『胡蝶綺』 第3話「父と子」あらすじ&レビュー | 戦国未来の戦国紀行

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【登場人物】

 

犬千代(後の前田又左衛門利家:尾張国海東郡荒子村(現在の名古屋市中川区荒子)の荒子城主・前田利春の四男。14歳の頃、織田信長に小姓として仕えた。槍の名手で、「槍の又左」と呼ばれた。後に能登一国23万石を拝領して大名となった。加賀藩主・前田氏の祖。豊臣政権の「五大老」の一人。

 

山口教継:織田信秀に重用され、鳴海城を任されたが、織田信秀が亡くなると、今川義元に寝返った。この時、大高城、沓掛城も今川方の城となった。その後、織田信長の策略により、山口教継・教吉親子は、駿府に呼び出され、切腹させられた。

 


【あらすじ】

 

 那古野城で鉄砲を撃って見せる織田信長の前に、織田信長そっくりな出で立ちの少年が現れ、名を聞くと、

「林秀貞様の与力、前田家四男、犬千代で御座います」

と言った。後の前田利家である。(彼は、天文20年(1551年)頃に織田信長の小姓になったとされている。)

 さて、織田信長が病床の父・織田信秀がいる末森城に見舞いに来ないので、末森城に居る弟・織田信勝、柴田勝家、林秀貞、山口教継が那古野城の織田信長に会いに来た。(この時の話で「信広様が戻った」という話があった。織田信広は安祥城(愛知県安城市)にいたが、太原祟孚率いる今川軍に攻められて捕えられたのである。その後、織田氏の人質になっていた竹千代(後の徳川家康)との人質交換で、織田氏に返された。)

 織田信秀が病に伏すと、家臣たちに不安が広がった。

「家督を継ぐのが「大うつけ」の織田信長で良いのか?」

「品行方正な織田信勝の方が良いのではないか?」

と、織田家の行く末を不安視する家臣だけではない。池田恒興は、「今川氏や斎藤氏に寝返ろうとする家臣がいる」と織田信長に告げたが、「そんな家臣が織田家にはいない」とその事実を受け入れられずに跳ね返し、さらに、たしなめる池田恒興を遠ざけてしまった。

 天文21年(1552年)3月3日、織田信秀が亡くなった。すると、早速、裏切り者のスパイが、安堵状を盗み出した。

 ──安堵状を取り返し、裏切り者を捕らえる。それが俺の弔いだ。(by 織田信長)

 安堵状を取り戻したものの、スパイが自害したので、裏切り者が誰であるかは分からなかった。ただ、スパイが逃げた道は、鳴海城へ続く道であったので、裏切り者は山口教継らしい。

織田信長「お前の言った通りだったな。身内の裏切りなど、俺は考えたくなかった」

池田恒興「はい」

織田信長「分からない。長年父上に仕えてきた家臣がなぜ裏切るんだ?」

池田恒興「情勢を見てより強き者へ靡くは戦国の世の常でしょ」

織田信長「じゃあ、俺は、これから先もずっと、人を疑っていかねばならないのか?」

池田恒興「私がおります。いつ、いかなる時も、必ず」

織田信長「俺は嫌な物や考えを見て見ぬ振りをしていた。傷つきたくない子供だった。すまない。これからも側にいてくれ、恒興」

池田恒興「はっ」

 織田信秀(萬松寺殿)の法名は「桃巌(萬松寺殿桃巌道見大禅定門)」。葬儀は、菩提寺・萬松寺で行われた。

 ──死のうは一定。忍び草には何をしよぞ。一定語り起こすよの。

これは、「死は人の定めであるが、生前成し遂げた事は、形となって残り、後世に伝わる」という意味の織田信長が好きな小唄のフレーズである。織田信長は、このフレーズを書いて織田信勝に送り、葬儀には参列しなかった。

 天文21年(1552年)4月17日、織田信長は、裏切り者・山口教継の鳴海城を攻めようと出陣した。(山口教継は、鳴海城を子・山口教吉に譲っていた。)山口教吉は、鳴海城から出陣し、尾張国赤塚(名古屋市緑区鳴海町赤塚)で合戦となった。この「赤塚の戦い」が、織田信長が尾張織田氏の織田弾正忠家の宗主となって初めての合戦となった。織田信秀が生きているうちは「織田信秀が織田家を守ればいい」と気楽であった織田信長であるが、今後は「自分が織田家を守らなければならない。子供のままではいられない」と決意を新たにした。

