平成29年。年が明けてはじめて、人前で話す会だった。一昨年から関わるようになった上方演芸資料館の展示に合わせて、大阪府立中央図書館で「上方落語 流行唄の時代」と題して、約2時間話をした。

  朝方、雪が残っている寒い日だった。建国記念の日という休日だったが、はたして人は集まってくれるのだろうか。今回は知り合いに案内状を出していない。どんな人が聞きにきてくれるのだろう。知り合いが前に座ってくれていると、話しやすいのだが………。「無料、申込不要」ということなので、蓋をあけてみないとまったくわからない。

 中央図書館主催の催しなので、別に集客に気をもむ必要はないようなものだが、「上方演芸資料館の展示に絡めて」という趣旨もある。次年度以降の展示に影響も出てくるだろう。展示室のなくなった上方演芸資料館が、移動動物園ならぬ、移動展示会を行っているが、その一環なのだ。今後も場所を、好意的に貸してもらえるかどうかというところに、影響が出るかもしれない。
 午後2時、開演。見渡すと用意された席がほぼ埋まっていた。少しテンションも上がる。人前で話する会から少し遠ざかっていたので、やや緊張気味。10月の末に、中之島公会堂で、「芝翫香」主催の催しで、芝翫(三代目中村歌右衛門)の話をして以来だ。今回特に念入りに用意したつもりだった。レジメづくり、PCで説明する図版の作成はもちろん、一応原稿も作った。近所のカラオケボックスで声を出す練習、原稿を見て読む練習、できるだけ原稿を見ないで話す練習もしてきた。二日通った。準備万端。とはいえ、当日の反応次第では、ボロボロになることもある。

  結果的には、非常に好意的に聞いてくれたので、話しやすかった。拙著『上方落語 流行唄の時代』の中から、いくつかの資料を取り出して説明する形をとった。話が細かくなりすぎないように注意したつもりだが………。相撲の資料は逆に、意識的に細かく説明した。拙著には出していない相撲の資料も出した。大坂相撲の話をどこかでしたいのだが、なかなか機会がない。そこで、今回少し遊ばせてもらった。
 

 少し古い話になりますが、平成28年1月15日に、関西・歌舞伎を愛する会の事務所で、熱心な会員さんのために、「上方歌舞伎の古い資料を読む」の題でお話させていただきました。第二回目です。昨年の第一回目は「三都歌舞伎人気鑑」(昭和二年八月)という、役者の顔写真や屋号・紋・本名・得意役などを記した俳優名鑑の一枚摺を紹介しました。
 かつて『歌舞伎 研究と批評』に連載しておりました「一語一絵」のつづきです。昭和二年ですから、初代中村鴈治郎や十一代目片岡仁左衛門、五代目中村歌右衛門、二代目実川延若が活躍していた頃です。古いこともよくご存じの会員さんと、話がはずみました。片岡千代之助(十三代目仁左衛門)や中村扇雀(二代目鴈治郎)の、まだ幼さを残す写真に、みなさん見入っておられました。











 今回、二回目は、安政四年(1857)の「浪花役者内詠(なにわやくしゃ うちのながめ)相撲見立」という、役者の奥さん(妻妾)の見立番付を見ていただきました。
 相撲番付では力士の出身地を記す位置に、役者の名を小さく書いています。力士名のところに、屋号と女性の名前が書かれています。屋号はもちろん役者の屋号ですから、役者の奥さんの名前ということになるでしょう。
 西前頭筆頭の「片岡我童 松島屋しま」、東前頭二枚目の「嵐璃寬 葉村屋まつ」は、よく知られています。ともに初代中村歌六(播磨屋)の娘です。そのため播磨屋・松島屋・葉村屋が親戚になるという話につながります。中央の下、ひときわ大きな文字で出て来ますのが、五代目市川海老蔵(七代目団十郎)の奥さん、「多眼(ため)」です。
 ただし、全体としてはどこまで正確なのかはわかりかねます。正式な奥さんなのか愛人なのか。ある意味では無責任なものかもしれません。女性の名があって、役者の名がないものもあります。たとえば、西の方、三段目、「片岡愛之助(三代目) 松島屋まん」とありますが、その隣の「浪花屋むめ」は誰の奥さんだったのでしょうか。空欄になっています。当時は今より役者の屋号はずっと多かったのですが、浪花屋は思い当たりません。お茶屋の名のようにも思われ、意味深な書き方です。
 今は馴染みの薄くなった役者名も多く、感動がわきにくいかもしれませんが、よくもこんな摺り物をこしらえたものだと思います。一番下の段には「寡(やもめ、やまめ)頭取」の欄があり、独身の役者も並んでいます。また、中央、行司の欄には「後家」(寡婦)の欄もあって、おもしろいものです。まさに「内の詠め」で、歌舞伎そのものに関するものではなく、興味本位のものでしょうか。

