その日、クオンの周囲では転機が訪れていた。
「クオン、ようやくだな!!」
「あぁ、今までありがとう、ヤシロ。」
「なんのなんの!!これくらいどうってことないよ!!ちょっと胃薬飲みすぎたくらいで済んでよかったよ!!」
「……………。本当にごめん。ありがとう。」
イキイキとした笑顔をクオンに見せるヤシロは、モガミ領から戻って以来、かなり体重を落としている様子であった。
それは、宰相たるコウキの陰謀……にしたいところではあるが、そうではなく、単に旅に向かっていた際にたまった仕事による結果であった。
本来であれば、もう少し長い期間をもって通常の量に戻していけるように配分していた仕事を、1ヶ月の間に再びモガミ領に向かうために時間を工面したのだ。
仕事の量も配分するどころか増えるというもの。
そう考えれば宰相のせいといえばせいではあるが、自業自得の感も否めない。
そんな責める先もない中での執務は二人の心身を攻め勇めた。
そのため、すっかりヤシロは胃薬と親友関係となってしまい、常に共にいる相棒としてしまったのだ。
体調面での救いという意味では、クオンよりもできた相棒である。
「さて、こうしちゃいられない…では殿下。私はこれより、旅の準備をしてまいりますので、一刻ほどお時間をいただきます。」
「あぁ。俺もすぐに準備をする。」
「はい。では、準備ができ次第、参りますので少々お待ちください。」
ヤシロは姿勢正しく立ち上がり、辞去の挨拶をすると丁寧に頭を下げ、それから優雅な歩調で執務室から出ていく。
「……ふぅ……。」
一刻、とは言っていたが、恐らくそれほど遅くはならないだろう。旅の準備は、ある程度、彼付きの女官が済ませているはずだ。
「……キョーコ……。」
一度は、王太子宮に上がったという、少女。
クオンの手紙を受け取り、その通りに近くまで来てくれていた、愛しい人。
それなのに、クオンは彼女に出会うことができる芽をつぶしてしまった。
あの娘は、他の貴族の令嬢とは違う。
秘され、辺境の地へと追いやられた少女は、普通であれば『悲劇の令嬢』となっていたはず。
しかし、少女はその辺境の地と呼ばれる場所で、彼女を慕う者達に愛され、大切にされ、そして彼女自身も愛し、大切にして住みよい地へと変えていった努力の人であった。
そんな彼女が、他の令嬢たちのように、きらびやかな馬車で王太子宮に上がることなどありえないのだ。
少し考えればわかったことなのに、煌びやかな世界の女性たちを見すぎてそのことに思い当りもしなかった。
これは完全なるクオンの落ち度。
責められて当然のことなのだ。
「でも、必ず、君に会うから。」
その結果がどのようなものとなろうとも。
必ず会う。
会って話をして、できればクオンの唯一の願いをかなえてほしい。
「……………。」
待っていて、と願うことはできない。これ以上を、キョーコに望める立場ではないのだ。
それでも、少しでもクオンのことを想ってくれたらと思う。チャンスをくれたらと、そう願ってしまう。
信じなかったのはクオンの方なのだ。
全ては自分が悪い。
ゆえに、少女に会えたら、ひたすら乞うしかないだろう。
君の愛がほしいと。ずっと愛していた、忘れられなかった。だから、共に生きてほしい、と。
「………………。」
クオンを見つめる、キラキラと輝く大きな瞳を忘れたことはない。
さらりと流れる、美しい茶色の髪の指通りの良さは、心が震えるものだった。
きっと、可愛らしく成長しているであろう、クオンのお姫様。
どんな姿になっているのかを絵姿ですら見たことはないけれど、一目見たら間違うはずがない。
その自信が、ある。
「………………泣くな。」
穏やかなテノールが耳元で響き、コレットの身体がハデスの腕で囲われる。
「死にたく、ない………。」
自分は今、死ぬところだった。
死んだら今まで接してきた人たちと触れ合えないところだった。
そしていずれ、全てを忘れてしまうところだった。
『恋』をした、ハデスも含めて、全部。
そう自覚したら、涙が止まらない。
ポロポロ、ポロポロと溢れる雫の止め方が分からなくなってしまった。
「忘れたく、ないよ~~~………。」
死した人々は、どんな想いでいるのだろう。
愛した人々を残して死んだ自身を、どう思ったのだろう。
送った人々のことは、冥府に行けるようになってからも関わらないと決めた。
アンノ先生のことだけはどうしてもとどまることができなかったけれど、本来、生きているコレットが触れていい領域ではないのだ。
あの場には、亡くなった父も母もいるのだろう。
でも、どれだけ想っても触れないと、そう固く誓った。
それなのに、ハデスのことだけは割り切れない。
忘れたくないのだ。
芽生えた想いは、少しずつ芽を伸ばし、花を咲かせた。
咲いた花の先にある世界は、今までとは全く色彩の異なる世界で。
その世界がなくなったところに、もう戻りたくはない。
「泣くな、コレット。」
想像するだけで、感情が揺れる。
揺れた感情は、涙として身体の外に溢れ出る。
「薬は飲んだとはいえ、まだ本調子じゃない。…泣けば、体力を消耗する。」
「うぅぅぅぅぅっ……。うぇぇぇぇぇ………。」
耳に優しいテノールの声が、コレットを気遣う。
この声も。
「大丈夫だ。お前は生きている。」
「うえぇぇ……。うぇぇぇぇぇぇ………。」
背を撫でてくれる、大きな手のひらも。
コレットを包みこむ、暖かな腕も。
「死なせはしない。…大丈夫だ。」
「うぅぅぅぅ…。うぅぅぅぅ……。」
ギュっと抱き込まれると、ハデスの香りがした。
忘れたくない。
忘れないためには……死にたくない。
「お前は生きている。……大丈夫だ。」
確かに生きている。しかも、天界の神が作った薬によって生かされた。
しかし。
「で……でも………。」
「ん………?」
「でも………い、いつかは………私……死にます……。」
それは、『人間』である以上。
覆らない、真実。