【『麒麟がくる』人物事典⑨】斉藤道三の敗死(『信長公記』) | 戦国未来の戦国紀行

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「斉藤道三討死の事」

 

 山城子息、一男新九郎、二男孫四郎、三男喜平次、兄弟三人これあり。父子四人共に稲葉山に居城なり。惣別、人の総領たる者は、必ずしも心が緩貼として、穏当なるものに侯。道三は智慧の鏡も曇り、新九郎は耄者と計り心得て、弟二人を利口の者哉と崇敬して、三男喜平次を一色右兵衛大輔になし、居ながら、官を進められ、ケ様に侯間、弟ども勝ちに乗つて著り、蔑如に持ち扱ひ侯。新九郎、外見、無念に存知、十月十三日より作病を構へ、奥へ引き入り、平臥侯へき。

 霜月廿二日、山城道三、山下の私宅へ下られ侯。爰にて、伯父の長井隼人正を使にて、弟二人のかたへ申し遣はす趣、「既に重病、時を期する事に侯。対面候て一言申し度事侯。入来侯へかし」と申し送り侯。長井隼人正巧みを廻し、異見申すところに、同心にて、則ち二人の弟ども、新九郎所へ罷り来るなり、長井隼人正、次の間に刀を置く。是れを見て、兄弟の者も同じ如く、次の間に刀ををく。奥の間へ入るなり。態と「盃を」と侯て、振舞を出だし、日根野備中、名誉の物切のふと刀、作手棒兼常、抜き持ち、上座に侯へつる孫四郎を切り臥せ叉、右兵大輔を切り殺し、年来の愁眉を開き、則ち山下にこれある山城道三かたへ、右の趣申し遣はすところ、仰天致し、肝を消すこと限り無し。爰にて螺を立て、人数を寄せ、四方町末より火をかけ、悉く放火し、井口を生か城になし、奈賀良の川を越え、山県と云ふ山中へ引き退く。

 明くる年四月十八日、鶴山へ取り上り、国中を見下し居陣なり。信長も道三聟にて侯間、手合のため木曾川・飛騨川舟にて渡り、大河打ち越え、大良の戸島、東蔵坊構へ至りて御在陣。銭亀爰もかしこも銭を布きたる如くなり。

 四月廿日辰の剋、戌亥へ向つて新九郎義竜、人数を出だし侯。道三も鶴山をおり下り、奈加良川端まで人数を出だされ侯。一番合戦に竹腰道塵、六百計り真丸になつて、中の渡りを打ち越え、山城道三の幡元へ切りかゝり、散々に入りみだれ、相戦ふ。終に竹腰道塵合戦に切り負け、山城道三竹腰を討ちとり、床木に腰を懸け、ほろをゆすり満足侯ところ、二番鑓に新九郎義竜、多人数焜と川を越え、互ひに人数立て備へ侯。義竜、備への中より武者一騎、長屋甚右衛門と云う者進み懸かる。叉、山城人数の内より柴田角内と云ふ者、唯一騎進み出で、長屋に渡し合ひ、真中にて相戦ひ、勝負を決し、柴田角内、晴れがましき高名なり。双方よりかゝり合ひ、入り乱れ、火花をちらし相戦ひ、しのぎをけづり鍔をわり、爰かしこにて思ひ々々の働きあり。長井忠左衛門、道三に渡し合ひ、打太刀を推し上げ、むずと懐き付き、山城を生捕に仕らんと云ふ所へ、あら武者の小真木源太走り来なり、山城が脛を薙ぎ臥せ、頸をとる。忠左衛門者、後の証拠の為にとて、山城が鼻をそひで、退きにけり。合戦に打ち勝ちて、頸実検の所へ、道三が頸持ち来たる。此の時、「身より出だせる罪なり」と、得道をこそしなりけり。是れより後、新九郎はんかと名乗る。古事あり。昔、唐に、はんかと云ふ者、親の頸を切る。夫者、父の頸を切りて孝なすとなり。今の 新九郎義竜は、不孝、重罪、恥辱となるなり。

 

【現代語訳】 斉藤山城守道三の子は、長男・新九郎義竜、次男・孫四郎、三男・喜平次の三兄弟で、父子4人は稲葉山城に住んでいた。概して頂点を極めると満足してしまい、そこから先は、心が緩みがちである。道三も例外ではなく、次第に「智慧の鏡」が曇ってきた。長男・義竜を「愚者」だと見誤り、弟の2人を「智慧者」と判断してしまい、特に三男・喜平次の官位を昇進させて「一色右兵衛太輔」と名乗らせたのである。その様であったので、2人の弟は奢り、義竜を軽んじた。義竜は外聞が悪いのを無念に思い、天文24年(1555)10月13日、仮病を使って奥に引きこもり、寝ていた。

