ぷよプログ -13ページ目

実験その二

同じ日付の投稿をしたら、どうなるのかな、と。



一日に二回、投稿できるのか?

ちょっと実験。

お産の記憶

お産は三回。

どれも「難あり」。大変だったけれど、一番「痛かった」のは、三回目。陣痛促進剤を使ったわけでもないのに、始まった瞬間から最大激痛モードで陣痛がきたからである。しかもその陣痛は、助産師さんに言わせれば、「役立たずの痛み」であった。痛みの持続時間がなぜか短すぎて、お産を進ませる力にならないというのである。


短いとはいえ、ほぼ三十秒おきにやってくる激痛は強烈な吐き気をも引き起こし、吐きながらひたすら呼吸法をやるという、悲惨な一夜を明かしたのだが、お産寸前になって、赤ん坊の頭の位置がナナメになっていたことが判明。頭がひっかかって、うまく旋回できなかったことが、お産の進まない原因の一つになっていたらしい。


そのせいかどうか、お産自体もかなりの出血を伴ったようで、後産もなんだかトラブルがあった様子。意識朦朧としていた私は詳しい話を聞かなかったが、「まずいね、これ」という、主治医や助産師さんたちのひそこそ声が耳の奥に残っている。生まれた赤ん坊の無事な姿を見たあとも、「危ない」という理由で点滴をされたまま、五時間も分娩台の上に寝かされたままだった。


すべて終わったあと、主治医が、


「いやー、命がけだったねえ」


と声をかけてくれたのを聞いて、やっぱり危なかったんだなあと改めて思ったけれど、いまだに何がどう危なかったのか、謎のままである。






( _ _ ).。o○

広島で小学生の子が殺された事件の犯人が捕まったらしい。

ペルー人で、名前はヤギ、とのこと。


私はてっきり、しばらく前の奈良の誘拐殺人事件の模倣だろうと思っていたのだが、どうもそうではなかったようだ。


いくつかのニュース記事が、日本語を話せない犯人の孤独さや孤立した生活を犯行に結びつけるようにして書いていたけれど、孤独で孤立した人間が皆、子供を絞殺するわけではない。でも、もともと子供を傷つけて殺そうという妄念を持ったような人間が、孤独で孤立した環境に置かれるのは危険だとは思う。


孤独で孤立した心が他人に向かって妄念を抱くと、歯止めになるものが少ない。そういう心は、殺される子供の痛みからも、子供を奪われる家族の苦しみからも、きっちり孤立しているだろうから、それらに犯行を引き留められることはないだろう。


もしも歯止めをかけるものがあるとすれば、犯罪者となる自分の境遇を恐れる気持ちぐらいだろうけれど、日本の事情をよく知らないような犯人であれば、簡単に逃げおおせると思っていたのかもしれない。ペルーのストリートチルドレン問題などをネットで見かける限りでは、殺された子供のために警察や地域の人々が必死に犯人探しをするだろうなどと、ヤギという男は想像しなかったのではないかと思う。


なにより大切な子供の命を、こういう犯行によってもぎ取られて失ってしまったご家族の気持ちを思うと、気が遠くなりそうである。その気の遠くなるような思いを少しでも感じる能力が犯人にあったなら、こういうことはしなかっただろうに。





悲しい犯罪

先日、女子高生が母親に酪酸タリウムという毒物を飲ませ、殺害しようとしたという事件があった。

私は報道をきちんと追いかけていなかったので知らなかったのだが、テレビなどで、その女子高生がアスペルガー症候群だとするニュースが流れているらしい。


これまで何度か、猟奇的な犯罪とこの障害名が結びついて報道されたことがあったけれど、幸か不幸か、アスペルガー症候群という名前は、世間ではまだそれほど知名度が高くない。興味の無いひとにとっては、

「あの、なんとかいう面倒くさい名前の障害だよね」

という程度のものである。

けれども、母親の症状をプログに克明に書いていたなどという経緯の異様さから、こんどこそ、この障害の名前が、最悪の印象と共に、多くの人の脳裏に刷り込まれてしまうのかもしれない。


