【『麒麟がくる』ストーリー①】NHKはチャレンジャーだ! | 戦国未来の戦国紀行

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 ──NHKはチャレンジャーだ!

 

 2017年のNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の主人公が井伊直虎だと聞いた時にそう思ったが、今度、2020年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、「明智光秀の前半生を中心に描く」と聞き、その思いは確信と化した。

 明智光秀の後半生(織田信長の家臣になってから)は史料が多くて分かっているが、前半生(織田信長の家臣になる前)は史料が少なくて分かっていない。

 井伊直虎にしろ、明智光秀にしろ、史実が分かっていないから、脚本家は自由に書けるし、「史実と違う」という指摘も受けないという利点がある。

 逆に困るのは、「井伊直虎男性説」のような、脚本(番組内容)を否定する新史料が放送期間中に出されることである。

 

 気になるストーリーについて、「武将ジャパン」様でお馴染みの本郷先生は、次のように語ったという。

「たとえば司馬遼太郎の『国盗り物語』(昭和48年大河ドラマ原作)では光秀が副主人公で、明智城城主の一族かつ斎藤道三の正室のおいとして登場する。つまりいいところのボンボンなんだという解釈を司馬は採用していたけど、どうもそれは嘘らしい。実際はどこの馬の骨か分からない、というのが現在の研究状況。逆に言うと、光秀がどんな前半生を送ってきたのかはたいした学説もなくてよく分からないわけで、その空白部分にどういうふうに話を組み立てるのか。今の脚本家の方は原作付きを好まないとも聞きますし、一から話を作っても大丈夫というのは、脚本家にとっては腕の見せ所ですね。前半生は各地を放浪し、妻と出会って愛を育む、みたいな話になるのかな。奥さんが髪を売ってお金を作った、みたいな伝説もあるわけですし。信長と出会って以降は、まあ大体いつも通りの話になるんでしょう。だからオリジナリティーが多く出せる前半と、安心して見られる出世物語の後半、というふうにコントラストが付くのでは。そうなると王道すぎて、古くからの大河ファンには物足りない可能性も出てくるけど」。

【出典】 産経ニュース「おきて破り!? 大河ドラマはなぜ明智光秀を選んだか 本郷和人・東大教授が読み解く人選の理由」

https://www.sankei.com/premium/news/180514/prm1805140002-n1.html
 

 さて、気になるストーリーについて、NHKの公式サイトには次のようにある。

 

「 武士としては身分の低い美濃の牢人として生まれるが、勇猛果敢な性格と、類いまれなる知力を、美濃を牛耳る斎藤道三に見いだされ、道三の家臣として重用されるようになる。
 当初は美濃で生きることに疑いを持たず、生涯道三に仕え、その中で日々をおろそかにせず生きていくことを望んでいたが、父代わりの道三に「大きな世界と対峙することがおまえの使命だ」と諭され、次第に考え方が変わっていく。
 やがて、主君として付き従った道三が息子・義龍にうたれたのち、美濃を追われ、京で細川藤孝、足利義昭と出会い、さらに後半生の主君・織田信長に会ったことで彼の運命が大きく動き出していく…。」
http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/preview.html?i=14274

 

 なるほど。

 まず最初に問題になるのが「出自」と「斎藤道三との関係」だな。

 

(1)斎藤道三との関係

 

 「明智光秀の前半生」の通説は、「明智光秀は、土岐氏庶子家である明智家の明智光綱の子で、明智城に生まれ、明智城主・明智光安(父・明智光綱は明智光秀が幼い頃に亡くなり、明智光安が明智光秀の後見人(養父)になっていた)に仕えていたが、その明智城が斎藤道三の子・義龍に攻められて落城し、主君・明智光安が自害したので、主君不在=牢人となり、2年間諸国を回って武者修行して武術、鉄砲術、兵法を身につけ、その後、北陸の小京都・福井で10年間、連歌や茶を学んだ」でOK?

 

 斎藤道三は、美濃国守護である土岐家宗主・土岐頼芸を廃して、美濃国を領した人物、土岐氏を滅亡させた人物であるので、明智氏を含む土岐一族が仇である斎藤道三に仕えるとは考えにくい。

 

 明智一族だと自称する明智憲三郎氏は、「光秀は美濃守護土岐頼武・頼純父子に仕え、頼武の弟頼芸を担いだ斎藤道三と戦い、敗れて越前に逃げた」と言っておられる。これが史実かどうかは別として、『麒麟がくる』の「父代わりの斎藤道三に仕えていた」よりは、「斎藤道三は敵だった」(父代わりは明智光安)とする方がしっくりくる。ただ、しっくりするのは、「明智光秀が明智氏だから(仇の家臣であるはずがないから)」という大前提があるからである。

 

(2)出自(明智光秀の正体)

 

 『若州観跡録』『若狭守護代年数』では、明智光秀の正体は、若狭国遠敷郡小浜の刀鍛冶・藤原冬広の子で、家業を嫌って武士になり、斎藤氏と争っていた佐々木氏(六角氏)に仕えたとしている。

 『明智氏一族宮城家相伝系図』では、実父は山岸(進士)信周、実母は明智光綱の妹とし、小林正信『明智光秀の乱』では、明智光秀の前半生が不明なのは、別の名前で活躍していたからだとして、明智光秀の前半生の名を「進士晴舎」と比定している。

