遊歩道の現場の地域猫化を諦め、きっぱり「撤退宣言」をしたことで、正直なところ私の気持ちは楽になりました。
しばらくは現場を忘れて、溜まりに溜まった懸案を片っ端から片付けようと思っていました。
なのにあの夜、どうして遊歩道へ行ったのでしょうか?自分でもよくわかりません。
猫崎公園の夜デリへ向かう前に、ふと、立ち寄る気になったのでした。
見慣れた車道の端を、犬を引いた女性が歩いていました。その様子が何となくおかしいのです。
そっと追い越してから振り返ると、それは鶴亀家のお嫁さん・富士子さんでした。
「sakki さん…」
富士子さんの目がみるみる潤みました。私と分かるなり、富士子さんは泣き出してしまったのです。
「さっき仕事から帰ったら、お義母さんが猫に餌をやるところを見てしまったんです。
こうやって、地面に何か所かまとめて置いて…。お義母さん、隠れてまた…」と言うのがやっとでした。
こうして、撤退宣言からわずか2日目に、鶴亀家の嵐の予感は現実となりました。
その第一報を、私はリアルタイムで聞いてしまったのです。
撤退するのは勝手だけど、この家族には最後まで寄り添いなさいと、何か不思議な力に呼ばれてしまったかのようでした。
90歳の鶴亀福子さんが、「餌やりやめます宣言 」をしたのは前年10月のことでした。
それから半年間、隣のマンションのリカコさんが手を差し伸べてくれて、猫たちは冬を越しました。
でも今度は、リカコさんが大家さんに見咎められて、餌やりをやめざるを得なくなりました。
猫たちに頼られた鶴亀さんは、どうしても、知らんぷりができなかったのです。
「夫は激怒してしまって…。私はもう、家に居られなくて、犬を連れて逃げ出して来たんです。
sakki さん、私はどうすれば良いんでしょう?」
突然の事態にうろたえる富士子さんに、私は何を言うべきでしょう? 少し考えてから、
「餌やりは、なかなかやめられないものなんです。現場を見てしまって、ショックだったでしょう。富士子さん、大丈夫ですか?
でも富士子さん。辛いでしょうが、ここはあなたが頑張らないと。
母と息子というのは、近過ぎるし、互いにプライドもあるから、心の内を明かしにくい関係なんだと思います。
だから息子さんに責められるたびに、お義母さんはただ涙を流して、その場をやり過ごすようになったんです。
どうせわかってもらえるはずがないと、どこかで諦めてしまったのだと思います。
そろそろ、本音で話さないといけないんじゃないでしょうか?
お義母さんの気持ちとご主人の気持ち、両方ちゃんと吐き出させて、間を繋いであげられるのは、あなたしかいないんです。
富士子さん。まず、お義母さんがどうして猫に餌をやるのか?今度こそきちんと、聞いてあげたらどうでしょう?
それをご主人に話して、どうしたらよいか、一緒に考えることはできないでしょうか?
あなたはお嫁さんとして、今までちゃんとやってきたんです。もうあなたは、あの家の柱なんですよ。
自信を持って。あなたが思った通りに、やってみて。富士子さん、しっかり」 と励ましました。
富士子さんは少し元気になって、犬に引っ張られて行きました。
それから3日後のことでした。私は引越しを前に、幽霊会員だったジムの退会手続きに行きました。
書類を書いていると、誰かが「sakki さん!」と肩を叩きました。振り向くと、富士子さんではありませんか!
こんなところでまた会うとは さすがにびっくりしました。
ジムを出たところで立ち話をしました。すると、富士子さんが思いがけないことを言い始めたのです。
「sakki さん。私、お義母さんの餌やりを認めようかと思うんです。
お義母さんが言うには、隣のマンションの人が旅行だか引っ越したかで、猫はどうやら餌を貰えなくなってしまった。
今回は放ってはおけないと、はっきり言うんです。覚悟の上だとか言うんです。
主人は相変わらず怒っていて、お義母さんと口もききません。でも私は、今夜のおかずだなんだと、話さないわけにはいきません。
私がお義母さんと話すと、主人は、お前はそれでいいのかと、その都度私を責めるんです。
私、そういうの、もうイヤになってしまって…。
みんなが互いに認め合って、それぞれにやりたいことをやる。それが一番なんじゃないか?って思い始めたんです」
私は富士子さんの変化に驚きました。
鶴亀家の人々は、長い間餌やりを巡って何度も対立し、その度に誰かが報われない涙をこぼし、誰かが納まらぬ怒りを飲みこんで、
何ひとつ解決しないまま、家族の真ん中に横たわるわだかまりから目を逸らして、ひとつ屋根の下で暮らして来たのです。
それこそがおかしいのだと、富士子さんはついに辿り着いたのだと感じました。
「富士子さんは、猫が居ても、もう怖くないの?」
「全然平気なワケではないけど、前よりはマシになりました。
お義母さんたら、いつの間にか縁の下に貼ってあった金網を、全部取り払ってしまったんです。猫がここで雨宿りできるようにって。
おかげで、猫は縁の下に住み付いてしまい、前ほど目につかないんです。数も少し減ったように思います。
足が1本無い猫も元気です」と、何だか吹っ切れたように言いました。
富士子さんの気持ちは、決まっているようでした。
そこで私は、富士子さんの考えをご主人が支持してくれるように、知恵を付けました。餌やりの約束事を伝授したのです。
①餌やりは朝の1回だけ ②耳カットがあるか確認し、ある猫だけに給餌する ③1匹ずつお皿をあてがって目の前で食べさせる
④食べ終わったらお皿を回収する ⑤その時間に来ない猫には餌をやらない ⑥置き餌は絶対にしない