 10月23日に改元して、弘治元年11月22日、斉藤道三は稲葉山の山麓の私宅へ降りた。この時、長男・義竜は、伯父・長井道利を使者として、2人の弟に、「既に病は重く、死期が近づいているので、会って一言言っておきたい。こちらへ来て下さい」と伝えたので、長井道利が言葉巧みに伝えたので、2人の弟は承知してやって来た。長井利正が、長男・義竜のいる部屋の手前の部屋で脱刀して刀を置くと、それを見て、2人の弟も同じく脱刀して刀を置き、奥の長男・義竜がいる部屋へ入った。わざと「まずは一杯」と言って、酒を振る舞い、日根野弘就が名高い名刀・銘「手棒兼常」(関兼常作の名刀)、抜き、上座の次男・孫四郎、続けて三男・喜平次を斬って、年来の鬱憤を晴らした。山麓の斉藤道三に報告させると、斉藤道三は、ビックリ仰天し、肝を潰した。斉藤道三は、すぐに法螺貝を吹かせて軍勢を集め、四方の町外れから火を付けて町を焼き、稲葉山城を裸城とし、長良川を越え、山県郡の山中にある大桑城(岐阜県山県市大桑)に退いた。

 翌・弘治2年(1556年)4月18日、斉藤道三は、鷺山(岐阜県岐阜市鷺山)へ登り、美濃国中を見下ろせる位置に陣を敷いた。織田信長も、身内(斉藤道三の娘婿)であったので、出陣し、木曽川と飛騨川を舟に乗って越え、大浦の大浦城(寺砦。現・金矮鶏神社。住僧・戸島東蔵坊。岐阜県羽島市正木町大浦新田)に入った。ゼニガメ(クサガメまたはニホンイシガメの幼体)が数多くいて、銭を敷きつけたように見えた。
 4月20日辰の刻(午前8時の前後2時間)、北西に向けて義竜は軍勢を進めた。斉藤道三も鷺山を下り、長良川まで進軍し、「長良川の戦い」が繰り広げられた。まず、義竜軍の先鋒・竹腰隊600人が、丸くなって中の渡りを越え、斉藤道三の旗本(本陣)へ斬りかかり、敵味方入り乱れて戦った。ついに竹腰隊が負け、斉藤道三は、敵将・竹腰道塵(道鎮、重直、重吉)を討ち取り、床机に腰掛け、母衣を揺すって満足していた時、斉藤義竜自ら多くの兵を率いて、どっと長良川を越えて来たので、互いに陣形を整えて対峙した。この時、義竜軍の中から長屋甚右衛門という者がただ一騎、前へ進み出て武者名乗りをあげると、道三軍からは柴田角内という武者が前へ進み出て、この挑戦に応じ、両軍の中間で一騎打ちをし、柴田角内が長屋甚右衛門の首を挙げて高名を得た。その後、両軍とも全軍に突撃を命じ、混戦となった。長井忠左衛門道勝(井上道勝。長井道利の子とも、弟とも)は、斉藤道三に渡り合い、斉藤道三が打ち下ろした刀を押し上げて抱きつき、生け捕りにしようとしていた時に、荒武者・小真木(小牧)源太という侍が走り寄ってきて、斉藤道三の脛を薙ぎ、押し伏せて首をかき切ってしまった。功を奪われた長井道勝は、最初に組み付いた証拠にと斉藤道三の鼻を削いでその場を退いた。「長良川の戦い」に勝利した義竜軍であるが、首検分の時、斉藤道三の首が運ばれてくると、斉藤義竜は、「我が身から出た罪である」と言って出家し、范可(はんか)と名乗った。中国の故事に范可(はんか)という者が登場する。彼は父親の首を切って親孝行をしたが、斉藤范可(義竜)の場合は、親不孝、重罪、恥辱となった。

 

【解説】 父親の首を切って親孝行した中国人・范可の故事は検索してもヒットしない。安楽死でもさせてあげたのだろうか? いずれにせよ、この話は嘘である。というのも、斉藤義竜は、弘治元年(1555年)12月、「斎藤范可」名で美江寺に禁制(「美江寺文書」)を出しているからである。父・斉藤道三を殺す前から使っていた名なのである。