自閉症の息子の療育教室では、アスペルガー系の子供たちや、高機能自閉症と言われるタイプの子供たちだけの、グループ学習を行っている。ちょうど息子のレッスンの時間と重なっているため、待合室は、十人ほどのアスペや高機能の子供たちでいっぱいになっていて、とてもにぎやかである。

彼らは往々にして、とても人なつっこく、おしゃべりである。初対面だろうと何だろうとかまわず、しゃべりたいだけしゃべりかけ、ものすごく早い頭の回転そのままに、どんどん話題を変えていく。でも視線が合うことは滅多になく、こちらからの問いかけに返事がくることも、あまりない。人の話なんて聞いてないのである。そして気が変わると、唐突に立ち去っていき、あとは見向きもしない。彼らがあまりに親しげなので、次に会ったときにも同じようなつもりで、にこやかに挨拶したりすると、今度はまるっきり無視されたりする。私たちが慣れ親しんだやり方で交流しようとすると、とたんに、齟齬が生じるのである。


彼らは言葉の後れはないし、勉強も平均以上にできる場合が多いらしい。だからたいていは普通学級に通っているのだけれど、なにしろ上のようなコミュニケーションスキルの持ち主たちであるから、クラスのなかで大きなトラブルを起こしたり、いじめにあったりする場合が多いという。

私はアスペルガーや高機能自閉の子たちがとても好きである。正直、話をしていると、ぶんぶん振り回されて、恐ろしくくたびれるのだけれど(心が消耗する、というほうが近いかもしれない)、内側に持っているもののとてつもない豊かさや、うまく場を得られれば大きく花開くかもしれない可能性に、強く心を引かれる。

それと同時に、彼らが置かれがちな境遇を思うと、とても恐ろしくなる。

他人の立場を理解しにくい特性のために、悪者にされがちで、家族からもクラスメートからも教師からも、非難ばかりされて育っているとしたら……。

高い知能とはアンパランスな、自閉症的なこだわりや、一件奇妙なふるまいが、日常的にからかいや侮辱の対処になっているとしたら……。

周囲の人たちとは違う、自分だけの感受性を言葉にしても、全く理解されないという経験ばかり積み重ねて、自分の個性に自信が持てず、絶望したまま育ってしまったとしたら……。


そうした生育歴による圧迫が、最終的に犯罪という形になって爆発するのだとしたら、あまりにも悲しいことである。


そうならないために、家族も、教育の現場でも、手を尽くしてケアしてほしいし、世間にも正しい理解が広まってほしいと思うのに、事件報道によって、最初から最悪のイメージばかりが流れてしまうのだとしたら、ほんとうに残念なことである。

* * * * * *


先週出会った、高機能自閉の子は、同行していたうちの一番下の娘の頭を、やさしくなでなでしてくれた。きっと、自分よりも小さな子にはやさしく触れるようにと、家族からよく教えられて育ってきたのだろう。

ところが彼は、娘が撫でられても平然としているのを見て、こう言ったのである。

「これ、何ともならないや。ねえどうして、どうもならないの?」

彼は、自分がなでることで、娘が泣くことを予期していたらしい。私は、ちょっと考えて、こう答えてみた。

「なでなでしてもらって、うれしかったからだと思うよ」

彼は聞いていたけれど、返事をせずに、怪訝な顔をしたまま、「これ、どうして?」と、口のなかで繰り返していた。

たぶん、彼自身、人に触られるのが大嫌いなのだろう。娘のことを「これ」と呼んでいるのが、ちょっと微妙なところだけれど(もしかしたら赤ん坊を物だと思っているのかもしれないけれど、少し言葉が苦手な子らしいので、「この子」とか「この赤ちゃん」という言い方を思いつかなかっただけかもしれない)、彼なりに一生懸命、自分と他人の感覚の違いというものを、模索して理解しようとしている様子がうかがえて、興味深かった。

他人とふれあうような、こんな些細なきっかけをどんどん利用して、他人がどんなものかをリアルに学ぶ手がかりをや経験を頻繁に与えていったなら、家族に毒物を盛って病状を観察しようなどということは、あり得ないと思うのだが……。

