JR西日本伯備線で約40年ぶりとなる新型車両273系は4両11編成が導入され、現行の381系と順次置き換えられる。

 

新型車両のカラーは赤銅色にクリーム色のライン。

 

 

16日、JR西日本は特急やくも新型車両273系の導入計画を発表。15往復のうち、4月6日から6往復、同月26日から8往復、5月7日から10往復を新型車両で運行し、6月15日に導入を完了する。

 

 

これにより歴代やくもの塗装を施した381系のリバイバルやくもの運行を順次終了する。

 

 

紫色のスーパーやくも色(2023年2月17日導入)を含め、先頭が展望車のパノラマ編成車両は4月5日に運行を終了する。また、クリーム色の車体に赤い帯の国鉄色(2022年3月19日導入)と緑の帯の緑やくも色(2023年11月5日導入)はそれぞれ6月14日で運行を終了する。

 

 

なお、朱色帯のゆったりやくも色の引退時期は未定で、多客期などに臨時で運行される見通し。

 

この発表の数日前、早朝から日没までやくもを追いかけて右往左往。

 

 

快晴の日の出、黄金色に輝く鉄路を駆ける特急やくも6号岡山行、ゆったりやくも色。

 

 

冬は夙めて、いと白き霜と赤きやくも。

 

 

山陰本線普通西出雲行。

 

 

特急やくも8号岡山行、国鉄色。

 

 

東京発出雲市行、サンライズ出雲。

 

 

岡山始発の特急やくも1号出雲市行、緑やくも色。

 

 

特急やくも14号岡山行、ゆったりやくも色。

 

 

特急やくも5号出雲市行、スーパーやくも色パノラマ編成。

 

 

特急やくも16号岡山行、ゆったりやくも色パノラマ編成。

 

 

特急やくも7号出雲市行、ゆったりやくも色。

 

 

特急やくも18号岡山行、緑やくも色。

 

 

特急やくも9号出雲市行、国鉄色。

 

 

普通西出雲行。

 

 

特急やくも20号岡山行、スーパーやくも色。

 

 

特急やくも11号出雲市行、ゆったりやくも色。

 

 

特急やくも15号出雲市行、ゆったりやくも色。

 

 

特急やくも24号岡山行、国鉄色。

 

 

伯備線普通生山行。

 

 

特急やくも17号出雲市行、ゆったりやくも色パノラマ編成。

 

 

特急やくも26号岡山行、ゆったりやくも色。

 

 

赤く染まる大山。

 

 

振り返れば夕焼け。

 

 

空に三日月。

 

 

さ、おうちへ帰ろう。

今年は昨年と比較して雪が降らないと油断していたら大雪。

 

 

先月25日午前11時の時点で、境港では23cmの積雪を記録。

 

 

それはこの人の仕業。

 

 

骨の髄まで寒さが沁みる雪夜。境港駅前から水木しげるロードをひと回り。

 

駅前公園のカラー影絵。

 

 

昨年11月17日に公開された映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」の累計動員数が185万5,000人、興行収入は26億5,400万円を突破、過去に制作されたアニメ・実写版映画の実績を上回る大ヒットを続けている。

 

 

雪の上で呑気に寝ている「狸(河童の三平)」。

 

 

暗闇に浮かぶ目玉の団体「目目連」。

 

 

立体影絵になっている。

 

 

石川県能登地方の「あまめはぎ」。2018(平成30)年11月29日、8県の10行事からなる「来訪神、仮面・仮装の神々」として、ユネスコの無形文化遺産に認定されたうちのひとつ。

 

 

半身雪にまみれた「隠神刑部狸」。

 

 

雪中餅つき大会「こなきじじいと砂かけばばあ」はお正月限定影絵。

 

 

鏡餅の橙に扮した「目玉おやじ」もお正月限定影絵。

 

 

冷蔵保存「蟹坊主」は鮮度抜群。

 

 

「べとべとさん」が雪をかぶると「びしゃがつく」になる!?ならない!?

