おおよそ月一程更新のこのブログですが、その都度アクセス解析を見ると必ずと言って良いほど読まれているのが「新体道空手とは何だったのか」(2012-04-20)と「其々の江上空手」(2014-02-20)の二つです。

 

これらの記事は今から10年近く前のまだ新体道空手の稽古を行っていた頃に書いたもので当時の見識を元に書かれています。

その後の2015年には新体道空手を辞め、その年の4月には自身の会を立ち上げ武術仲間と稽古を続けていますので、今回は現在までの経験を踏まえ新体道空手についても少し書いてみたいと思います(「其々の江上空手」に関してはその後「其々の江上空手」の補足と言う記事を書いています)。

 

新体道空手時代の稽古は思い出深いものがありますが、今にしてみると「数学で言うところの”公式”とでも言えるような稽古方法が多かった」と思っています。

 

過去に書いた「長所と欠点」や「稽古の方向」にも関連しますが、誰でも簡単に取り組むことが出来、数学の問題を公式に当てはめて解くように一定の効果を短期間で得られるような稽古方法ではあったと思います。

 

しかし、反面そこから抜け出すことが難しい、これも数学に例えるなら公式を利用し、その公式を使う為に作られた練習問題は解けるようになったものの、公式がどの様に導かれて作られたかや、その意味することを理解出来た訳ではないことに似ているように思えます。

 

もちろん「問題を公式で解ければ十分」との考え方もある訳ですから、それはそれで悪いことではありません。

また、多くの武術流儀が型と言う一種の公式から遡って本質を学と言う意味ではそれでも良いのかも知れませんが、個人的にはその型や稽古方法が専門書なのか、教科書なのか、はたまた練習問題集なのか、その違いはあると考えています。

 

あくまで”例え”ですが「エアロビクスは手軽に舞踏的な要素を含む運動を楽しめるエクササイズですが、源流を辿ればバレエなどを含めた舞踏の要素はあるだろうものの、それそのものは純粋な舞踏とは異なる」と言うことと似ていると思います。