今日気付いた事 | 一緒に歩いていこう、またそう言える日まで ~自死遺族の日記~

一緒に歩いていこう、またそう言える日まで ~自死遺族の日記~

反復性うつ病と診断されていただーさん。
闘病5年の末、2017年9月突然私を残し逝ってしまいました。

《一緒に歩いていこう》

これはだーさんと私の闘病ブログのタイトルでした。
今はだーさんの死と自分の生に向き合うブログです。

こんばんは。

筋肉痛が酷く、久し振りに湯船に浸かりました。
アレだったし。
随分楽になったぁ。

久し振りと言えば、だーさんが亡くなってから初めて救急救命の密着番組を観ました。

この後の内容はリアルな話しになります。
ご自身の体験からフラッシュバックを起こしてしまう恐れのある方はここでリターンをお願いします。












あの日。

だーさんを看取り、全ての延命のための機器を外した後再びだーさんに会いました。
ほっとしたような安らかな、笑顔にさえ見える顔でした。

そして、病院の人、今となってはナースだったのか医師だったのかさえ記憶がないのですが、その人から、他の病院で検死になる事、警察が介入する事になると聞かされ、移送は葬儀社がするので葬儀社を呼ぶように言われました。
警察は病院から連絡するとも。

紆余曲折あり、とある葬儀社にお願いし葬儀社の方が来られたのですが、それと同じくして警察が来ました。

葬儀社との話しもそこそこに、警察から私の立ち会いのもと自宅の現場検証をするから家に戻るよう言われ、だーさんのことは葬儀社にお任せし、病院の人には支払いはどうすれば良いのか聞くと、後日入退院窓口に行けば大丈夫と言われ、バタバタと自宅に戻ったのです。

(現場検証の事はまだあまり思い出したくないので割愛します。)

その後、支払いに行きましたが、とにかく少しでも早く立ち去りたくて逃げるように帰りました。

で、今日観た救急救命の密着番組を観てという所に話しが戻ります。

私は心の何処かに
『何で病院はだーさんを救ってくれなかったんだろう』
と言う勝手な責任転嫁したい気持ちがありました。

腐っても大学病院だろ?
腐ってもERだろ?
なんて。

あの時、私は待ち合い室でかなり待たされ、呼ばれた時はてっきり意識を回復しただーさんに会えるものとばかり思っていました。
救急車で運ばれている時も、そう思っていたからこそ少しは冷静でいられたのです。

なのに、私が見ただーさんは沢山の管に繋がれていて、誰かわからない人からは
『心停止時間が長く続いたため低酸素脳症です』
と言われ。

あまりのショックでそれがどういう意味か判断する能力もなくて
『それはどういう意味ですか?』
と聞くと
『良くて脳死、持って2日という意味です』
と言われました。
他にも色々説明があったような記憶はありますが覚えていません。

私は、だーさんを看取るまでの間
『何で病院にいるのにもっと早く心臓を動かせなかったの?』
『自殺しようとした人間は死んでも仕方ないって思って適当に扱ったの?』
と思っていた部分があります。
ううん、だーさんが亡くなってからも暫くそう思っていました。

けど、病院の人たちは、だーさんを救おうと一生懸命やってくれていたんだと、テレビを観て思ったのです。

幾つもぶら下がっていた点滴。
人工呼吸器。
人工心肺装置。
管だらけだったのは、なんとか戻したいと手を尽くしてくれた証明だったのでしょう。
手を尽くしたけどあれが限界だったのだと思いました。

「話しかけて下さい。耳はきっと聞こえているから」
「辛いね、寝てないんでしょ?」
と背中を擦ってくれたナースがいました。

「力になれなくてごめんね」
と手を握ってくれたナースがいました。

ERで働く医師やナースは、死と向き合う事も多く、またその家族ともその場限りの接点しかない事も多いのだと思います。

私はあれ以来、あの場所、特にERに足を運ぶ事が出来ていません。
けれど、いつかお礼に行かなきゃと思いました。

「助けようと全力を尽くしてくれてありがとうございました」
と。