5.
 
音也君の期待だけは…壊したくない。
その思いだけで、私は鍵盤と五線譜に向かって、心に浮かんだメロディを書き続けていた。
 
寝るよりも曲を。
食事をするよりも曲を。
 
____微笑むよりも…曲を。
 
ある程度形になって来た曲を、更に上のモノにする為に繰り返し弾いていると…世界が自分の曲だけになって、体が浮遊していく感覚に囚われていく。
もしかしたら、この状態のまま弾き続けて、一ノ瀬さんの事を全部忘れてしまいたいと願ったのなら、私の記憶から全てが消えてくれるのかもしれない…もう苦しまずに済む。
簡単な逃げ道を選択しようとした時…ピアノの上に飾ってある白い天使の置物に視線が止まって、同時に指が動くのを止めてしまった。
 
『君の様に美しいですね』
『え?私…こんなに白くないです』
『いいえ。君が否定しても駄目です』
『ふふっ。ありがとうございます』
『君に贈りましょう』
『ありがとうございます。大切にしますね』
 
奥底に閉じ込めておきたいと、毎日心で美しく輝く紫色の箱に、まだ残る大切な人との思い出を拾い集めては閉じ込めていた。
心の中…一ノ瀬さんとの思い出や会話、香り…多くのモノを見付けて拾い集めていると、もう箱上に座って蓋を無理矢理閉めても、時々零れ出してしまう位の量になって勝手に目の前で映像や音が流れてきてしまう。
 
甘くて。
大切で。
誰よりも…好きだった人…好きな人。
 
鍵盤に貼り付いて離れないと思っていた指を引き離して、胸前で開いてみる。
 
もうすぐ音也君の曲が出来て、私は最大の決心をしなくてはいけないのは分かっている。
弱い私は、一ノ瀬さんしか見えていなかった自分が新しい世界に踏み出す勇気を持つ事が出来なかったけれど、片思いの切なさや未来への希望を詰め込んだ曲を紡ぐ事が出来たら…心の整理が出来る…筈。
 
ただ…HAYTO様を演じて、大切な人の心が痛んで苦しんでいるのに、癒したり抱き締めたりする権利が完全に失われてしまうのは、自分自身の半分以上が無くなるみたいで痛くて辛い。
 
____結局私は…彼に何も出来なかった。
 
ツキン。
唇に痛みを感じて、指先を這わせると…心に広がる痛みを逃す為に無意識に噛んでいて傷を作り出していた。
 
その痛みも、心の痛みに比べれば、軽過ぎるモノ。
 
 
一度休憩をする為に、席を立ち上がってキッチンに向かうと入り口近くの台の上にあった、シンプルなホーロー缶に手を伸ばす。
この缶も、一ノ瀬さんが私にくれたモノで…落としたり、ぶつけたりして壊れてしまいそうだと不安な台詞を呟くと、唇を長く美しい指先が塞いだ後、
『大丈夫。いつでも私が紅茶を入れますから』
甘い約束をくれた事を思い出してしまう。
その時、その映像と音に意識を向け過ぎて…缶は手から零れて床を目指して落下して…不安に思っていた状態よりも酷い状態に壊れてしまった。
 
白いペイントは剥がれて、蓋と受け入れ部分の薄い部分が欠けた缶は、まるで心を具現化したみたいだと、小さく私は笑うと手を伸ばして床から
【愛の欠片】
を拾い上げて、最後の一個になってしまっていた、紅茶を抓むと…缶を不燃物のビニールに、一度感謝のキスをした後に入れた。
 
一つずつ、サヨナラしていけば良い。
それを、愛してくれていた時の一ノ瀬さんの残像が教えてくれているみたいで、少しだけ…涙を零して、電気ポットのスイッチをONにした。
 
 
______大丈夫。私は…私には…曲がある。
 
 
 
 
気付くと数日が経過していて、音也君用に作り上げた曲を手に、沢山の思い出達を処分した部屋の扉に鍵を閉めて、それを渡す為に一歩寮の玄関に向かって踏み出した。
 
今日は撮影があると音也君に聞いて、何度か行った事のある場所だった事もあって、そこを待ち合わせにしていた。
数日部屋の外に出ていなかっただけなのに、色々な整理をしたからか、随分現実世界に居なかった気がすると、小さく苦笑しつつ廊下の窓から空を見上げる。
『上を向いていては危ないですよ』
「そうですね」
『私が守りますから』
「ありがとうございます」
『どうかしましたか?』
「もう…大丈夫ですから」
気を抜くと、整理したと思ってはいても、すぐに優しい私だけの王子様が隣に幻想の形で現れて話し掛けてくれる。
でも、それに甘えていては、少しも前に進めないと…絞り出した決心で、浮かぶ度に断る事をする様になっていた。
 
『春歌』
自分の名前に含まれている柔らかな【春】の文字よりも甘く柔らかく呼んでくれた声色は、もう戻っては来ない。
 
その人の為に作っていた曲も、無駄になってしまうと理解は出来ていたけれど、思いを消滅させるには…曲に全部詰め込んで封印するのが良いのかもしれないと、音也君のモノと一緒に仕上げていた。
『春歌』
もう一度、幻聴が聞こえてきた事を切欠に、此処が寮の廊下だと分かってはいても、小さく大切に大切に紡いで愛を織り込んだ曲を口から零し始めた。
 
______♪
 
自分で作った曲なのに、口にすると切なさと…まだ残る幸福を感じる温かさで胸が締め付けられる仕上がりになったと、もう一度落としていた視線を空に向ける。
 
______♪
 
歌詞も無い。
一緒に話して作り上げる事はしないのだから、完全に私の押し付け状態の感情しか含まれない曲。
アレンジも、もっと良くする為の事もしない。
でも…今まで作り上げた曲の中で一番大切なモノになっていた。
 
少しは成長していたら良いな。
一度全部の音符に音を付けると、少し肩からずれた鞄の紐を元に戻して、髪の毛を左右に軽く揺らして玄関から一歩外に出る。
 
 
「眩しいですね」
 
まだ空の高い位置に太陽がいて、力強く輝いている。
それは、迷う私を引き上げてくれた音也君みたいに見えて、
『音也君。ありがとうございます』
くすりと微笑むと、もう一度大切な曲を唇から零し始めた。
 
______♪
 
忘れる事で、全部消去する事も出来たかもしれないけれど、私の胸には消せない温もりがあって…その一つ一つがあるから、以前よりも力強く生きていけている。
そんな前向きな気持ちになれるのも、大切な人のおかげなのだと思えると、痛みすら愛しく思えてしまう。
  
「頑張れます…まだ…大丈夫」
 
玄関を閉じて、くるりとダンスをする様に体を回転させて、音を紡いでスキップまではいかなくても少し軽くなったと感じる足を動かして門近くの大きな大木の下まで来た時…。
私の視界は…一気に真っ暗闇になってしまった。
 
 
______何が…何が起きたのか…分からない。