サーミ語とアイヌ語 | これでも元私立高校教員

これでも元私立高校教員

30年以上の教員指導を通じて、未来を担う子供たち、また大人の思考などをテーマに書き綴っています。
日本史と小論文の塾を主宰し、小学生から大学生、院生、保護者の指導をしています。

サーミ語という言葉がある。主にノルウェーやスウェーデンを中心としたスカンジナビア半島で使用される少数民族の言語である。

 

ノルウェーでは、1980年代まで、この言語を使用するサーミ人は国家によって抑圧され、サーミ語は禁止されていた。

 

しかし、現在はサーミ語の学校が国家によって運営され、その言語はもちろん、文化や歴史の保全が税金によって行っている。

 

1994年のリメハンメル冬季五輪の開会式で、このサーミ人が登場し喝采を浴びたのが、ノルウェーの多様性への挑戦という意味で、印象的であった。

また現在では、ニュースもノルウェー語だけでなく、サーミ語で放送されている。

 

一方、日本でも少数民族のアイヌ人への抑圧は、明治時代に旧土人保護法が制定され、まさに同化政策が推進され、この法律が廃位されたときはすでに20世紀の終わり、1997年だった。

 

現在は、1997年制定のアイヌ人文化振興法が、アイヌ人文化や歴史、そしてアイヌ語の保全をうたっているが、いまだアイヌ語の学校や、それを学ぶことができる大学の学部などはない。

もちろん、アイヌ語のニュースなど、日本では想像もできない。

 

こうしたことは、ひとつひとつは小さなことかもしれないが、多様性への理解は、ノルウェーと日本ではこれほどの大きな差を作っている。

 

いまだ日本は単一民族だといった言説を目にする機会すらあり、多様性への道は容易ではない。

この国では、特に明治時代以降、画一性が好まれ、そこから外れるものを排除・差別してきた習慣があり、それはいまだ根強く残っている。

 

違いを容認することは、これまでの常識や当たり前を捨てきるほどの勇気が必要であり、普通の画一性を疑うことから始めなければならない。

そのためにも、まずはひとりひとりが、実は画一性の虜になっていて、まさに排他的な思考になっていないか振り返る必要性があるのではないか。

その振り返りすらできなければ、日本はますます世界から取り残されてしまう。

 

そもそも画一性などは、日本の伝統的な習慣ではなく、いわば明治以降の教育、さらには軍隊の存在が、いまだ大きく影を落としている。

 

だからこそ、私たちは人間本来の個性を取り戻し、かつての日本のような個性をむしろ尊ぶ社会に戻ることが大切だと思う。