経営学と心理学 3 | いろは

世間様からの私の印象は心理学者でのイメージが強いようですが、実のところ私が最初に博士の学位を取得したのは経営学であります。その後に経済学の博士の学位を取得し、三番目に取得した博士の学位が心理学であります(正確には教育学)。確かに現在では私の心理学の知識を提供することの方が多くなっておりますが、それにしても経営学という学問を追求していくための補助的な学問として始めた心理学の方で私の名前が世に出たことは予想もしなかったことでありますし、しかしこれが世の中であります。

 

ところで経営学とはなんぞやという基礎的なところから始めていこうと思います。経営学とは主に企業経営についてを専門的に取り扱う学問であります。企業でありますから法律用語である会社以外のことも当然のことながら含みます。つまり、何らかの活動を行うことを経営という専門用語に例え、そのための方法論を伝えていくのが経営学なる学問であります。ここで気になるのが「何らかの」でありましょう。

 

経営学では主に法律用語でいうところの会社について論じていることが多いです。なぜそうなるのかは私もわかりませんし学会もその点については答えを出していないのですが、こうなってくると昔からの慣習であるといわざるをえません。経営学自体はアメリカの学問であるため日本に経営学が輸入された時点では既に法律用語での会社の研究に特化された形式であり、それを日本の学会も従ったと私は解釈しております。日本での経営学博士号の第一号は神戸大学教授であった平井泰太郎博士でありますが、平井博士の研究方法も例外にもれず、法律用語における会社の経営を主にし、研究を展開しておりました。これが正しいか否かの話ではなく、経営学における企業の研究は法律用語における会社の研究を行い、そして論じていくことは昔から既に受け継がれているものであると見て間違いありません。

 

ところがここで問題なのは、企業なるものは法律用語における会社だけではないことは当時の経営学会(つまり、平井博士が現役の研究者であったころから)の通説でもありました。定義そのものとしては、目的意識をもって活動する個人ないし組織のことを企業とするとその頃から定義されております。そのあたりのことは平井博士の書物を図書館などで読んでいただきたいのですが、なぜか研究対象は法律用語における会社のことでありまして、経営学における企業の概念からすると例えば、ロックバンドも企業でありまして、しかし私が学生であった時代はロックバンドのことを企業と定義し経営学的に研究することはなぜかタブーでありましたし、現在でも学会としての態度の変化はありません。この点について私のバンドの国際的な成功によりかなり風向きが変わってきたのですが、それにしてもこのような出来事を「矛盾」といわずして何を矛盾と定義するのか?という疑問を学生時代から抱いていたのでありました。

 

ではなぜ経営学がこのように混沌とした学問となってしまったかについてを考えていこうと思います。経営学の源流はこれまで何度も書いてきておりますが、それは経済学であります。経済学から個別企業の行動のみを抜き取って生まれたのが経営学であります。ですから経済学の中でもミクロ経済学の中から生まれたものであります。ミクロ経済を見ていく中で、経済状況をマクロレベルでよくしていこうとするとどうしても個別企業の活動を活発化させなければならい事がわかってきました。このあたりはかなりシュンペーター的な発想であるところが興味深いのですが、たとえば機会費用なる考え方が必要となった時、ミクロ経済学では関数を持ち出して曲線を見ながら将来を予想するという大雑把な考え方でいいのですが、実際に行動しなければならない個別企業はそれらの曲線が本当に正しいのかどうかについて保証がないため非常に悩みますし、また仮説の範囲内のことで将来を決定していくことなど、経済学者たち、おまえらアホカ!!!だれがカネを支払っている(投資している)とおもてるねん!!!という結果になるわけでありまして、そういった個別企業の現場の声をくみ上げ、より実践的で有効な学問として出来上がったのが経営学であります。

 

このような経緯からの経営学でありますから非常に実践的であると考えられておりますが、実際にはそれほどでもなく、近年では成功企業の事例研究を行い、それを取りまとめた個別企業の成功物語を歴史的に述べる、つまり歴史書を作っていくような学問となってしまっているのが残念でなりません。経営学が生れてくる頃の精神は非常に素晴らしかったにもかかわらず、どうしてこうなってしまったのかについてをもう少し深く掘り下げ、なぜ経営学に心理学が必要なのかを論及していく予定であります。

 

ご高覧、ありがとうございました。