子どもの習い事 | 春風あかねのブログ

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歯科衛生士とケアマネージャーの資格を持っています。くも膜下出血からの生還。最近では自己愛性パーソナリティー障害の人との関わりを絶とうと決心。

もう孫がいるのですが、我が家の子ども3人(長女・長男・二女)の習い事と後から振り返りの思い出を書きたいと思います。

長女は小学校1年の時に近所に出張していたヤマハエレクトーン教室があり、そこに通っていました。送迎もいらないのでよかったです。エレクトーンは私の嫁入り道具で持っていましたので、手っ取り早かったと言うわけです。

本人は当時どう思っていたのかな?個人レッスンの為月謝も高かったのを覚えています。小学2年の時にその教室はなくなり、隣町の楽器屋さんに行くことになり、二女を連れて車で待ちながらの送迎大変でした。しかし、高校3年初めまで同じ先生で続け、県コンクールにも出ることができました。グレードも6級取得。

あと、小学1年から近所で学研教室にも通っていました。

小学5年の時に小学校体育館でバレーボールチームの練習に誘われ、6年まで週2回練習していました。

中学2年生から隣町(車で20分)の塾へ。数学と英語を教えていただきました。

塾では大学受験まで大変お世話になり、大学卒業後もちょくちょく顔を出していて、結婚の時、出産の時までお祝いをいただいております。

高校受験で志望校に合格できたのもこの塾の先生のおかげでした。

高校では進学校ということもあり、成績も中ぐらいでしたが、定期テストがあるたびに塾の先生が親身に教えてくださいました。私も夜遅くの送迎大変でした。帰宅が夜10時とかでしたから。

 

長男は小学校入学前からスイミングに通いたかったのですが、中耳炎が長引き、主治医からOKが出たのは小学2年生になってからでした。スイミングは6年生まで続けました。4年生からは柔道の道場へ週2回。ダンナと私で手分けして送迎していました。試合も長女と重ならなければ行くようにしていました。彼は柔道を始めたいと思っていたのか定かではありませんが、ダンナが柔道をやっていたというのもありますし、ダンナの仕事先輩が道場を持っていたというのもあったかもしれません。、入門当初は子どもが誰もいなくて、大人とばかりやっていました。帰宅後はダンナと家で練習。いつも泣かされてその日の復習を家でドタバタとやっており、しまいには床が抜けてしまいました。それからその道場は徐々に子どもが増えて、県大会や全国大会レベルの子どもたちが在籍するようになりました。長男も中2の新人戦では県大会団体3位となり、姉と同じ高校へ入学し、柔道部へ。柔道整復師になるきっかけだったかもしれません。ケガでケガで最後には膝の前十字靭帯断裂で入院手術しました。大学進学希望で塾も中1から姉と同じ塾へ。またまた大変お世話になりました。

 

二女は姉とは6歳、兄とは4歳、歳が離れています。4月生まれで体が大きく、姉のバレーボールにいつもくっついていたので小2からバレーボールを始め、ひと学年上の子より上手で4年でエースアタッカー。その後中学、高校、大学でもバレーボールをやっています。スイミングも小1から小6まで。学校の水泳大会で活躍していました。エレクトーンも小学校入学前からヤマハの幼児科からスタート。高校2年まで。アンサンブルでコンクールに出たりしてました。個人よりもみんなでやる方が好きだったようでした。やる気がなくなった頃スパッと辞めました。小学校5年の時に並行してヤマハ英語教室へ。先生がとても熱心に教えてくださり、大学入学までお世話になりました。英検2級レベルまで行くことができました。その他に上の子たちと同じ塾へ。二女は高校時代成績がよかったので、学年選抜クラスに行くことができました。選抜クラスは公立・国立進学狙いなのですが、希望の大学にまさかの自己推薦で早く決まってしまったので、クラスで肩身が狭かったと卒業式の時に泣いていました。

 

今思えば、果たしてよかったのか、本人たちはどうだったのか。それより、文句も言わず月謝を工面してくれたダンナ。送迎で忙しかった自分・・・

 

もっと子ども達それぞれの個性を引き出してあげられなかった過去の自分。

 

以上、子どもの習い事のお話でした。

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。