 


【感想&レビュー】

 

 織田信秀の息子は、

長男:信広(三郎五郎。母は側室)
次男:秀俊(信時、安房守。母は側室(信広の母と同一人物))
三男:信長(母は継室・土田御前)
四男:信勝(母は継室・土田御前)

など12人いたとされます。

 長男・信広と次男・秀俊の兄弟は、母親が側室であるため、家督は継げず、「織田一族」という扱いでした。正室(織田達勝の娘)とは離縁したので、継室・土田御前が産んだ最初の男子・信長が嫡男ということになります。

 

※『信長公記』に「織田三郎五郎殿と申すは信長公の御腹かはりの御舎兄なり。其弟に安房守と申候て利口なる人あり」とある。

 

 織田信秀の葬儀については、『信長公記』に次のようにあります。

 

「信長、御焼香に御出。其時、信長公、御仕立、長つかの大刀、わきざしを三五(しめ)なわにてまかせられ、髪はちやせんに巻き立て、袴もめし侯はで、仏前へ御出でありて、抹香をくはつと御つかみ侯て、仏前へ投げ懸け、御帰り。御舎弟・勘十郎は、折目高なる肩衣、袴めし侯て、あるべき如きの御沙汰なり。三郎信長公を、『例の大うつけよ』と、執々評判侯ひしなり。其の中に筑紫の客僧一人、『あれこそ国は持つ人よ』と申したる由なり。」(織田信勝は正装で葬儀に参列したが、織田信長は普段着でやってきて、抹香を掴むと、位牌に投げつけて去っていった。参列者は「これが噂の大うつけか」と言ったが、九州から来た僧侶だけは「ああいう人が国主になれる」と言った。)

 

小説を読んでいるようです。著者・太田牛一は現場にいなかったのではないでしょうか? 史実だとしても、

①なぜ喪主の織田信長が葬儀の初めから正装して参列していないのか?

②なぜ抹香を父の位牌に投げつけたのか?

理解できません。「大うつけだから」としか言いようがありません。(「早過ぎる」と言って抹香を投げつけた理由を、小説では「まだ少年でいたいのに。まだ宗主として表舞台に出たくないのに」としています。「忍び草」(尾張国統一など、後世の人が話すような大事業)を成す前に、志半ばで死んでしまったという意味かもしれませんね。)

 

 家督問題は1日でも早く解決した方がいいので、織田信長は、

①織田弾正忠家の宗主の居城・末森城は織田信勝に譲り、

②織田上総介信長と名乗り、織田信勝に「弾正忠」を名乗らせる余地を残し、

1年間かけて家督問題を解決して宗主になると、鳴海城攻め(赤塚の戦い)を行ったのでしょう。

 


【紀行】

 

萬松寺(愛知県名古屋市中区大須3丁目):織田信秀の墓所。天文9年(1540年)、織田信秀により織田氏の菩提寺として那古野城の南側に建立された。開山は織田信秀の叔父・大雲永瑞和尚である。慶長15年(1610年)、名古屋城を築く際に現在地(大須)に移転した。

https://www.banshoji.or.jp/

鳴海城(愛知県名古屋市緑区鳴海町城):山口教継が織田信秀から与えられた城。その山口教継・教吉親子は切腹させられ、「桶狭間の戦い」の時は、岡部元信が城代であった。

赤塚古戦場(名古屋市緑区鳴海町赤塚):「赤塚の戦い」は、顔見知り同士の戦いであったので、戦後、敵陣に逃げ込んだ馬も、生け捕りにした者も交換して帰陣するという引き分けに終わった。

 

参考『信長公記』

第10話 備後守病死の事
https://note.mu/senmi/n/n7aed99ce9020
第11話 三の山赤塚合戦の事

https://note.mu/senmi/n/nd6f7a555e01d

 

公式サイトhttp://wakanobu.com/story_info/story_03.html