【『麒麟がくる』人物事典⑦】斉藤道三、土岐頼芸を追放(『信長公記』) | 戦国未来の戦国紀行

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「斉藤道三、土岐頼芸公の事」


一、斉藤山城道三、元来は山城国西岡の松波と云う者なり。一念下国侯て、美濃国長井左衛門を頼み、扶持を請け、与力も付けられ侯折節、情け無く、主の頸を斬り、長井新九郎と名乗る。一族同名共野心を発し、取合ひ半の刻、土岐頼芸公、大桑に御在城候を、長井新九郎を頼み奉り候ところ、別状なく御荷担候。

 其の故を以て、存分に達し、其の後、土岐殿御子息・次郎殿、八郎殿とて、御兄弟これあり。忝くも次郎殿を聟に取り、宥し申し、毒飼を仕り殺し奉り、其の娘を又、「御席直しにをかせられ侯へ」と、無理に進上申し侯。

 主者稲葉山に居り申し、土岐次郎殿をば山下に置き申し、五、三日に一度づゝ参り、御縁に「御鷹野へ出御も無用。御馬などめし侯事、是れ又、勿体なく侯」と申しつめ、籠の如くに仕り侯間、雨夜の紛れに忍び出で、御馬にて、尾州を心がけ御出で侯ところ、追い懸け、御腹めさせ侯。

 父・土岐頼芸公、大桑に御座侯を、家老の者どもに属託をとらせ、大桑を追ひ出し侯。それより土岐殿は尾州へ御出で侯て、信長の父の織田弾正忠を頼みなされ侯。爰にて何者の云為哉、落書に云ふ。

  主をきり聟をころすは身のおはりむかしはおさだいまは山しろ

と侍り、七まがり百曲に立て置き侯らひし。恩を蒙り恩を知らず、樹鳥枝を枯らすに似なり。

 山城道三は、小科の輩をも牛裂にし、或ひは、釜を居え置き、其の女房や親兄弟に火をたかせ、人を煎殺し侯事、冷まじき成敗なり。

 

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781192/20

 

【現代語訳】 斉藤山城守道三とは、山城国乙訓郡西岡出身の松波庄五郎のことである。一念発起して下向し、美濃国の長井籐左衛門を頼み、家臣となり、与力(家臣)を付けられるまで出世したが、情け容赦無く、この主君の首を取り、主君の名字を使って「長井新九郎」と名乗った。これにより、長井一族も野心を起こして争乱となったが、長井新九郎は、大桑城の美濃国守護・土岐頼芸を頼み、鎮圧した。殿の擁護を受け、争いに勝利した。
 この「下剋上」の成功に満足して味をしめた長井新九郎は、次に土岐家を「下剋上」のターゲットとした。土岐頼芸には、兄・次郎、弟・八郎の兄弟がいたが、兄・次郎を娘婿とし、油断したところを毒殺した。次いで残された娘(後家)を弟・八郎に「後妻にしなさい」と無理やり押し付けた。

 主君(美濃国守護代・斉藤氏)を稲葉山城、稲葉山の山麓の屋敷に次期美濃国守護候補の弟・八郎を住ませ、3~5日に1度は参上して、「鷹狩は駄目。乗馬はさらに駄目」と言い、籠の鳥のような扱いをした。それで、弟・八郎は、ある雨の日の夜、密かに屋敷を抜け出して、尾張国へ逃げようとしたが、追いつかれて切腹させられた。

 美濃国守護・土岐頼芸は、大桑城にいたが、斉藤道三は、家老衆に賄賂を渡し、土岐頼芸を大桑城から追放した。土岐頼芸は、織田信秀(織田信長の父)を頼みに尾張国に逃れた。この時、誰かが落首を

 主をきり聟をころすは身のおはり むかしはおさだいまは山しろ(主君を斬り、娘聟を殺すのは身の終わり(美濃・尾張)。昔は源義朝を殺した尾張の長田忠致、今は美濃の斉藤山城守道三。)

と詠み、数多くの道の角に立てた。

恩を受けて恩知らずなのは、木に棲む鳥がその木を枯らすようなものである。
 斉藤道三は、軽い罪の者でも牛裂の刑に処し、また、釜茹での刑の際には火を罪人の妻や親兄弟に焚かせるなど、冷酷に処刑を行った。

 

【解説】 新説では、長井家を奪ったのは、長井新左衛門尉(山城国乙訓郡西岡出身の松波庄五郎。斎藤道三の父)で、長井新左衛門尉の子・長井規秀(後の斎藤道三)ではないとする。

 また、土岐頼芸の子、土岐次郎、土岐八郎という兄弟については不明である。土岐頼芸の長男・土岐頼栄は、土岐頼芸によって廃嫡され、嫡男となった次男・土岐二郎頼次は、斉藤道三に追放され、慶長19年(1614年)まで生きている(毒殺されていない)。土岐八郎は、土岐政房の8男・土岐八郎頼香(斉藤道三の娘婿)のことだと思われる。土岐頼香は、無動寺城で、義父・斉藤道三が送った刺客・松原源吾に寝所に乱入され、自刃した(屋敷を抜け出して、尾張国へ逃げようとしてはいない)。墓は岐阜県羽島郡笠松町無動寺の「土岐塚」である。

 さてさて、『信長公記』の記述──どこまで信用したらよいものやら。(天文23年(1554年)7月18日、「中市場の合戦」の条に著者・太田牛一の名がある。この合戦以前の話は伝聞、以後の話は史実だと信じたい。)