 咲村庵『明智光秀の正体』には、明智氏は、天文21年(1552年)に美濃守護・土岐頼芸が追放された際の争乱で滅亡したとある。とすると、明智光秀は明智氏ではない。「明智光秀産湯の井戸」がある美濃の恵那市(日本大正村)では、明智光秀の父を明知城主・遠山景行だとしている。また、『塩尻』では、織田信長が、「御門(みかど)重兵衛」を家臣にする際に「明智十兵衛」と名乗らせたとある。

 『籾井家日記』には、織田信長が、「明智十兵衛という族姓も知らぬ者」を重用するに当たり、「惟任日向守」と名乗らせたとある。「明智」氏は名門であるのに、『籾井家日記』の著者は、それを知らないのか、「族姓も知らぬ者」としているし、織田信長は「惟任」に変えさせたという。「惟任」氏は九州の名家だという。松平家康は、「祖先は得川氏だ」と主張して、「徳川家康」と名乗っているので、明智光秀も「土岐光秀」と名乗ればよかったと思う。

 この他にも、明智光秀の出自については、「土岐四朗基頼と中洞源右衛門の娘の間に生まれた子」説、「丹波国桑田郡明石(京都市右京区京北)に出生し、「明智」を名乗り、丹波国守護・細川家の家人となったとする」説などがある。

 

 NHKのサイトには、「武士としては身分の低い美濃の牢人として生まれる」とあるが、意味不明。武士の身分は、「足軽」「中間」などで、「牢人」は、武士の身分でも、武士ですらない。「無職」である。「フリーランス」「フリーター」は職業名ではない。「牢人として生まれる」ことはありえない。「牢人」は、職を失い、就活中の人のことである。「主君を失い、牢人になった」「牢人の子として生まれた」等の誤りであろう。

 いずれにせよ、本郷先生の言うように、「実際はどこの馬の骨か分からない、というのが現在の研究状況」である。

 

 

 明智光秀の後半生の最大の謎は、「なぜ主君・織田信長を殺したか?」であるが、その前に「なぜスピード出世したか?」が謎である。織田信長の家臣になると、数年でトップに立って坂本城を築いた。(居城を築いたのは、織田家家臣の中で1番早い! しかも、明智光秀は大金持ちで、坂本城は、安土城に次ぐ豪華な城であった。)徳川家康の家臣でいえば、三河譜代ではない井伊直政がスピード出世して「徳川四天王」になれた理由も謎である。

 井伊直政のスピード出世の理由は、「名門・井伊家の出で、教養があり、読み書きが出来たから」だというから、同様に、明智光秀のスピード出世の理由も、「名門・明智家の出で、教養があり、読み書きが出来たから」か?

 井伊直政のスピード出世の理由を「徳川家康の正室・築山殿の母親が井伊氏(井伊直平の娘)だから」とする説もある。織田信長の正室・濃姫の母親は、明智氏(明智光秀の父・明智光綱の妹)である。明智光秀のスピード出世の理由も、「明智家は、織田信長の祖母の実家であるから」か?

 また、明智光秀のスピード出世の理由は、「織田信長は、「天下布武」を掲げる実力主義者で、新参者であっても、明智光秀や豊臣秀吉のように、武(武勇・武功)があれば重用し、佐久間信盛のように30年間奉公した筆頭家老でも、武が無ければ追放する人であったから」ってことでOK?

 

 

PS.私は、多くの人と違うことをするのが好きな「天の邪鬼」なので、定説「明智光秀は、いいところ(名門・明智氏)のボンボン」説に対する新説「どこの馬の骨か分からない貧乏人」説を支持したが、最近は、この新説が学説になってしまったので、興味が無くなり(笑)、今は「明智光秀は、いいところ(名門・明智氏)のボンボン」説を支持している(笑)。明智光秀の妻・妻木煕子の父・妻木範熙は明智家家臣で、代々、土岐郡妻木村の領主であり、娘を「どこの馬の骨か分からない貧乏人」にあげるはずがないからである。

 

◆トンデモ説

 

・明智光秀=大金持ち説:土岐氏(明智氏)の滅亡時に、全財産(金銀財宝)を受け継いだ大金持ちだとする説で、それは、坂本城の豪華さや、所蔵品を見れば分かるという。

 織田信長は、本能寺が整備される前、京都の一等地にある明智光秀邸を宿所にしていた。この明智光秀邸は、「本圀寺の変」(本圀寺(足利義昭の六条御所。後に建物の一部を解体して二条城が建てられた)の足利義昭を三好三人衆が多数で取り囲んで襲ったが、本圀寺にいた明智光秀が少数で倒した。「本圀寺の変」で明智光秀がとった戦法を、「本能寺の変」で織田信長が採用していれば、明智光秀を倒せたかもしれない)の功績で、織田信長に与えられた屋敷だというが、元々、大金持ちの明智光秀の屋敷であり、明智光秀は諸国放浪などせず、土岐氏(明智氏)の滅亡後、京都に住んでいて、朝廷や幕府と太いパイプ(貸金業?)があったからスピード出世したのだという。

 

・明智光秀生存説:山崎の戦い後に討たれたのは影武者で、明智光秀は生き延びたという。

 

・明智光秀=南光坊天海同一人物説:南光坊天海の前半生(徳川家康の参謀になるまで)は不明であるが、明智光秀と同一人物か、明智氏の関係者だという。南光坊天海は、寛永20年(1643年)10月2日に亡くなったことが分かっている。明智光秀=南光坊天海であれば、100年以上生きたことになるので、同一人物ではないという。