 ただ、こういうものにも先例はありました。大阪の吉野家旧蔵で、現在は早稲田大学演劇博物館が所蔵しています『許多脚色帖』には、「役者内儀見立相撲」(享和三年〔1803〕)「役者内儀見立相撲」(文化八年〔1811〕)があります。
 また、武井協三さんの『江戸歌舞伎と女たち』(角川選書)で大きくとりあげられました役者女房評判記『有意亭有噺』(めいちょうはなし)という本もありました。

 今も昔もかわらず、芸能人の私生活に興味をもつファンは多かったといえるでしょう。

 今回の一枚摺は文字ばかりでしたので、次回(日時未定)は錦絵をご覧いただく予定です。




 1月24日、尼崎の塚口南地域学習館で、「上方の大衆文化を楽しむ」の題でお話しました。
 大衆文化の定義をしだすとむつかしいので、それは避けました。そこで思いつきましたのが、拙著『上方落語 流行唄の時代』の宣伝でした。「落語・流行唄・大阪の出版・歌舞伎・役者・大阪相撲・上方浮世絵」の副題をつけ、中身は相撲と落語を中心にしました。ほんとうは「芝居と相撲」にしたいところでしたが、歌舞伎・文楽は他の講師の方が話される予定とのことでしたので。

 小さな、わずか四丁(8頁)の流行唄の歌詞本の表紙に、咄家(はなしか、落語家)の名前がしばしば出てくること。それらの歌詞の内容から、歌詞本の出版された年が推定できるものがあること。自分が持っている本の現物も見てもらいながら、いくつかの例を説明しました。

講演風景
①林屋正翁(初代林屋正三)新作「忠臣蔵大序より切迄 十二だんつづき文句 いよぶし」大阪府立中之島図書館蔵(80頁の図版)
 忠臣蔵三段目切、城明け渡しの場面。いよぶしの流行期から弘化三年(1846)午(うま)の年九月の刊行かと思われます。作者の正翁は上方林屋の祖と考えていい人。三人遣いの人形遣いがはっきり描かれているのが珍しいものです。

②桃のや馬一作「新板づくし物 とつちりとん」大阪府立中之島図書館蔵(82頁の図版)。
この中の「浪花で名高きはなし家名よせづくし」を読んでいきますと、今日忘れられた咄家の名が見られ、ふりがな付きなので、呼び方も確認できます。同時に、この本には「当時すもふ関取名よせづくし」の歌詞があります。
 ここから、話は大阪相撲の歴史に入っていきました。江戸と異なる形式の大阪の相撲番付、その日の勝負の速報を記した瓦版「勝負附」、当時は役者と同じように頻繁に改名した相撲取の経歴を知るための「諸国相撲関取改名附」。そして、上方にも相撲の錦絵があり、おもちゃ絵もあった例を、実物から理解していただきました。
上方の相撲おもちゃ絵


③林屋文笑作「大つ絵ぶし」著者架蔵。(104頁)
落語家の見台が、現在使用されているような平らなものではなく、江戸時代は「書見台」の形だったことを話しました。

④吾竹改め竹我戯作「中村歌右衛門あづまみやげ いよぶし」著者架蔵。(117頁)
この一枚から、笑福亭の祖に近い二代目笑福亭吾竹が竹我と改名した時期がわかることを考証しました。この竹我が初代笑福亭松鶴の師匠にあたる人です。

⑤笑福亭松鶴戯作「(海老蔵死絵)」著者架蔵。(187頁)
初代笑福亭松鶴が、安政六年(1859)に没した五代目市川海老蔵(七代目市川團十郎)の死を悼んで詠んだ大津絵節が載っています。役者絵で有名な三代目歌川豊国が描いたみごとな錦絵です。この海老蔵は天保の改革の贅沢禁止令にかかって、江戸を追われ上方に住み着いた人でした。最後はまた江戸に帰って亡くなりますが、上方滞在時代に松鶴と親交があったのかもしれません。

⑥笑福亭松鶴調「川竹ノ 大津画ふし」東京大学総合図書館蔵。(195頁)
これは初代松鶴の舞台図が描かれているのが貴重でしょう。頭が「火消し壺」に似ていたと伝わるのですが、これまで図像は確認されていませんでした。

⑦笑福亭松鶴戯作「蚊蚤の色はなし 大津画ぶし」著者架蔵。(198頁)
流行唄の替え歌には艶っぽいものが多いのですが、これはその一つ。女性の肌にふれることのできる蚤を、蚊がうらやましがるという歌詞です。

⑧笑福亭松鶴愚作「筑後芝居において 大谷友松名残リ 大都会ぶし」著者架蔵。(192頁)
薄い紙に摺ったもので、錦絵というには粗末なものですが、一養亭芳滝の絵が鮮やかです。芳滝は全国的には知名度が低いと思われますが、上方では幕末から明治初年に大活躍した浮世絵師でした。酒が大好きで、晩年は堺に住んで、酒屋さんに絵を描いてあげて、酒を飲んで暮らしていたようです。

