〈超古典落語の会プログラムより〉


御霊神社と芸能⑤

 女講釈師円山尼と燕旭堂          

                           荻田  清

 古い講談の話は興味が薄いかもしれませんが、講談と御霊神社の関係もありました。

今は女流の講談師の方が多いようですが、江戸時代にも女講釈師が居ました。大坂の芸能を多く載せる『摂陽奇観』文政六年(1823)の項に出てきます。三月十六日より御霊社内の神主の宅で、円山尼という女講釈師が、前講「伊達大評定」後講「太閤記」を演じたとあります。この円山尼は江戸の人で、もとは馬円女と言いました。名古屋の芸能資料『見世物雑誌』には、江戸の講釈師森川馬谷(二代目?)の娘で、年は三十五・六らしいとも出てきます。神主宅で演じた「伊達大評定」は仙台伊達藩の御家騒動の話で、初代の森川馬谷も得意としたと伝えられる演目です。「太閤記」は言うまでもなく豊臣秀吉の話ですから、大阪の観客を意識したものでしょう。

 円山尼はそののち、方々で口演し大好評でした。肥田晧三先生に教えていただいたのですが、本居宣長の弟子の村田春門の日記、文政六年五月二日の記事では、北船場船越町(御霊神社の東北東)の講釈場で演じており、「誠に男のごとし」という演じっぷりで、聴衆はおびただしかったとあります。


 また、中之島図書館にあります文政十二年頃成立の『画口合』(えぐちあい)という写本には、素朴な絵なのですが、尼姿のこの人の高座が描かれています。絵口合は江戸時代後期に流行ったことば遊びで、たいへん面白いものです。落語とも少しは関係しますので、機会があればお話したいと思います。

  時代は下りますが、笹井燕旭堂が御霊神社裏門前の講談席を所有していたとも言われています(旭堂南陵『続々・明治期大阪の 演芸速記本基礎研究』参照)。明治十三年十一月十二日の朝日新聞によれば、老衰に及んだ燕旭堂が勧善舎南(前川南滄)にこの席を譲ったとあります。


 燕旭堂の名は、前回特集しました花枝房円馬作・月亭生瀬校『落噺千里藪』の「山道の講釈」(現行「居候講釈」の元の「狼講釈」)に出てきます。居候が講釈師になるというので、世話している吉兵衛があきれて「お前さんの講釈の聞き手があるくらいなら、燕旭堂や呑龔(どんきょう)は大坂中へ蔵を建てますわ」とあります。当時著名な講釈師でした。明治の燕旭堂は代がかわっているかもしれませんが、御霊神社の縁として紹介しておきます。



なお、『藝能懇話』第十六号「特集 上方の寄席」には、御霊社内土田席、御霊裏の円笑席、御霊神社裏門の楢村席なども古い講談席としてあげられています。


(元の文章は「である」調の硬い調子で書いておりましたので、かなり手を加えました。これで5回分すべて公開しました。まだまだ御霊神社と芸能の関係はあります。いずれ気が向けば書いてみたいと思っています。)