 

 

凧あげ「ねずみ男」もお正月限定影絵。

 

 

「悪魔くん埋れ木真吾とメフィスト2世」。

 

 

雪に杵で押したような丸い足跡を残すという「山爺」。

 

 

雪中行軍する「足長手長」と「川獺の化け物」、道の向こうにもなんかおる。

 

 

儂の炎で雪を解かすぜ「輪入道」。

 

 

冷凍保存で鮮度抜群「たんころりん」。

 

 

ドクターマンは左目が義眼だから、この人は悪之宮博士「大かむろ」。

 

 

石川県加賀地方の「火取魔」。

 

 

ガラスの向こうに「針女」。

 

 

「ゆきおんな」。

 

 

雪で滑って油で滑る滑りまくる「油すまし」。

 

 

三世と一郎。

 

 

謹賀新年お正月限定影絵「ぬりかべ」。

 

 

外套替わりに玉袋を纏う「豆狸」。

 

 

抽選事に御利益大爆発!!妖怪神社。

 

 

紋付き袴で御挨拶「鬼太郎」お正月限定影絵。

 

 

難をギリギリ免れた「死神」。

 

 

真っ白な雪にどデカい「ぬりかべ」。

 

 

雪夜の水木しげるロードをひと回りゴール。

1977(昭和52)年に公開された横溝正史原作の映画『八つ墓村』。

 

 

YouTubeにて2月15日まで限定無料公開中。

 

昭和を代表する推理小説の巨匠横溝正史。その代表作のひとつ『八つ墓村』は、近隣で発生した「津山三十人殺し」に衝撃を受けて書かれた架空の物語。舞台とされた岡山県北には、今もその物語を感じさせる風景が残っている。

 

劇中「八つ墓村」は、鳥取県と岡山県の県境にある一寒村とある。その村の名前は、近隣に実在した真庭郡八束村(現 真庭市蒜山)。

 

初出は1949年3月、雑誌「新青年」で翌1950年3月までの1年間連載。同誌の休刊を経て、同年11月より雑誌「宝石」で翌1951年1月まで続編として連載された。

 

『本陣殺人事件』(1946年)、『獄門島』(1947年)、『夜歩く』(1948年)に続く名探偵金田一耕介シリーズ長編第4作に当たる。戦時下に疎開した岡山県で体験した風土や習俗を基に同県を舞台にしており、いはゆる「岡山編」といわれるもののひとつ。山村の因習や崇りなどの要素を含んだスタイルは、構成のミステリー作品に多大な影響を与えた。

 

横溝作品の中では最多となる9度(映画3本、テレビドラマ6作品)映像化されています。

 

中でも一番印象に残るのが1977年(昭和52)年に公開された映画「八つ墓村」。2年3カ月にも及ぶ撮影期間、当時の金額で7億円、現在の価値に換算し直すと15億円という巨額の製作費。人気俳優の豪華共演。そして「崇りじゃ~!八つ墓の祟りじゃ~!」という流行語にまでなったキャッチコピー。この超大作映画は、野村芳太郎監督をはじめとし、脚本に橋本忍、撮影に川又昂、音楽に芥川也寸志という日本映画界最高のスタッフによって製作された。配収は当時の金額で19億8,600万円という松竹映画にの歴代に残る大ヒット作となった。

 

村の場面の撮影場所は1年半を費やし、車で8,000kmを走ったロケハンによって全国各地から探し出され、映画のマジックとしてひとつの村につなぎ合わされた。

 

①大阪から多治見家へ向かう辰弥と美也子、岡山駅で新幹線から在来線7番ホームで伯備線に乗り換えて到着したのは郷愁を誘う「備中神代駅」。

 

 

15分54秒に登場した木造駅舎は2001(平成13)年に解体され玄関口の上屋の門構えのみ残っていたが、近年それも撤去された模様。

 

 

構内の跨線橋から発着する列車や通過する特急やくもなどを見ることが出来る。

 

 

静かな駅を出て深い深い山の中へと入って行く。

 

②16分27秒に登場する深い切通しの道。

 