子供が病気になったとき

親の心情をもとに分類すると、子供の病気はつぎの二種類に分けられる、と思う。


一つは「ふつうの病気」。多くの子供さんが通過儀礼のようにかかるもので、対処法も広く知られているような種類の病気である。もちろん、よくあるからといって、ナメてかかっておろそかにしてはいけないのだが。


もう一つは、「とんでもない病気」。


たとえば、子供の病気大事典なんていう本を開いても、ずっと後ろのほうにちょっと書いてあるだけの、珍しい病気とか、名前はよく知られていても「それだけは勘弁してほしい」と思われているような病気・障害などが、こちらに分類される。


「よくある病気」のほうについては、きっとたくさんの方が適切なお話を書かれるだろうから、私は「とんでもない病気」のほうを書いておきたいと思う。


我が家の三人の子供のうち、上二人は、「とんでもない病気」の持ち主である。それぞれの病気が発覚したとき、私は自分の脳に「落ち着け!」と号令をかけた。


まず落ち着くこと。これは一番必要なことだと今でも思う。

落ち着かなければ、冷静に情報を集めて、必要な行動を取ることができなくなるからである。


七年前の夏、当時二歳の長女が急にまぶたを腫らした。目にゴミかばい菌でも入ったのかと思って、よく見たけれど、充血もなければ、痛みやかゆみもない。ヘンだなと思いつつ、しばらく様子を見ていたのだが、やがて食欲が消え、水も飲まなくなった。


熱はなかったけれど、風邪かもしれないと思い、かかりつけの小児科に連れて行った。医師は長女の顔を見て、


「尿検査をしますから、おうちで尿をとってから、もう一度来てください」


といった。それで、採尿パックをもらって帰宅したのだけれど、すでに尿など一滴も出ない状態だった。顔色は紙のように真っ白になり、もはや自分では立ち上がることもできなくなっていた。半ば気絶したような長女を抱えて、再び病院へ。医師は、ただちに総合病院へ行くようにと私に指示し、大急ぎで紹介状を書いてくれた。


行った先の病院に、そのまま入院することになった。ほとんど昏睡状態の娘が運ばれた先は、人工呼吸器をつけた子供たちのベッドが並ぶ病室だった。


長女の病気は、ネフローゼというものだった。

腎臓の病気だということぐらいは知っていたけれど、どんな性質の病気なのかは全く知らず、一過性のものなのだろうぐらいに思っていた。けれども主治医は私にこう告げた。


最低二ヶ月の入院。

ステロイドの大量投与と、アルブミン(タンパク質)の点滴投与。

そして、再発を繰り返す可能性の高い病気であること。


ステロイドなんて恐ろしい薬を大量に使って、副作用は大丈夫なんですかと、私が聞くと、医師は、


「ステロイドがない時代は、みんなこの病気で、死んじゃってたんですよ」


と答えた。

薬の副作用よりも病気のほうが怖いから、薬を使うのであると理解した。


それから私は、娘のベッド脇で、ネフローゼに関する本を手当たり次第に読みあさった。

最初は「家庭の医学」のようなものから始めて、この病気が免疫系の異常に関わるものらしいと知ると、今度は免疫学の本を手に入れて読んだ。可能な限り正確に病気のことを理解して、子供と一緒に立ち向かっていかなければならないと思ったからである。


発病した年には、娘は合計六ヶ月もの入院生活を送った。


その後、長男が重度の自閉症であることも判明。

可能な限り落ち着いて対処しようと努力したものの、さすがに浮き足立つのは押さえられなかった。

それでもなんとかネットなどで情報を集め、療育先を見つけて通い、出来る限りのことをした。いま思い返しても、よくできたと思わずにはいられない。


そうこうするうちに、私は生まれてはじめて喘息を発病し、体中ガタガタになり、鬱病にまでなってしまった。それが治ったと思ったら持病の薬の副作用であやうく死にかけ、三ヶ月も起きあがれないという目にあった。



子供が「とんでもない病気」になったら、親はとにかく、自分の健康管理に気をつけ、心身の体力を維持すること。これも、ものすごく大切なことである。気力だけでは、闘病生活を支えるパワーは続かないのだから。



