鞆の浦・下関・広島と呉・・・最後の四日目の港町は瀬戸内の「御手洗(みたらい)」です。「御手洗(おてあらい)と書いて御手洗(みたらい)と読むんですね~」とゲストハウスの若い女性が真面目な顔して言いましたので、少し笑ってしまいました(失礼)。
広島市内~呉市、安芸灘とびしま街道の「下蒲刈」「蒲刈」「豊浜」の3つの島を
わたりユックリ走り続け一時間半の午前7:30に御手洗港に着きました。
有料道路を使い走行距離は62㌔でした。早速下車して、港町を徘徊?・・・
ですね~(笑)
湾岸前に船宿が並ぶ 住吉神社 この境内の参道を花魁道中をしたという
嘗て住吉神社が完成した最初の祭りに華やかな花魁道中が繰り広げられ
遊女は断るごとに町の看板とされたびたびの行事にかり出されたという
毎年、正月二日には遊女を動員して晴れ衣装を着させ、三味線を鳴らしながら町内を年始のために廻るのがこの町のシキタリとなっていたというが…現在もあるかな?
御手洗の歴史を少し・・。
江戸時代、この辺りの地勢が「潮待ち・風待ち」に適した天然の良港として注目されたことから、寛文6年(1666)広島藩が町割りを行って「御手洗」が誕生しました。
同じ頃、北前船の西廻り航路も整備され、千石船などの大型船が往来するようになった御手洗は、港町として急速に発展していきます。
幕末、兵の近代化を図った広島藩は、軍艦や洋式銃を購入するため、御手洗で薩摩藩との密貿易を開始。後に長州藩も交易に加えた広島藩は、慶応3年(1867)9月に「薩長芸軍事同盟」を締結いたします。そして大政奉還で混乱する京に兵を送るため、同年11月、広島藩と長州藩の艦隊が御手洗に集結。軍事協定「御手洗条約」を結び、共々上洛しています。江戸時代に繫栄し、幕末動乱の舞台ともなった御手洗。
お茶屋や船宿、町屋や史跡の数々に当時の面影が窺えます。
(御手洗重伝建を考える会)参照
湾岸に整然と並ぶ船宿や集落 北前船寄港地・船主集落 おちょろ船もここから
(古写真)▲
幕末絵図 潮待ち・風待ちで賑わった御手洗港(明治) 北前船
御手洗は「風待ち潮待ち」の船がたくさん集まり、離島のため運ばれる物資は伝場船で集配送する(中継港)として西日本随一の規模ともいわれています。
千砂子波止と高燈篭 おちょろ船 若胡子屋の中庭 右端に墓が見える
「おちょろ船」とは風待ち・潮待ちのために停泊している船の乗組員を相手にする女たちを乗せた舟だそうです…
何隻もの小舟「おちょろ船」は身寄りのない娘・未亡人を乗せ、沖に停泊する船の
間を縫うように(ちょろちょろ)薪や水、食料などを売って廻り彼女たちを「菜売り女」と呼ばれる。漆黒の夜の海をカンテラを照らし停泊船をめぐる「沖芸者」と言われる遊女にもなり、上陸できない船乗りたちを慰める役割をするようになっていく…
若胡子屋(わかえびすや)跡 若胡子屋前で撮影 説明プレート
若胡子屋
享保9年(1724)に広島藩の免許を受けたお茶屋(遊郭)の跡。一説には百人以上の遊女がいたという。往時を留める奥座敷は屋久杉を使った贅沢な造りで薩摩藩との繋がりが深いように見えます。この若胡子屋の中庭にだけ花魁の「八重紫」の墓があるという。この日は残念ですが建物内は、ほとんど拝観することは叶いませんでした
御手洗の経済活動において茶屋はなくてはならない存在でした。もちろん遊女たちの犠牲の上に築かれた繁栄であったということは言うまでもありません。
オレンジーナCM撮影場所の理髪店 乙女座(おとめざ) 江戸みなとまち展示館
サントリーオレンジ―ナCMで使われた「御手洗の街並み」です
チョット掲載してみました。▼
今の残る「江戸時代の街並み」北前船とともに栄えた港町
御手洗は「重要伝統的建造物保存地区」に指定されています。
七卿落(しちきょうおち)遺跡 薩摩藩船宿 旧金子家住宅
旧金子住宅 幕末動乱の舞台
町年寄り金子家(屋号三笠屋)が賓客接待のために建てた屋敷。茶室は
上田宗箇流。慶応3年(1867)9月に広島藩と長崎藩が挙兵の約定を結んだ場所。
吉田松陰・大久保利通・坂本龍馬も御手洗に来島しています。
「おいらん公園に上る入口 石段を登ってきて眼下は「御手洗港」中継地▲
おいらん公園の石碑がある一般道路に出た時に広がる眺望がすばらしい。
(パノラマ風に繋げてみました)公園広場はこの上に更に上る、遊女の塔もこの上に
なります。
「遊女の塔」その昔、潮待ち風待ちの天然の良港に咲いた遊女たち
「頼みます 華のこの世の 後の世も」の願いも空しく故郷親元を離れて
この地に散り、桃の咲く丘に葬られ、いつの頃から土に埋まれ大樹の根に絡まれて
陽の光を浴びることもなく幾星霜の間、眠ったままの遊女の墓であった
弁天社の丘のあたりの急傾斜防止工事の際、古くは享保十五年(1730年)頃から
江戸時代末期に至るまでの遊女・童子それに関わる人達の墓が百基に余って発掘された 爾来その隣地に墓石を集め供養碑を建て回向をたむけた…
この度人権思想啓発の一助にと多額の寄付の申し出があり、これを受けて早速「遊女供養碑建立実行委員会」を発足した・・名称は「重伝建選定記念公園」愛称は「おいらん公園」とす遊女供養碑建立実行員会 平成十五年(2003)年十月吉日と石碑に刻まれています。 三弦に 我をなかせよ 秋の風 樗童
(遊女の塔 石碑 抜粋引用掲載しました)
遊女の叫び 石碑 海に向かい墓が並ぶ、その背面奥に遊女供養の碑 (合掌)
海に面して墓が建てられていますが、遊女たちの墓はこんな立派な墓ではありません
板かありあわせの石があるくらいで名があるとしても源氏名、本名はわかりません
どこに埋葬されたのでしょうか?この地に土となった遊女を偲び、海が眺められる丘から遊女供養の碑(この場所でしょうか?)の前で線香に火を入れ弔いました
(合掌)
私は売られてこの地に来てこんな勤めをしていますが、早く年季が明け両親のもとに行きたいです・・・どうかあの世では・・・無事両親と会い・・・楽しく暮らせますように・・・という声なき声が聞こえるようです。
また桃の花が綺麗に咲き誇る時期に来れたらいいですね~では、またね~