 

岡山県道50号北房井倉哲西線の「無明谷」は、その名の通り石灰岩の切り立った壁が迫り、鬱蒼と繁る樹木に覆われ昼でも薄暗い谷あいの道。

 

 

落石のため十数年に亘り厳重に封鎖されており、今後も復旧の見込みは無い。

 

③17分19秒に登場する八つ墓村を望む展望所は、岡山県と鳥取県の県境に位置する明地峠の鳥取県側。

 

 

多治見家のセットは鳥取県日野町別所奥渡地区に建てられた。映画のクライマックス、尼子の落武者たちの怨念が放ったかのような紅蓮の炎に包まれた多治見家の屋敷。

 

 

炎上シーンは地元の人の畑を借りて、当時の金額で1,500万円を費やしたオープンセットが建てられ、大掛かりな火事の場面の撮影が行われた。

 

 

ここでは秋から冬にかけて雲海が見られる。

 

 

当時、映画のロケで一躍有名になった山あいののどかな村に多くの人たちが押し寄せ、空き缶などのゴミはポイ捨て、田畑は踏み荒らされ、まさに「祟りじゃ~!!」という惨劇だったと伝わる。

 

④21分20秒に登場する多治見家の外観は、岡山県高梁市成羽町の広兼邸。

 

 

この城塞のような豪邸は江戸時代、銅山経営で巨万の富を築いた庄屋広兼氏が建設したもの。

 

 

現在は一般に公開されている。

 

 

なお、多治見家邸内の撮影は大船撮影所のスタジオに建てられた大規模なセットで行われた。

 

 

◆ロケ地概要

①駅

名称:備中神代駅

所在地:岡山県新見市西方字庄兵衛3899-1

アクセス:中国自動車道新見ICから自動車で10分|JR伯備線・芸備線備中神代駅下車

②切通し

名称:無明谷

所在地:岡山県新見市哲多町矢戸3041

アクセス:中国自動車道新見ICから自動車で20分

③展望所

名称:明地峠展望駐車場

所在地: 鳥取県日野郡日野町別所

アクセス:米子自動車道江府ICから自動車で25分|中国自動車道新見ICから自動車で30分

④多治見家

名称:広兼邸

所在地:岡山県高梁市成羽町中野1710

アクセス:中国自動車道新見ICから自動車で40分|岡山自動車道賀陽ICから自動車で45分|JR西日本伯備線備中高梁駅より自動車で40分

明日は節分、豆をばらまき、恵方巻を喫する日。

 

徳島県で節分の夜に現われたという、髭の生えた一つ目の鬼「夜行さん」。

 

 

古より伝わる妖怪変化の活動する「百鬼夜行日」には、首なし馬に乗って道を徘徊したといい、これに運悪く出会ってしまうと、投げ飛ばされた挙句、蹴殺されるといわれる。また、手に持った笊に入っている針の生えた豆を投げて目に当てるともされる。このため夜行日には、人々の夜歩きは固く戒められた。

 


 

「夜行」というのは、神祭りに際して一般の人には見せない深夜などの秘密の儀式を指すものだったらく、夜行日は、節分、大晦日など、特定の祭りに関係する物忌みの時期だった。禁忌を犯したときの制裁に対する恐れが、やがて夜行さんなどという妖怪の恐れに変化したのだろうと、『神話伝説辞典』見られるという。

 

 

節分会は『延喜式』に定められた宮中行事のひとつで、陰陽師によって大寒の前夜半に、牛と童子の彩色土人形を大内裏の各門に飾って鬼を払うまじないのことを指す。なお、これらの土人形は立春の前夜半に撤去される。この行事は宮中行事として平安初期から大晦日に行われている「追儺(ついな)」が元になったものだとされている。

 

四つの目で東南西北の四方を漏れなく監視し、手に持った太刀で悪鬼・疫鬼を退ける方相氏。

平安初期の『延喜式』にも記されている宮中の年中行事「追儺」で、鬼を追う役目を負った役人(大舎人)を「方相氏」と呼び、脇に仕える20人の侲子(しんし)[※「しん」は人偏に辰]を従えて、大内裏内を掛け声をかけながら回る。

