【『麒麟がくる』関連本⑩】垣根涼介『光秀の定理(レンマ)』 | 戦国未来の戦国紀行

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 『光秀の定理』は確率論、『信長の原理』はシステム論で解く戦国史の本です。

 

 『光秀の定理』には、破戒僧・愚息の「六の目」「四つの椀」という博打の話がでてきます。博打に勝には、確率論の知識が必要です。

 「六の目」とは、3つのサイコロを同時に投げ、「1つでも「6」の目が出るか、出ないか、どちらにかける?」という話です。ねたばらしをすると、出る、出ないの確率は、1/6+1/6+1/6=3/6=1/2で同じように思われますが、1つでも「6」の目が出る確率は、実際は、目の種類は6の3乗=216通りですから、
1-(6の目が1個も出ない確率)=(1個でも6の目が出る確率)
となり、6の目が1個も出ないケースは5の3乗=125通りですから、
1-125/216=91/216

で、1/2(108/216)よりも低くなります。
 「四つの椀」は、「ベイズの定理(レンマ)」における「事後確率」(ある根拠を条件として、その原因となった(時間的にも以前の)事象を推測した確率)のひとつで、「モンティ・ホール問題」と呼ばれています。親は子に見せないように、4つの椀の1つに小石を入れます。子にどれに入っているか親は示させた後、子が選ばなかった空の2つの椀を開け、「選んだ椀と選ばなかった椀、2つのどちらに小石が入っているが、最初の決定を覆すかどうか?」と聞いてきます。最初の決定を覆しても、覆さなくても、どちらの椀に入っているか、直感的にはどちらも1/4、あるいは(1/4+1/4では1にならないので)どちらも1/2と考え、どちらの椀に入っているか確率は同じのはずですが・・・実は覆した方が当たる確率が高いのです。最初に決めた椀に小石が入っている確率は1/4、もう1つの椀に小石が入っている確率は3/4なのです。この理由を論理的に説明しても納得できない人がいるので、「モンティ・ホールのジレンマ」とも呼ばれています。

 以上、どちらも、感覚的な解答(主観確率)と、論理的な正解(客観確率)が異なる例です。

 

 『信長の原理』では、「パレートの法則(働きアリの法則)」というシステム論に基づく話になります。「パレートの法則」は、「経済において、全体の数値の大部分は、全体を構成するうちの一部の要素が生み出しているという理論」で、「働きアリの法則(80:20の法則)」は、「組織全体の2割程の要人が大部分の利益をもたらしており、そしてその2割の要人が間引かれると、残り8割の中の2割がまた大部分の利益をもたらすようになるという理論」です。経済学の「経験論」であって、数学の「確率論」ではありません。ビジネスに応用すれば、「売上の8割は全顧客の2割が生み出している。よって売上を伸ばすには顧客全員を対象としたサービスを行うよりも、2割の顧客に的を絞ったサービスを行う方が効率的である」となります。時代小説家に応用すれば、「どんな本を出しても買ってくれる2割の固定客(読者、ファン)を大切にしなさい」ってことです。

 

 

 『光秀の定理』では、明智光秀について、

 

・姓は明智、諱は光秀、字は十兵衛。(「姓」は源じゃないの?)

・土岐源氏の明智本流の嫡男(「土岐氏の~」「美濃源氏の~」じゃないの?)

・父は明智光綱。光秀が7歳の時に早世し、光秀は叔父・光安が後見した。

・「京源氏」(私設外交官)として、20歳から京都に住み、明智城の落城は京都で聞いた。

・「道三崩れ」(斉藤義竜が道三を討つ)で明智氏は滅び、美濃国からの仕送りが絶えたので、細川藤孝屋敷(一条大路と大宮通りの角地)の離れを借りて住んでいる。

 

年号や年齢があげられるのは、

 

・享禄元年(1528) 1歳 可児郡の明智城で生まれる。

・天文3年(1534) 7歳 父・光綱死亡。叔父・光安が後見。

・天文12年(1543) 16歳 元服

・天文16年(1547) 20歳 京源氏として京都へ。細川藤孝に近侍。

・弘治2年(1556) 29歳 道三崩れ

・永禄6年(1563) 36歳 三女・玉誕生。煕子、髪の毛を売る。

 

と設定されています。

 

 通説では、明智光秀は、「明智城が落ちると、妻子を親戚に預けて諸国武者修行の旅に出た」ですが、『光秀の定理』では、「妻子と共に京都の細川藤孝屋敷に住み、足利将軍の後ろ盾になってもらえるよう、地方の有力大名のもとへ足を運んでいた」(諸国武者修行の旅ではなく、諸国支援要請の旅)、「明智城の落城は京都で聞いた」とした点がユニークです。

 

京都の明智屋敷については、

・明智家は、幕府奉公衆であるので、奉公衆の屋敷群の中にあった。

・織田信長は、明智光秀に屋敷を与えた。

・「本能寺の変」の時の屋敷は、『言継卿記』に「二条屋敷(日向守)」とある。(二条には、二条新御所(上御所。二条古城。押小路通と烏丸通交差点の南西。元は二条家の屋敷で、織田信長は天正5年(1577)から京都滞在時の宿舎としていたが、天正7年(1579)、誠仁親王に進上)と明智屋敷があった。二条新御所は、「本能寺の変」の時、織田信忠が入ったので焼かれ、二条屋敷(明智屋敷)は「山崎合戦」直後に焼かれた。

と移転したようです。(細川藤孝の家臣時代の身分は低く、主君・細川藤孝への意見は米田氏を通してであり、直接対話をすることはなかったようです。ちなみに本書では、覚慶救出に明智光秀が活躍したことになっていますが、活躍したのは米田氏です。)細川藤孝と仲が良ければ、共に連歌会に参加して、記録が残ることでしょう。そういった記録がないので、「前半生は謎」なのです。

 

初版本は校正ミスが多いものです。版を重ねる毎にミスは減っていくます。私が読んだのは5版ですが・・・。

 

p.54

>可児郡(現在の岐阜県可児市横田)の小山の上にあった明智城

「可児市横田」って知らない。「可児市瀬田」では?

 

p.76

>ととうとう

「とうとう」かな? ワープロで執筆する時にありがちなタイプミス?

 

文庫本は確認していないけど、文庫化の時は加除・修正が行われるので、校正ミスは無くなったはずです。

 

この本の評価は、

・確率論の導入

で評判になったのですが、私は、この本の真骨頂は、

・「スピード出世」の理由を明確化

・「本能寺の変」の動機を明確化

したことにあると思います。

 

 

『光秀の定理』
https://www.kadokawa.co.jp/product/321303000058/
『信長の原理』
https://www.kadokawa.co.jp/product/321411000086/

 

 

【追加情報】『信長の原理』が第160回直木賞候補5作の中に入りました。

上毛新聞 https://www.jomo-news.co.jp/life/oricon/99675