そして、「富士子さん。毎週1回でいいから、
”お義母さん、餌やりの約束、ちゃんと守ってますか?猫たちの様子に変わりはないですか?”と聞いてあげて下さいね。
そうすれば、”約束を守れないならやめてもらいますよ”と強く出ることもできます。
それよりも、お嫁さんが関心を持ってくれると感じて、お義母さんは嬉しいハズなんです。
今までこそこそと隠れてやってきたことが、堂々とできて、家族も応援してくれると思ったら、約束を守らないハズがありません。
こうやって、お義母さんの生き甲斐に、あなた方が色付けをしてあげるんです。
以前、お義母さんは私に、
”大病をして、生き残って、私は何のためにこの年まで生かされているのか?と考えました。
その時、残った時間は自分より弱いものに施しながら生きなさい、と言われた気がしたんです”と言いました。
私はそれを聞いて、お義母さんを応援する気持ちになったんです。
あの年齢の人はワガママです。でもあの年で志があるのは幸せなことです。だからこそ元気でいられるんです。
ならば、多少我慢しても思った通りにやらせてあげる。
それが、若い世代の役目ではないかしら?」
私は、鶴亀家を見ながらずっと思っていたことを、口にしました。
「実は私、もうすぐ引っ越すんです。
鶴亀さんが大好きでしたけど、いつまでもそばに居ることはできません。でも富士子さんが居てくれるから、心残りはありません。
富士子さん。大丈夫。あなたなら、あのお義母さんとちゃんとやって行けますよ。
もしかしてあと数年かもしれませんけど、その時間は鶴亀家にとってかけがえのない時間になるハズです。
ご主人と一緒にお義母さんを囲んで、仲良くやってください。それだけが、私の願いです」と言いました。
すると富士子さんは、「あの人は多分、100まで生きますよ。いえ、もっとかも」と、イタズラっ子のような目で囁きました。
一緒に、「憎まれっ子世に…」と声を揃えて言ってしまい、2人で顔を見合わせて噴き出したのでした。
それから2日後の土曜日の朝でした。
この長い長い連載の第一話「sakki の失敗
」に、私はアメーバ占いのことを書いています。
「今日のおうし座は98点。今までの長い努力が報われます」という、意味不明のご託宣を見たのは、まさにこの朝でした。
私は久しぶりに遊歩道側から、鶴亀さんの庭を覗きました。
フェンスの向こうに、庭仕事をする鶴亀さんが見えました。杖はお役御免になったようで、足取りもしっかりしていました。
声を掛けると、鶴亀さんは以前のようにニコニコしながら、フェンス際へやって来ました。
「おとといの夜、富士子と息子がね、餌やりをしてもイイって、言ってくれたんです
私はもう、嬉しくて嬉しくて…。あなたに知らせなくちゃと思っていたんですよ」と、花のような笑顔で言いました。
そして富士子さんに言われたという餌やりの約束を正確に復唱してみせて、
「昨日、早速お皿を買いに行ったんですよ。10枚!足りるかしら?」とはしゃぎました。
それから、私の耳元にそっと口を寄せて、少し小さな声で、
「私ね。今回という今回は、この家を出ようと決めていたんです。そうでもしなければ、餌をやれませんから。
でも独りで暮らすんなら、まずこの足を治さなくちゃいけないと思って、こっそり鍛えていたの。
そしたら富士子が、餌やりをしてもイイですよって言ってくれて…。
そんなこと、考えてもいなかったんです。嬉しかった…」 と、再び言いました。
御年90歳の鶴亀さんが、家を出ようと足を鍛えていた…。
このひと言に、私は打たれました。覚悟の上というのは、このことだったのです。
この、驚くような気の強さとプライドの高さ…。
あっぱれでした。これでこそ鶴亀福子さんです。
かつて、私が惚れ込んだ鶴亀さんが、やっと、私の前に戻って来てくれたように思いました。
同時に、頭の中に、私が出くわしてしまったこの家族の修羅場が、次々と浮かんできました。
「私と猫と、どっちが大事なんですか」と叫ぶ富士子さんや、「母さん!あんたも来なさい」と仁王立ちして命令する息子さん。
あの鶴亀さんが、何ひとつ言い返さず、ただハラハラと涙を流したことや、
「もう少し安くなりませんか?」と連呼する姿を見て、ガッカリしたこと…。
「餌やりをやめてスッキリしました」の一言に、もう二度と来るものかと思ったこと。
たった一人で泣きながらやった子猫たちのTNR。
そして、封筒をそっと差し出す富士子さんの顔や、コンビニの前で私を見つけて、照れ臭そうに笑う息子さんの顔…。
いろんなことがぐちゃぐちゃに一気に蘇って、不覚にも涙があふれそうになりました。
そうです。
鶴亀一家に寄り添ったこの1年の長い長い努力は、アメーバ占いのご託宣の通り、今、充分に報われたのだと思いました
でも私は必死に自分を抑えて、クールを装いました。
「良かったですねぇ。でも鶴亀さん。堂々とし過ぎて、猫だけ見て、周りを忘れてしまってはダメですよ。
ご近所には、鶴亀さんが全頭手術に協力してくれて、お金も出してくれたと言ってあります。
けれど、猫があちこちにウンチをして、困っている方もたくさんいるんです。
もう猫は増えませんから、どうか生きている間は餌やりをご容赦下さいと、みなさんに挨拶してくださいね。
ご近所を大切にして下さい。
でも、鶴亀さんが一番大事にしなくちゃいけないのは、富士子さんですよ。
富士子さんは、お義母さんに餌やりを何とか続けさせてあげようと、自分を曲げ、息子さんにも意見してくれたんでしょう?