あれから七年。

長女の病状は、しだいに軽くなりつつある。

発病回数はあいかわらず多いけれど、治りも早くなっているのだ。


長男の自閉症は、残念ながら重度のままであるが、地道にいろいろな訓練や勉強をしてきたおかげで、なんとか文字の読み書きだけはできるようになってくれた。いろいろな希望も見えつつある。


私もだいぶ健康を取り戻して今に至る。

これからもまだまだ、子供たちの病気とのつきあいは続くのだから、ますます元気にならなければと思うこの頃である。







ハンディのある子供たちの運動会……

一年で一番気が重い日。

そして、この上もなく疲労困憊する日。

それが、わたしたちの運動会である。


なにしろ、冷や汗かきながら祈って見ているしかないのである。


難病持ちの長女が、なんとか体調を崩さずに乗り切ってくれるように。

そして自閉症の息子が、何かとんでもないことをやらかさないように……。


長女のほうは、昨年は、運動会後に病状が悪化して、一ヶ月ほど学校を休むハメになった。


今年はそんなことがないようにと、ダンス以外の競技はドクターストップがかかった状態での参加だった。幸い、大きく体調を崩すこともなかったけれど、なにしろ体力のない子だから、疲れが取れて顔色が戻るまで、一週間はかかった。それでも長女は、出られてよかったと喜んでいた。みんなと同じようにやりたいのである。だから毎年、無理かもしれないと思いながら、休ませずに出してやっているのである。


自閉症息子のほうは……彼としては、ほんとうに頑張ったと私は思う。


たとえ徒競走をゆっくり歩いてゴールしたとしても、おみこしかつぎ競争で、おみこしを吹っ飛ばしてチームを苦況に陥れたとしても、退屈のあまりグラウンドの砂を口いっぱい頬張って、周囲の人々を驚愕させたとしても、大好きな女の先生にぶらさがってコアラのように離れなくなってしまったとしても……。


終わったあとは、家族全員、口をきくのも面倒なほどぐったりしていた。


撮ったビデオは、まだ一度も見ていない。

心の問題・脳の問題

かつて、自閉症は、「親の育て方が悪いために引き起こされる異常」と考えられていた時代があった。子供を愛さない冷たい母親が糾弾され、そのような「悪い母親」から子供を引き離すことで「治療」しようとした医療機関もあったとか。


とくに、ユングやフロイトの精神分析の方法を尊重する立場の人たちは、自閉症を幼少期のトラウマのせいと考えて、その元凶と推測される母親に対して、ことさらに厳しく当たったそうである。子供の異常に心を痛めて、医療機関に足を運んだ母親は、そこで無実の罪を着せられて、必要のない苦しみを受けてきたわけである。いまとなっては遠い過去になりつつある、こうした話は、別の病気では、まだまだ現役のエピソードでもある。


つい昨日のことだが、私は、チックや強迫神経症が、大脳基底核と呼ばれる部位の病変を原因とする場合がある、ということを知った。


小さな子供に多いチックは、いまでも心因性と考えられることが多いのではないかと思う。この場合も、一番やり玉に挙がりやすいのが、母親である。実際、我が子のチックを止めようとして、執拗に叱りつけて「しつけ」をする母親が少なくないため、事態を一層こじらせる場合もあるわけだが、もともとの原因が、大脳基底核のドーパミン受容体が過敏に働きすぎていることだという知識があれば、母親に罪を着せる風潮も消え、世間体を気にした母親が、やたらと子供を叱りつけるということもなくなるのではなかろうか。


過剰な確認癖や手洗い行動などで生活を圧迫する強迫神経症も、もっぱら「几帳面すぎる性格」のせいにされ、親の責任を追及されることが多いのではないかと思うが、これも幼少期に溶連菌に感染することで、脳内に自己免疫病が引き起こされてしまい、大脳基底核に障害を与えているのではないかと言われているという。


一口に「心の問題」などとくくられて、しつけや気の持ちようで解決できるとされているようなものが、実は医学的な治療を要する問題である事例は、きっとまだ他にもあるに違いない。


自閉症児を持つ一母親として、科学的無知がもたらす、ありもしない罪や必要もない罰には、ことさらに用心深くありたいと思う。


ちなみに、チックや強迫神経症を合わせ持っている自閉の子は少なからずいて、私の息子もそうである。息子の執拗なチックがはじまるたびに、何か心因性のものであろうと考えて、ひたすらその原因を探していたけれど、もっと別の方向から、脳内の調子を整える手段を探すべきだったと、後悔している。








少子化?

