無意識とは何か ― ユングが伝えたいと思ったと思われること ― 6 | いろは

無意識についてユングが伝えたかっと事については山ほどあるかと思われます。それにしても最近は精神科医や心理療法家が病名をつけることが好きであり、なぜそこまで病人に仕立て上げなければならないのかと疑問に思うことも多いです。また患者やクライアントも病名をつけてもらうことで安心している場合も多く、謎の現象が多くなってきております。ユング心理学とは病名をつけるための学問ではありませんからその点において頼りなさを感じるだろうと思います。しかしそれは感じているだけで、ユング心理学を理解したことにならず、むしろ現実から逃避している可能性もあり、ユング心理学が物足りないと思う人は注意が必要であると私は考えます。

 

まず、無意識とは目に見えないものですから前述のような現象のことも含みます。ところで前稿においては分けることを題材にしました。今回も続きを行ってみたいと思います。分けるとはどのようなことでありましょうか。実例をあげますと、家族の中でも父と母、親と子供、長男と次男というように区分することです。隣の家の子供と自分の家の子供も分けることの一つです。では、自分の子供と隣の家の子供とを同様に見ることができ、育てることは可能でしょうか?という問題を考えてみましょう。親と子という関係は分離して考えているようであって実は完全なる分離はできておりません。なぜなら、隣の家の子供と自分の子供を同一視できないからです。完全に同一視できる人はいますか?

 

このように、心の伴った分離とは非常に難しい問題であります。この分ける作業というのは紙のうえでは簡単にできます。しかし、心の部分まで含めて分けることは非常に困難であることはよくわかるかと思います。かつて科学というものが発達してきた時代に紙の上でできることは紙の上でやったほうが楽でよいし、実験など無駄な話であるという議論が盛んにおこなわれたことがありました。学問的には「記号論」といわれますが、極端な話ですが、新薬が発売される前段階で「治験」というものがあるのは皆様方もご存知だと思います。近年ではニュースでも大きく取り上げられることがあります。しかしながら、記号論的な結論からすると化学式によって薬の効果が立証されているからには、治験など必要ないとする立場であります。これをどのように考えるかであります。科学が発達してきている現代において、科学がそれほどに力があるのであれば、「化学」の力を紙面上で信じ込む自信があってしかるべきであるかと思います。しかし、実際に治験が行われない新薬を使用する患者がいるでしょうか?という話になると、科学の力や「化学」の効果は実際には非常に怪しまれているといわざるをえません。ではなぜ科学的に正しいことを信じないのか?と患者に尋ねてみたところで、効果的な回答は得ることはできないかと思われます。これこそが無意識の働きであります。

 

ユングは分けるときの危険性というものを初期の論文では多く語っていたのですが、錬金術の研究を行い始めるときにはすっかりとそのような話はおこなわなくなってしまいました。ここに私はやはり再び着目すべきだと思いうのですが、個性化を考えるうえで分けるということは非常に大切でありながら、しかし、危険性も非常に高いという、分けるという動作の個性を見抜かないといけないかと思います。

 

例えば、親が実子を区分し認識することは大切なことだと思いますが、隣の家の子供と同一視できるほどに分けて考えることはないかと思います。実際あったとすれば病的であります。しかしながら、隣の家の子供が困ったことになっているにもかかわらず、何も手を差し出さないほどに自分の子供と隣の家の子供を区別することはいったいどうなっているのでしょうか?ということを考えてみるとよいかもしれません。基本的には人類皆兄弟とユング派では考え、このブログの読者の多くもそれに賛同してくれているはずであります。しかし、いざ隣の家の子供が困った状況になっている場合、「人類皆兄弟」と考えているでしょうか?ということです。

 

確かに分けることは大切なことだと思います。なにより分けて区分しないと自分の子供をそもそも意識するとができません。ところがその度合いが強くなると孤立が強くなり、個性がなくなってしまいます。それがいわゆる没個性であります。これを都会を例にして考えてみましょう。都会にはたくさんの人が集まりますが、実に隣人同士のつながりが弱いです。企業内においてもセクハラやパワハラの訴えを恐れ、各人は自分と客体とを完全に分離し、それを「個性」と呼ぶようになってしまいました。ところが、自分と他人とをあまりにも切り離した結果として個性どころか孤立化が進み、没個性化してしまっていることに気づかない現代人が多くなってきているのも事実であります。だからといってこれとは逆の集合的な生活を求めて田舎暮らしを求める人もいますが、これも個性化の議論からすると没個性の極みでありまして、都会にいるのと同じ状況となることは必至であります。このようなことからいえる結論の一つとして、都会も田舎も意味は同じであると心理学的にはいえるでしょう。

 

さて皆さまは「分ける」ということにどのような意味をお考えとなるでしょうか。分けることは大切なことでありながら、危険性もあります。この両面をまずは認識し、実生活に活かしていただきたいです。

 

ご高覧、ありがとうございました。