よくできた、優しいお嫁さんじゃあないですか。大事にしなくては、バチが当たりますよ。
いいですか、鶴亀さん。猫より、人なんです。それを忘れないでくださいね。お願いしますよ」と、念を押しました。
すると鶴亀さんは、「そうですね。私は、息子に謝ります。今まで何度もウソをついて悪かったと…」とぼそっと言いました。
もう、言うべきことも無くなりました。私は最後に、
「実は私、引っ越すことになりました。今までお世話になりました」と言いました。鶴亀さんは驚いた顔をしましたが、
「では、あなたにお会いするのもこれが最後なんですね。
猫のことは、長い間ずっとずっと、私の悩みのタネでした。家族が認めてくれる日が来るなんて、思ってもいませんでした。
本当に楽になりました。あなたのおかげです。どうもありがとう。
あなたも、どうぞお元気で。お母さまをお大事に」と言いました。
簡潔で感情の籠った、見事なお別れの挨拶でした。
90歳まで生きると、こんなことができるようになるのかと思いながら、私は遊歩道を離れました。
こうしてこの日、私は90歳の相棒・鶴亀福子さんと、お別れをしたのでした。
1年追いかけたチカちゃんの最後の子猫♂。
近くの若いシェフに迎えられ、「ラフ」という名前になった。
先住猫とも仲良くやっているそうだ。
この子が、この現場最後の子猫となりますように。
そして、幸せになりますように
引越しを済ませてからも、私は頻繁に現場へ通っていました。チカちゃんのTNRと、子猫の保護出しに駆け回っていたのです。
でもあれ以来、一度も鶴亀さんに会っていません。
何かあれば、富士子さんが連絡してくるはずです。それに、私たちは会いたい時に会える超能力を備えているようなので、
会えないということはそのまま、鶴亀家の平和を物語っていると信じています。
そういえば、「今日、とうとうお義母さんが、主人に謝ったんですよ」と富士子さんが言っていました。
すぐに謝るような口ぶりだったのに、ひと月も経っていました。さすがはプライド高い鶴亀さんです
現場の猫たちは元気です。
私を見るとすっ飛んで逃げて行きます。鬼婆がまた来たと思っているのでしょう。
チカちゃん絡みでもうひとり餌をやる人が見つかり、そちらにもお世話になっているようです。
私は、この猫たちを地域公認の猫にしてやれませんでした。私の活動も、地域にお知らせすることができませんでした。
しかし、結局私は、この遊歩道の端から端まで全部訪ね歩き、知り合いになりました。
撤退宣言するまで捜し歩いた「地域の意志」は、いまだに見つけられません。
けれど周辺に、若くて、気持ちの優しい有能な人材が何人も住んで居ることを知り、ここは将来有望な町と思うに至りました。
いつか、時が満ちてこの現場の野良猫事情が変わる日が来ますように。少し離れた所から見守って行きたいと思います。
「ここに、地域猫の現場を作ろう」と、私がまたどこかで、覚悟を決めることがあるのなら、
1年半ベタ付きで走り回ったこの現場で私が積み上げた、
貴重な失敗や、人間観察や、幸福観が、その時の私に針路を示してくれるように思います。
だから、どうしても記録を残しておきたくて、「遊歩道の現場」を書いたのでした。
長い長い連載でした。お付き合い頂きまして、ありがとうございました。
現在、また大きい案件を抱えていますので、しばらくはそれに集中しようと思っています。
またお会いできる日まで。皆様お元気で。 see you ! by sakki
「遊歩道の現場」 完