無意識とは何か ― ユングが伝えたいと思ったと思われること ― 5 | いろは

前稿において元型についてのことは終えました。そうはいうもののまだまだ元型について知りたいと思う読者も多いでしょう。しかし、元型はやはりイメージですから感じるしかありません。元型を感じるにはやはり芸術に触れることでしょう。とりわけユングが影響を受けたニーチェなどはいかがでしょうか?小説がお嫌いであればカントなどはどうでしょうか?それも嫌なら昔話や神話はいかがでしょうか?これも受け入れられないのであれば、絵や音楽はいかがですか?芸術全般が嫌で、それが嫌だから専門家の話を聞いている!という人もいらっしゃいますが、そのような人は元型イメージを受け入れることを拒んでいる人でありまして、よってカウンセリングを必要としている人です。そのことをまずは受け入れましょう。このように、無意識というのは意識できないから無意識であります。第三者から「君はおかしい」と指摘されてもそれを否定するその有様を見ることにより、いかにして無意識を見ることが困難であるかを感じ取っていただきたいのであります。また、ユングもそのように思っていたはずです。ユングの初期の作品ではよく記述していたのですが、二度の戦争を経てそのような記述を行わなくなったのが残念でありますが、それが戦争というものの実態であります。

 

今回からは「分ける」ことについて考えていこうと思います。これは大きなテーマとなってしまうのですが、現代人の多くの人は心理学は「人を分け、区別するための学問」と認識していることについて、専門家の立場からその誤解を解いてみようとする試みであります。これが成功するか否かではなく、少なくともユング心理学は人を区別するための学問ではないことを主張しておかないと、ユングも毎日が不安でありましょう。否、この議論はユングがタイプ論を発表した以降から現在まで議論され続けておりますが、結論は出ているにもかかわらず、なぜまだここでこの議論を行うことができるのかが不思議でなりません。それほど人間の意識も意識できているようでできていないということであり、「理解」となりますとやはり無意識の力を借りなければならないとつくづく思い知らされます。

 

ところで、温厚で人当たりの良いAという人物と、乱暴ですぐに怒るBという人物がいるとします。両者ともに男性で、医学的に健康状態であり何の問題もありません。つまり、脳も健康な状態です。もちろん心理学的にも健康な人物です。さらに、どちらとも仕事ができるという前提で転職してきた優秀な人材です。皆様方の仕事のグループに一人だけ入ってもらう場合、どちらの人物を選びますか?

 

上記の問題には答えはありません。しかしながら、選ぶとなれば選んでしまうのが辛いところですね。そしてそれも無意識でしたよね。ユング派としては人間を分けて区分することはありません。AさんもBさもんも共に同じ人間として認識します。そこにアメリカ人や中国人が入ってきたとしても、同じ人間として認識します。区分はしません。しかし、現代人の多くの人は区別したがります。ところが区別してもそこに共通点が出てきて頭を抱えるわけです。つまり、集合的無意識のレベルでは人類皆兄弟でありますから区分したところで区分しきれないのは当然のことであります。逆にイギリス人はイギリス人グループに区分したところで、イギリス人のなかでもいろんな人がいますから、まとめるのは困難となるでしょう。同じ日本人同士でも10人も人が集まればまとめるのは一苦労です。にもかかわらず区分しようとするのですから、人の欲というのは底なしなのかもしれません。

 

このように主張するとでユングの「タイプ論」はどうなるのだ?という質問はタイプ論が発表されて以来、現在までずっと質問され続けているのですが、あれはユングが最後に述べているように、心理学の専門家が自分のタイプを知るために論じられたものであり、決して人を区分するために論じられたものではありません。この点をまずはご理解いただきたいとともに、原書にもあたっていただきたいのです。タイプ論は誰しもが同じ人間であることを前提に内向型と外向型とに心の構えで二分し、そこに4つの心的機能をプラスすることにより心を8タイプに分けたものでありますが、あくまでも心を分けただけであり、人間を区分したわけではありません。この点が非常に重要であります。人間自身を区分するということは集合的無意識を否定することであり、それをしてしまえばユング理論の一番重要な部分を全否定することになってしまいます。ゆえに人間を区分することが間違いだというのではなく、やはり、心というものを詳細に観察すると、前述のAさんもBさんも結局は同じ人間であることがわかります。

 

つまり、Aさんは温厚であるかもしれません。しかしながら、リビドーは常にそのベクトルで進みません。怒りの方向へ必ず進んでいきます。そうすると温厚なAさんはどうなってしまうでしょうか?Bさんは表面的には扱いにくい人物かもしれません。しかしながら、このような人物を使えば使うほどリビドーは「温厚」の方向へ進みます。さて、皆様方はどちらを選びますか?ハウツー的な話をしておきますと、Bさんは強面で、なおかつ自己中心的に思える人物であります。実際に怖い人であることも多いです。しかし、このような人物の話に耳を傾け、うまく彼を動かしてあげると驚くほどのパフォーマンスを見せることが多いです。つまり、彼の心のベクトルをペルソナとは反対方向へ向けるとその見た目からは想像もつかないほどの業績をもららしてくれることが多いです。ではこの逆のAさんはどうでしょうか?Aさんの場合は温厚で仕事ができるからといって、何でもAさんに押し付けるとAさんのリビドーは逆方向へ向かいますから、使えない人間となってしまいます。さて、皆さまはAさんとBさんのどちらを採用しますか?

 

そしてこれらの例により、人間を分けることに意味があるのかという窮極の疑問が沸き上がってきます。正直なところ、AさんかBさんかの選択では採用者のフィーリングとしかいいようがないと思います。結局のところAさんもBさんも使い方しだいです。現場のリーダーにどれだけの力量があるのかに問題点が移ってゆきます。例えば、AさんとBさんの両方が組織にいる場合、現場のリーダーによってどちらかがひいきにされる場合が多いです。しかしながら、AさんBさん共に医学的にも心理学的にも異常がない場合、二人共をうまく使えば、生産性は最低でも2倍になります。そうなれば給与はこれまでと同じで生産性は最低でも2倍ですから、アルバイトや派遣社員の追加をせずにすみ、そのため人件費の節約につながり、全体的な生産性というものは相当なものになります。

 

ユングはここまでのことは言っておりませんが、おそらく、このようなことまで言いたかったのではなかろうかと思い、経営学と交えて論じております。ユングの時代は激動の時代でありましたので、とりわけ組織に関することは心理学的な視座で語れないことが多かったのも事実であります。そこでおせっかいながら、ユングができなかったことを私が代って述べてみました。

 

ご高覧、ありがとうございました。