少子化対策という言葉が好きになれない。政治の都合で命を増減しようという発想に、なじめない。


私には、三人子供がいる。ちかごろの平均出産率をだいぶ上回る数字だから、多子化に貢献していると言われそうである。


けれども、三人の子供のうち二人が難病児と障害児であると言ったなら、「政治的」な見地から子供の価値を計りたがる人は、きっと「引き算」を始めることだろう。


少子化対策で出生が求められている子供たちは、いまの社会構造を支える戦力になる人材である。身も蓋もないことを言うなら、有能な納税者となるべき層や年金の財源を保証してくれる若い層が必要なのだ。


出産も育児も、プライベートなものである。どのような子供でも、生まれれば愛しい。また、愛しいからこそ、命かけて産むのである。政治は出産や育児の環境を左右するだろうが、真に子供をはぐくむのは政治ではない。政治に「愛しい」などという感情はない。


少子化がこれ以上進めば政治が困るのは私も理解する。けれど、子供がたくさん生まれることで、何もかも解決するという保証がどこにあるのか。いまでさえ、保育所がないとか住宅が狭いとか、育児環境が悪すぎるとかいう問題が山積みであるのに、このまま子供が増えたら、どうなるというのだろう。


うちのように、ハンディを抱えた子供を育てていると、「少子化対策」といわれるものの底の浅さ、目の粗さが、いやというほど見えてしまう。「人手がない」ことを理由に、ないがしろにされつづける特殊学級の教育の現状や、長期欠席する難病児のための学習のケアが「皆無」であることを、これでもかと見せつけられれば、このまま子供が増えたとき、私たちのような立場のものがどんな場所に追いやられていくか、想像がつくというものである(一つだけ付け加えなければならないのは、現場の先生方は個人的な努力でがんばってくださっているということである。それは政治とは何ら関係のない、個人的な情愛から出る努力である)。


もしも政治がほんとうに多子化を望むのであれば、いまいる子供たちを大切に育む土台を作るべきだろう。さしあたり、ちかごろやたらと増えている子供の虐待だけでも、なんとかしてもらいたい。あれこそ、政治が力をふるって個人を救うことのできる可能性のある分野ではないか。


子供を愛しんで育む思いのない場所に子供は増えないし、強引に増やすのは間違いだと思う。



ことわざ

 日常のなかでことわざを使うという習慣が無くなって久しい。

 子供のころは、親に、「いそがば回れ」だの「二階から目薬」だの「石の上にも三年」だのと言われ、よく諭されたものだが、それを自分の子供にやる気がしない。

 まず、「いそがば回れ」。私はこれを聞くと、「回る前に確実な最短距離を調べろよ」と思う。やみくもに遠回りしたって、よけい遅くなるだけである。調査手段が全くないときのみ、このことわざは有効になる可能性が出てくるが、それは結果論であって、回れば必ず早く付くいう保証はどこにもない。だから使わない。

 次に「二回から目薬」。こんなことわざを教えたら、うちの子供は絶対に言葉どおり実行しようとするに違いない。なので、言わない。

 そして「石の上にも三年」。体に悪い環境に三年も無理して耐える必要がどこにある。石はいつまで座っても石である。痔になったり関節を痛めたりする前に、とっとと撤収したほうがよい。


 子供に教えるとすれば、身をもって味わった「悪銭身に付かず」「弱り目に祟り目」あたりだろうか。しかし親が実感してきたことが子供に伝わる率なんてたかがしれている。この伝導率の低さを言い表すことわざって、何かなかったろうか。