⑧『新作さわり よしこの咄し』肥田晧三氏蔵。(266頁)。慶枝改四代目桂文治の舞台図。
上方落語中興の祖といわれる桂文治の名前は、三代目から江戸と上方の両方にできます。これは上方の四代目文治(初代桂文枝の師匠)の図です。描いたのは雪花園、すなわち初代長谷川貞信。この人は先の芳滝と覇を競う有名な上方浮世絵師でした。現在も続いている名前です。②で御覧いただきました相撲のおもちゃ絵にも「雪花園」「貞信」の署名がありました。

 拙著の宣伝がほとんどでしたが、本には入れていない相撲の資料や上方浮世絵も少し見ていただきました。上方の大衆文化として、大阪相撲や上方浮世絵にもっと興味をもってもらいたいと願っています。
  埼玉県行田市の忍城(おしじょう)の址を見に行った。2月8日の月曜日。快晴の日で、東京に来る途中富士山もきれいに見えた。東京駅から高崎線に乗って、一時間。持って行った『大阪繁昌誌』を読みかけると、うとうとしてしまって、あっという間に着いてしまった。
 行田に着いたのは午後2時。例によって、観光案内所に立ち寄り、話を聞く。今晩の予定は入れてなかったので、ゆっくりのんびり見て回ればよいと思っていたし、忍城だけ見れば、あとは付け足しなので、しっかり説明を聞かなかった。けれど、遠方から来た観光客と見えたのだろう、あれもこれもと案内してくれ、「バスはあまりないので、今止まっているバスに乗れば」と勧めてくれる。あわてて乗りに行って、運転手に「忍城に行きたい」というと別のバスだと教えてくれた。
 どこの町でもそうだが、JRの駅は町の中心部から離れている。水城公園前で下りて歩いて行く。池がいくつかあって、それらは道や橋で分断されているが、どうもみなつがっているようだ。『のぼうの城』で読んだように、このあたりが低湿地帯だったことを思わせる。池では「投げ釣り」禁止の看板が立っていたが、釣り糸を垂れるだけならよいということなのであろう、多くの釣り人がいた。十分ちかくじっと見ていたが、うきはぴくりともしなかった。定年退職後の人達なのであろう。ほんとうにのんびり暮らしている感じだ。
 月曜日なので城の博物館は休館。案内所のおばさん(失礼、お姉さんかも)は「お城には博物館から入るので、今日は入れませんよ」と言っていた。とにかく近くまで行こうと近づいたが、なんのことはない、三重櫓の中に入れないということで、門のくぐり戸は開いていて、城内に入ることはできた。城址だからこんなものだろうが、狭かった。石垣の基低部は古そうで、かつての名残はあった。自動車道で分断されている向こう側に、森があり、その中に諏訪神社があった。もともとはこのあたりも城内だったのだろう。昔の忍城の鳥瞰図もあり、それを見ると、石田三成でなくても水攻めは思いつきやすい。けれど逆に、ここで生活していた人達は、水との付き合い方をよく知っていたはずだ。三成の水攻めの失敗は、素人でもうなづけるように思った。
堀から見て

 帰りに、市役所(?)横の少女の裸像を見た。草原の中に何の説明もなく、ぽつんと立っていた。古代蓮の池もあった。今は枯れていて、看板がなければきづかなかっただろう。三成軍が陣をしいた丸墓山に行こうと思ったが、バスがわからない。産業文化会館前のバスターミナルでバスを待っている老婦人に聞いたが、とにかく本数が少ない。「元気なら歩いて30分」と聞いたので、歩いて行くことにした。
 歩いたおかげで、佐間口古戦場跡の高源寺に寄ることができた。正木丹波守が終戦後出家して建てたという寺で、小さなひっそりとした寺だった。戦国の戦の戦死者の供養塔があったが、見るからに新しい。若い頃は墓石調査をしたこともあったが、墓地には入らなかった。
 また歩きはじめる。荷物を持ったままだったし、疲れてきた。駅でレンタサイクルを借りればよかったと後悔する。バス停があったので時刻表を見ると、1時間に一本のバスがもうすぐ来る。まだ4時。時間はたっぷりあるので、いったん駅に戻ろうと思って乗った。案内所でもらった地図をみながら、行田の中心部を眺める。はじめは、観光バスの気分で、これもなかなかいいものだと思っていたが、そのうちに町中をはずれて、どこを走っているのかわからなくなった。「けど、どこか駅には着くやろう」。しかし、終点が郊外のバス折り返し地点だった。折り返しなら、すぐに折り返すのかと思って、運転手に聞くと、ほぼ二時間後だという。少し行ったところに、工業団地という循環バスの停留所があり、30分毎にあるからそこへいけばと教えてくれた。知らない路の「少し」は遠かった。やっと着いたがちょうど出たあとで、30分待った。三成が陣をしいた丸墓山はあきらめた。それでもバスから眺めることはできたし、石田堤の一部も見えた。
 満足して駅に着いたのは、6時前。駅前の中華料理店で夕食。ビールと紹興酒。餃子を売りにしている店らしかったので、定食と餃子を頼む。上品な薄味の餃子で、ちょっと意外だった。店員さんの応対もよくて気持ちよかった。