明智光秀の母親について調べてみた。 | 戦国未来の戦国紀行

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日本の戦国時代について

 金子拓(東京大学准教授)先生が、今秋、『信長家臣・明智光秀』という明智光秀の織田信長家臣時代の研究書を出されるそうです。明智光秀の出自も家族も書かないとのこと。学者ならではの英断ですね。(金子先生といえば、藤田行政や三淵藤英についても詳しい先生なので今から楽しみです。)明智光秀の出自も家族も、失うものが何もない、この貧乏ライターにお任せ下さい  (๑˃̵ᴗ˂̵)و グッ! 

 

 明智光秀のご子孫も、石田三成のご子孫も、口を揃えて「我が家には開かずの箱がある」と言います。開けてはいけない箱の中身は、遺品と家譜、重要文書だと思いますが・・・開けられないのなら、X線で透視するとか、穴を開けて内視鏡を入れるとか、駄目ですかね(一休さんかよ)。

公開されているのは、

①喜多村系図『明智家譜並びに明智系図』

②宮城系図『明智一族宮城家相伝系図書』

③山岸系図『明智氏血脈山岸家相伝系図書』

で、「喜多村系図」では、明智光秀の父親は明智光隆で、母親は武田義統の妹で、子は彦太郎、彦次郎、彦三郎の3人で、彦次郎が明智光秀だとあります。

 「宮城系図」や「山岸系図」では、明智光秀の父親は明智光綱で、母親は山岸信連の娘・美佐保であるが、伝承として、実は山岸信連の息子・山岸信周と明智光綱の妹・市で、明智光秀は養子とあります。(明智光綱が病弱で子が出来なかったので養子にもらったそうですが、「喜多村系図」では3人兄弟ですし、さらに姉妹がいたようです。(学者は実の姉妹ではなく義理の姉妹(妻の姉妹)と考えておられるようですが。)口伝では、兄・明智光綱が妹・市をレイプして出来た子なので、兄・明智光綱が引き取ったそうです。)

 

 「宮城系図」や「山岸系図」の結論は、

・明智光秀は山岸氏である。

・山岸氏とは名門・進士氏のことである。

・なぜ明智家へ養子に出されたかと言うと、明智宗主に子がいなかったからである。

です。ようするに、「私の先祖は、明智光秀=山岸氏=進士氏である」というのですが、どうなのでしょう?

 学者は「江戸時代に書かれたので、創作の可能性が強い」としています。私個人としても、明智光秀の実父だという「山岸信周」なる人物についてはっきりするまでは、信用できません。山岸宗家(府内城主家)の系図は、

 

  初代光範─光貞─貞秀─光信┬貞連

                      └光連

 

であり、山岸信連・信周父子は出てきません。「山岸信連=貞秀、山岸信周=光信」だそうですが、それではおかしなことになる(たとえば、山岸光信は実の妹と結婚したことになってしまう。いくら戦国時代でもありえない)ので、山岸信連・信周親子は、多羅城を居城とする山岸家の分家の人間(多羅(多良)やその南の時は、一山越えた島田を本貫地とする土岐島田氏の領地でしたから、山岸氏は、土岐島田氏が菅沼郷へ移住し、高木氏が入るまでの領主なのかな)、或は、可児郷の山岸村の山岸氏居館に住んでいた人間だと考えた方がよさそうです。(「長江信周」とする古文書もあるので、長江氏なのかもしれません。)

 

 

《永井寛氏作成「明智系図」》

 

頼尚┬光継┬光綱(光隆)─光秀

   │   ├光信(山岸氏養子)─千種(光秀室)

   │   ├光安(遠山景行)┬光春

   │   │           └利景(遠山明智氏)

   │   ├光久(小里氏)┬光次(小里氏)

   │   │         └光忠

   │   ├光頼(原氏養子)

   │   ├女子(斎藤道三室)─帰蝶(信長室)

   │   ├女子(斎藤利賢室)─斎藤利三

   │   │   (土岐丹波守室)─女子(長宗我部元親室)

   │   └光廉┬女子(荒木村次→光春室)

   │        └女子(光忠室)

   └頼明┬定明─定政(上野沼田土岐明智氏祖)

        └光衡

 

 

 ──系図によって書いてある事が異なると、何が正しいか分からなくなる。

 

 

 NHKの『麒麟がくる』の公式サイトには、石川さゆりさんが演じる明智光秀の母を「牧」として、「光秀の母。光秀が幼少時に死んだ父の代わりに「武士としての心構え」を諭す厳しくも心優しき母」としています。なんか、『おんな城主 直虎』の直虎と虎松を思い出します。通説では、父・明智光綱の死後、明智光綱に替わって明智城主となった叔父・明智光安が育てたとし、司馬遼太郎『国盗り物語』では、斎藤道三が育てた事になっています。

 伝承では、父・明智光綱が病弱で、明智光秀が幼い頃に病死したことになっていますが、「喜多村系図」では、「天文11歳到同14歳乙巳、土岐一族敗北の節、戦死」(天文11年から14年にかけての土岐氏と斎藤氏の戦いで討死)とし、「宮城系図」では「天文4年乙未8月5日、明智城に於て卒。享年39歳」とし、「山岸系図」には死没に関する記載はありません。

 また、若くして死んだのではなく、若くして離婚したのであって、母は幼い明智光秀を連れて故郷の若狭国(福井県小浜市)に戻り、刀工・藤原冬広と再婚するも、明智光秀には刀工を継ぐ意志がなく、六角氏に仕えたとも。

 いずれにせよ、明智光綱、明智光安、明智光秀が明智城に居るわけがない。

 

 ──なぜ居られないのか、どこに居たのか、明智城に居たのは誰か?

 

※この続きはnoteで。

https://note.mu/senmi/n/na309254d0cbc