ライフタペストリーの時、
自分の痛みが明らかになった。
「私は無能である」
これが、ずっとずっと私の中にある私の痛み。
私は、ものの見方も、コミュニケーションも、話の聴き方も、行動も、すべてこの「私は無能である」というフィルターを採用してきた。
誰かとのコミュニケーションの中で、自分の反応や傷ついた事は、相手のせいにすれば自分の痛みを見なくて済んだ。
行きたくない場、気がのらない相手のところには、行かなかったり、関わらないようにしていれば、自分の痛みに触れないから、その方が楽だった。
私がこうしてきた事は、ただただ自分の痛みを見ずに済むという行動に過ぎないことが分かってしまった。
昨日、人に言われたことに、傷ついた自分がいた。
相手の言葉に、自分の中の「私は無能である」という痛みが反応して、
言われた言葉と自分の痛みを結びつけて、やっぱり私は無能なんだって、自分に烙印を押す。
そうして、私の中に住んでいる無能だは、強化されていく。
いつもいつもこのパターンを私は繰り返してきた。
ライフタペストリーの時に、
みーちゃん(由佐美加子さん)に、「私は無能」という証拠集めをして、痛みを肥大化させるのはもうやめなよってそういわれた。
痛みに触れないように行動している自分にもそろそろ飽きてきた私がいる。
だからって、証拠と私の痛みを結びつけない作業も最初はしんどい。
証拠を痛みに結び付けてしまった昨日からの今日は、ただただ悲しくて、情けなくて、泣くことしかできない私である。