地に住んでいた50年の間、母は気の合った友人達とボランティア活動をしていました。
本格的なものです。ケーキを焼いて売ったり、夏ミカンや柚子を収穫して来てジャムにしたり、梅干しを作ったり。
味噌は百キロ単位で作っていました。収益は年間3桁もあったそうです。
その他に、不要な衣料品や家電や小物などがあちこちから持ち込まれました。
母たちは、この収益や整理した不用品を、発展途上国や自然災害の被災地へと送り続けました。
団地の野良猫のTNR費用もここから出たのです。
作業のために、自宅の他にもう一軒、部屋を借りていました。
そこにまな板をずらっと並べて、一斉に柚子や夏ミカンを刻む光景は大したものでした。
立派な作業場です。こうした共同作業をする場所があるのはとても意味があります。みなさん楽しそうでした。
しかし、団地の建替えが決まって、このグループ活動も終結宣言をすることになりました。
皆さん総出で片づけて下さいましたが、
「ひとつも棄てない。ゴミなんかどこにも無い。全部持って行く」という母の強い意向があって、
道具や不要品の一部が母の仮住まいに運び込まれたのです。
荷物が多い理由のひとつはそれでした。
でも、それだけではありません。母は、ゴミ集積所に棄てられている大型家具を次々と拾って来てしまうのです。
「粗大ゴミの回収車が来ると、バキバキバキっとその場で壊してしまう。あの音が嫌だ。
まだ使えるものを、ただのゴミにするなんて…。ここに置いておけば、使いたいと言う人が必ず現れる」と言い張って、
一体どうやったのか、ひとりで6階まで運び上げてしまうのでした。
まだあります。集合ポストの脇に、不要なチラシを棄てるゴミ箱があります。
母は下に降りるたびにゴミ箱の中身をそっくり持ち帰り、1枚ずつ丁寧に伸ばして袋詰めして、古紙回収に出していました。
でも、チラシは紙だけではありません。
ずっしり重いお菓子の箱がいくつもあるので蓋を開けると、「水のトラブル110番~」などのマグネット判が、何百枚も入っていました。
「いつか、配った店に返したら役に立つだろう」と言いながら、集めたことを忘れてしまうのです。
他にも、文書を止めてあったクリップを丁寧に外して瓶詰にしていました。「知り合いの事務所に寄付したら喜ぶから」との御説。
クリップならともかく、ホッチキスの芯を外して、真っ直ぐに伸ばして、溜めている瓶もありました。
さすがにあれには驚きました。一体何の役に立つのだろう…
いろんな人が心配して、
「家具を拾っちゃダメだよ。細々集めた物も、今のうちに全部棄てた方が良いよ。引っ越しでしょう?」と進言しても聞き入れません。
飄々と聞き流し、時には「この年だからね」とボケたフリまでしてはぐらかし、反応を楽しんでいるかのようです。
100人も友達が居るのに、誰一人、母を説得できませんでした。
母には母なりの、物への思いや、断捨離ブームという時代への疑問があるのでしょう。
その証拠に、決してゴミ屋敷などではないのです。大量の荷物は、綺麗に整理されて箱詰めされ、忘れ去られていました。
理解に苦しむ部分もたくさんありましたが、私はそういう母の生活を黙って見ていました。
見積りにやってきた引越し会社の担当者は頭を抱え、
「この量だと、とても1枠では搬入できません。搬出も、前夜に半分詰め置かないと終わらないかも…」と言いました。
とりあえず9月の初めに引越し枠を2枠確保し、聞いたこともないような見積り額を提示して、汗を拭きながら帰って行きました。
80代の1人暮らしの引越しだというのに、その見積り額は、私たち(3人家族)の5月の引越しの3倍でした。
小春♀ 年齢不詳
去年のちょうど今頃は体調不良と異常行動が見られ、心配して我が家に一時保護した。
以来絶好調。子猫のように小さいが、食欲は旺盛、感情面も豊かで穏やかだ。
あの保護劇がなかったら、果たして今日はあったのだろうか…?と相棒と回想する。
毎年年を取る。仕方のないことだ。
でもあなたたちが一日でも長く、穏やかに暮らせるよう、公園鬼ババーズは頑張る
結局、この日の見積りを私は破談にしてしまいました。
表向きは、9月の暑い盛りに高齢者に強行軍で引っ越しをさせるのが心配だと言うことにしました。
けれど、本当は考えがあり、時間が欲しかったのです。
以前、「親の遺品を片付ける」という言葉が注目された時期がありました。
私はテレビでダイジェスト版を見ただけですが、
親が逝ってしまった後、残された膨大な家財を前に途方に暮れる子供の状態は、他人事とは思えませんでした。
どうして? どうしてこんなに溜め込んだの…?という情けなさ。
でも、ひとつずつ整理する間に、親がどんな生き方をして来たかがひしひしと感じられ、
なぜ、生前に寄り添ってあげなかったのか?と自分を責める。
その後悔こそが、子供が親にする最後の親孝行だ、などと言っていました。
一方、廃品業者を呼んで、「全部、棄てて下さい。中身は見ません」ときっぱり言う子供もいるそうです。
そうやって、親が生きて来た証を見もせずに処分して、果たしてそれで良いものでしょうか?
やがて親の逝った年に近づくにつれて、親の気持ちがわかり、後悔に苛まれるだろうことは目に見えています。
親の遺品を片付ける。それが子供にとって、物理的にも精神的にもどれほど重たいものであるか…?
容易に想像できました。
そこで、私は考えました。
今回の引越しは、恐らく母の生涯最後の引越しになるでしょう。とすれば、自分の身の周りを片付けるまたとないチャンスです。
生きている間に、自分で整理してもらう。つまり、遺品整理ではなくて、生前整理を自分でしてもらおうと思ったのです。
しかし、その生前整理には私が付き合い、舵取りをしなくてはいけません。
あの母を説得できる人がいるとしたら、多分娘の私だけだ、やらなくちゃと、自分を追い込みました。
いやあ、大変だろうなあ…。
でも今やっておけば、何年か後、あの時本気で付き合って良かった、幸せだったと、思う日が来るような気がしました。
こうして私は、長年の親不孝を一発逆転するという下心もあって、一大決心をしてしまったのでした。
「年長者がこうしたいと言うのなら、多少我慢しても思った通りにさせてあげる。それが若い世代の役目ではないかしら?」
「家族の約束 」で、私は富士子さんにそう言いました。この時私も、富士子さんと同じ状況を自らに課したのです。
し、しかし…
予想通り、その作業は難航を極めました。母の舵取りは、なかなかに大変でした。
母と比べたら、鶴亀さんの方がずうっと素直でした
そう簡単に言いなりにはならない、一筋縄ではない、
主義・主張を心に秘めた生きる達人のような81歳と向き合って、押したり、引いたり…。
以来、母の引越しを考えただけで頭が痛くなる毎日は、現在進行形となったのでした。 (続く)