新史料③ 柴田勝家書状 | 戦国未来の戦国紀行

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「本能寺の変」後の柴田勝家直筆の書状見つかる
NHK 2018年11月16日 12時24分

 

明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」の8日後に、信長の重臣として知られる柴田勝家が織田方に宛てた直筆の書状が新潟県新発田市で見つかりました。光秀の討伐に出遅れた勝家が、当時、京都から大阪に展開していた光秀の居場所を正確に把握できていなかったことがうかがえる内容で、専門家は「本能寺の変直後の勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ」と指摘しています。

 

今回見つかった書状は、本能寺の変の8日後の天正10年6月10日、今の福井市の居城にいた柴田勝家が、織田方の武将、溝口半左衛門に宛てて書いたものです。

郷土史に詳しい新潟大学の冨澤信明名誉教授が新発田市の溝口家に残る歴史資料の中から見つけました。

書状の冒頭には、「天下の形勢は致し方ないことで言語に絶するばかりだ」と、本能寺の変について勝家の驚きのことばが記されています。そして明智光秀が、拠点としていた江州、今の滋賀県にいるとみて、当時の大坂にいた織田方の重臣、丹羽長秀と連携して光秀を討伐する計画を明らかにしています。

調査にあたった専門家によると、本能寺の変のあと勝家が光秀の居場所に言及したものが見つかったのは初めてで、光秀討伐に出遅れた勝家が当時、京都から大阪に展開していた光秀の動きを把握できていなかったことがうかがえます。

調査にあたった三重大学の藤田達生教授は「本能寺の変のあとの勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ。今後は、そうした状況のなかでなぜ、豊臣秀吉が光秀討伐に素早く動けたのかという点に関心が高まるのではないか」と話しています。


https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181116/k10011712961000.html

 

 

 

 

古文書は「事実」を語るが、その「分析と解釈」「関心の矛先」は学者によって異なります。

今回発見された文書に関しては、

・分析と解釈:柴田勝家の情報収集能力は羽柴秀吉のそれより劣っていた。

・関心の矛先:羽柴秀吉の情報ネットワークとはどのようなものであったか?

です。

 

「明智光秀が、拠点としていた江州、今の滋賀県にいるとみて」

「京都から大阪に展開していた光秀の居場所を正確に把握できていなかった」

 

この記事は、矛先を「秀吉黒幕説」に向ける誘導?

「本能寺の変」後、明智光秀は、6月6日、京都から安土城へ行き、城内にあった金銀を分け与え、6月9日の昼過ぎに入洛している。「6月8日に江州安土城にいた」という情報が翌9日に福井市に伝わり、翌10日に「明智光秀が、江州にいる」という手紙を書いたのであれば、そうそう情報収集能力が劣っているとは言えないと思うが・・・私には、「京都から大阪に展開していた光秀」の方が分からないが・・・この記事は、矛先を「秀吉黒幕説」に向ける誘導なのか?

 ちなみに、柴田勝家は、6月6日に「本能寺の変」について聞き、6月9日に居城・北庄城に戻り、6月10日に諸将に手紙を送ったことが、2012年、岐阜市歴史博物館「織田信長と美濃・尾張」展で初公開された別の書状から分かっている。ちなみに、羽柴秀吉が知ったのは3日深夜、信濃の森長可が知ったのは6日、上野の滝川一益が知ったのは9日夜だという。

 

 

 時代小説の中には、羽柴秀吉が「この状況、儂が明智光秀なら、必ず信長公を討つ」と確信し、「中国大反し」の準備を進めながら、「京からの連絡はまだか? 光秀の謀反はまだか?」と常に気にしていたとするものもある。黒幕だから、謀反を起こすことを知っていたから、「中国大反し」が出来たのではなく、状況判断から、謀反を起こすと確信したので、「中国大反し」が出来たのだという。

 

 

「羽柴秀吉と柴田勝家」(Wikipediaより引用)

 羽柴秀吉が、「信長斃れる」の変報を聞いたのは6月3日夜から4日未明にかけてのことであった。『太閤記』では、光秀が毛利氏に向けて送った密使を捕縛したことを説明している。『常山紀談』では、秀吉が所々に忍びを配置しており、備中庭瀬(岡山県岡山市北区庭瀬)で怪しい飛脚を生け捕りにしたところ「信長を打ち取らば、秀吉必ず敗北すべし。秀吉を追い撃たれよ」と毛利側へ送る密書を持っていたとしている。また、京の動向を知らせるよう依頼していた信長の側近で茶人の長谷川宗仁の使者から知りえたともいわれている。なお、光秀の密使としては明智氏家臣の藤田伝八郎の名が伝わっており、岡山市北区立田には「藤田伝八郎の塚」が現在も残っている。
 柴田勝家は、北陸戦線にあって上杉景勝の支配する越中魚津城(富山県魚津市)を攻略中であり、6月3日の午前6時頃魚津城を陥落させ、その直後、余勢を駆って越後へむかおうとしていた矢先に変報が届いた。勝家は後事を前田利家・佐々成政らに託し、直ちに魚津から船に乗って越中富山を経て居城の越前北庄城(福井県福井市)に帰り、光秀討伐の準備を開始した。光秀征討の先鋒として養子であった甥の柴田勝豊や従兄弟の柴田勝政を出陣させ、6月18日には近江長浜(滋賀県長浜市)まで進出させたが、その時すでに光秀は秀吉によって討滅させられた後であった。

 

 

 毛利への密書は、「毛利軍と明智軍で羽柴軍を挟撃ちにしよう」ということであるが、密書は複数出されたという。『別本川角太閤記』には、「本能寺の変」の動機の「遺恨説」「足利将軍黒幕説」の裏付けとなる「天正10年6月2日付、明智光秀、小早川隆景宛密書」が載せられている。

「急度(きっと)、飛檄(ひげき)をもって言上せしめ候。こんど、羽柴筑前守秀吉こと、備中において乱妨(らんぼう)をくわだて候条、将軍御旗を出され、三家御対陣の由、まことに御忠烈の至り、ながく末世に伝ふべく候。然らば、光秀こと、近年、信長に対し、いきどほりを抱き、遺恨もだしがだく候。今月2日、本能寺において、信長父子を誅し、素懐を達し候。かつは、将軍御本意をとげらるるの条、生前の大慶、これに過ぐべからず候。この旨、宜しく御披露に預かるべきものなり。誠惶誠恐。 

  6月2日 惟任日向守 

 小早川左衛門佐殿」

 しかしながら、この密書は、偽文書(『別本川角太閤記』を書いた小説家の創作)とされる。