 

 

方相氏役は袍(ほう)と呼ばれる上衣を着て、金色の四ツ目の面をつけて、右手に矛、左手に大きな楯を持つ。方相氏が大内裏を回るとき、公卿は清涼殿の階(きざはし)から弓矢をもって方相氏に対して援護としての弓をひき、殿上人らはでんでん太鼓(振り鼓)を振って厄を払ったとされる。

 

 

しかし、9世紀中ごろから、鬼を追う役であった方相氏が逆に鬼として追われることになったという。

 

現在、京を代表する節分行事である吉田神社の追儺式に登場する方相氏は、侲子(わらわべ)といわれる童子を従えて疫鬼を退散させる。

 

◆参考資料

『決定版 日本妖怪大全 妖怪・あの世・神様』 水木しげる 著 講談社 発行

『妖怪大図解』 水木しげる著 小学館発行

『日本妖怪大事典』 水木しげる 画 村上健司 編著 角川書店 発行

米子と境港を結ぶ鳥取県道47号(内浜産業道路)から一筋奥に入った場所に建つマンション2棟。

 

 

およそ5年ほど前に竣工したものだがそれ以前、ここに何があったのか時間を遡ってみる。

 

6年前の2017(平成29)年1月、建設中のマンションがあった。

 

 

10年前の2013(平成25)年4月初旬、広大な更地が広がっていた。

 

 

この1カ月前の同年2月末、建屋に覆いが掛けられ解体工事が実施されていた。

 

 

これから半月あまり前の同2月中旬、広大な古い土蔵屋敷があった。

 

 

それは荒れ果てた姿を晒しており、夜になると邸内に人魂が飛び交い、影女などの物の怪が巣食う妖怪屋敷(『ゲゲゲの鬼太郎』二期第36話「妖怪屋敷」)といった有様。

 

 

資料によるとおよそ1,600㎡の敷地に数寄屋造りの主屋(約350㎡)や離れ、茶室や土蔵が建っていた。

 

 

このお屋敷はかつて「米子の奥座敷」と呼ばれた「灘町後藤家住宅」。北海道の鉱山経営で成功した後藤彦三郎が、野村財閥創始者の別邸・野村碧雲(へきうん)荘(京都市左京区・重文)も手がけた大工を呼び寄せて建てたもので、1932(昭和7)年着工し、1935(昭和10)年に完成した。戦後は連合国軍が一時使用し、1956(昭和31)年から10数年間は料亭として使用されていた。

 

水木しげる夫人、武良布枝さんのエッセイ『ゲゲゲの女房』によると、1961(昭和36)年1月25日に安来のご自宅でお見合い、その10日後の1月30日には米子で挙式。式場となったのがこの「灘町後藤」。

 

その後、空き家同然となり、2000(平成12)年10月6日に発生した鳥取県西部地震で被災し更に荒廃。2009(平成21)年に市内のまちづくりNPOが建物の保存に役立てたいと、清掃活動に入ったが、すでに手の施しようがない状態に至っていた。修復するにしても数億円の費用が見込まれるため2013(平成25)年2月から3月末にかけて解体された。

 

以下、定点観測。

 

角に建つスクラッチタイルが貼られた洋風の建物。

 

 

その正体はダンスホール。

 

 

裏門(通用門)。

 

 

裏門(通用門)跡、2013(平成25)年4月初旬、更地状態。

 

 

裏門(通用門)跡再開発後、2017(平成29)年6月。

 

 

土蔵、2013(平成25)年2月上旬。

 

 

同2月中旬。

 

 

正門側から見る屋敷内の様子、2013(平成25)年2月中旬。

 

 

同3月上旬。

 

 

同3月上旬~中旬。

 

 

同3月中旬。

 

 

同4月上旬。

 

 

現在ここにそれらを示す碑や駒札などはない。

 

知る人ぞ知る聖地。これでいいのだ。