新しい経営学の息吹 3 | いろは

経営学と心理学を結合させて何か新しいことを・・・というのは私は何年も前から行っておりまして、とりわけ今の時代だからこそ学問のアナログ時代を作ろう!!としているわけではありません。大学院生のころからこの考え方でありますので、異分野の学問の結合を試みて25年が経過しようとしております。実に早いです。そしてこの「早い」という感覚のまま停年を迎えるのであろうと思うのですが、そんなことより、私のブログの読者の多くは音楽がどのようになるのか、また、どのようにしてゆくべきかを知りたいのではなかろうかと思います。

 

世の中には様々な職業が存在します。確かに、前稿の2稿においては音楽業界以外の序論を書いてみました。しかしながら、世間様からの声は、「音楽の話は?」との声が多く、その意味で、序論をもう一つ増やし、音楽業界に向けてのものを増設し、論じてゆこうと思います。

 

そもそも音楽とは何か?を考えてゆかねばならないのですが、これについては芸術論となりますので、ここで語ることはできないわけではないのですが、それをやってしまうと紙面の都合をどうするかという大きな問題がでてきます。ブログですから厳密にいうと紙面の関係はないのですが、表題との整合性との関係でそれはかなり難しい問題となりますので、別のブログにて展開してゆく予定であります。あらかじめ、ご了承ください。

 

さて、ここでは音楽とは表現活動であると仮定します。そうすると、表現とは何かという問題が出てきます、ここが重要でありまして、つまり、音楽で表現しなければならない人がこの世には存在するということであります。詳しくは今後、別のブログにて論じてゆく芸術論を参照していただきたいのですが、人間には生まれ育った環境の履歴において、様々な心の状態に仕上がってゆきます。その中でも音楽が好きな人は音楽により心を満たす人であり、つまり、心中を音で表現する人であり、さらに深く掘ると、音が足りていない人であるといえます。音が足りていないから音を欲し、その音により心中を表現するのです。このような人々は言葉ですべてを表現しようとする学者や小説家などとは対照的でありまして、言葉で表現するよりも音で表現することを選択する人であります。

 

その意味で、例えばクラシック音楽を思い出していただきたいのですが、わかりやすい例ではビバルディの「四季」は歌詞はないですけど、四季を感じることはできませんか?あのような音楽が本来の音楽であると私は個人的に思っているのですが、音ですべてを表現しきっている点が非常に素晴らしく、とりわけ私は「冬」の第2楽章が好きです。冬の寒さの中でのぬくもりであるなど、パラドックスを非常にうまく表現できていることに感銘するのであります。

 

これがロック時代になるとやはりジミ・ヘンドリクス(以下、ジミヘン)ではないでしょうか。彼は歌詞付きの音楽をやっていましたが、人々を引き付けたのはやはり彼のギターソロでありましょう。歌詞により感情をわかりやすく表出化(最近の言葉では、見える化)したうえで、さらに激しいギターソロで彼の意思にくぎを刺し、見るものを圧倒したのであります。

 

ジミヘンは27歳の若さで他界しましたが、今でも伝説のギタリストとして世界のロック業界にてトップクラスの知名度誇ります。ジミヘンは私が生まれる5年前に他界しておりますのでリルタイムで彼を知ることは不可能であるわけですが、しかし、エレキギターを手にした時からジミヘンに対するあこがれがあったわけですから、彼の存在は心の中で確実に存在しているわけでありまして、また現在でもロック界においてはジミヘンの名前を聞かない日はないほどにジミヘンへの需要は高く、そしてかれの「音源」と「映像」だけで没後半世紀にわたり、いまだにロック界の頂点に立っているわけですから、これを事例にすると、「ライブなど必要あるのか?」という、非常に単純でありますが、深い問題へと到達することができます。

 

ビバルディに至ってはビバルディの肖像画を見たことあるくらいで、私が聞いたことのある四季は、ビバルディのオリジナルのオーケストラの演奏ではないですし(当然のことですが・・・)、いわんや日本のオーケストラがビバルディの四季を演奏しているのを聞いて「感動!」となるのは、さて、どのようなことであるのか?と皆様方は思いませんか?幸いにして多くのクラシックの偉大な作曲家たちは音を記号にして残していたのでその記号的な要素を感じ取ることはできるのですが、そこに込めてゆく感情面について、それは現場のコンサートマスターが決めてゆくことになるのですが、そのコンサートマスターの考えがビバルディの意思に沿っているか否かについて現代人は100%の確率でわかるはずはないのですが、それでも感動の演奏を提供できるのは不思議であると思われませんか?という問題意識であります。さらに、クラシック音楽は生演奏もよいのですが、音源や映像で楽しむこともでき、むしろ、近年ではネットの発達により映像で楽しむ人も増えており、こうなるとジミヘンと同じような疑問を持つようになるのであります。つまり、時代をはるかに超えて支持される音楽は、どんな時代であっても不動であるといえるのではなかろうかと思うのであります。

 

ここに商業的な意味が生まれ、芸術としての価値がさらに高まってゆく・・・こうなると好循環であります。ではこの好循環はどのようにして生まれてくるのかというと、それはやはり心の問題をつかんだアーティストがこの好循環を作ってゆく、そしてこの心の問題を理解しているマネジメント各人がアーティストとの協働において好循環を仕上げてゆくのではなかろうかと思うのであります。

 

まずは音楽業界についてを先にやってほしいとの声が非常に多いので、次稿からはこの序論を基礎として書き進めてゆきます。

 

次の更新は2020年8月20日を予定しております。この間に別のブログにて芸術論を展開してゆきます。

 

ご高覧、ありがとうございました。