思うようにならない人生でも
自分の心だけは自分の思う通りにしたいと言うとき、
どういう思いを自分の思い通りにすべきか?
それは諦めない思いだろう。理不尽なこと、不条理なこと、不運、不公平で人生左右されてしまいがちで、失望したり絶望したりしそうなときも、人は、AIやロボットや、まして学習性無力感実験中のラットでもない。望みを捨てず、七転び八起きの精神を堅持していくのが、自由意志であろう。
思うようにならない人生でも
自分の心だけは自分の思う通りにしたいと言うとき、
どういう思いを自分の思い通りにすべきか?
それは諦めない思いだろう。理不尽なこと、不条理なこと、不運、不公平で人生左右されてしまいがちで、失望したり絶望したりしそうなときも、人は、AIやロボットや、まして学習性無力感実験中のラットでもない。望みを捨てず、七転び八起きの精神を堅持していくのが、自由意志であろう。
人間の自由意志
事故にあったり外部要因で自分の思い通りに生きれないこともあるし、手や足など自分で動かせない麻痺の人もいる。ロックドインの人や人工呼吸器管理の末期ALSの人は、何が自分の意志で出来るというのだろう?自分の心だろうか?何かを考えたり、何かをしようと決意する意志は、自由意志と言えるのだろうか?考えようとしても、眠くて眠くて仕方ない時は睡魔に邪魔されてしまう。それにどんな考えが頭に浮かぶかも自分の意志だけでは制約がある。
それよりも、怒らないとか、恐れないとか、動じないとか、感情の面は自分の自由意志の対象範囲かもしれない。逆に、楽しむとか、喜ぶとか、嬉しく思うとかは自分の自由意志で勝手に出来るものとは言えないように思う。いずれにしろ、睡眠や死などでいつのまにか強制停止させられてしまうこの意識というものであるけれど、、、
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もし人生の意味の答えが分かったとして、それを人々に知らせたら、どうなるか?きっと何億年か後に人類が消滅した後、また新たな知的生命体が誕生して、また苦しみにまみれた人生の謎を求めて探究の人生を歩む人々の長い長い歴史が始まることだろう。つまり、大切なこともその残し方や伝え方が大事だと思われる。半永久的に残っていく方法はないのだろうか?それはアカシックレコードなのだろうか?人間一人の記憶など大したことはないが、今までの全ての記録を残していてそれが適切に想起される方法があるならばそれは非常に大事であろうが。仏教の釈迦は書などの記録は残さなかった。それは現世的な物理的な記録など役に立たないことを知っていたからかもしれないし、そのことを踏まえて解脱することが大事だということをわざと強調したかったからかもしれない。
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記憶も何もない状態の自分は刺激も何もない世界で過ごしたらどう思うであろう?もちろんそんなシチュエーションなどあり得るのかはわからないが。
幼い時の記憶がなくてもやっていけるように、人は幼い時の自分というのを部分的にしか思い出せず、自己同一性という点では完全には保持できていない。
全生活史健忘のように何とかやっていける・・・
自分という意識にとって、記憶はただのおまけなのか?
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欧米の人の著作を読んでいると、とにかく膨大な量をまとめ、具体的に、細かく分析している。それで法則が見いだせると思っているようで、その方法では取りづらい、けれど肝心な本質的なデータを取れていないことで真実には到達できなていないことに気づいていない。
欧米を周回遅れで追いかけている日本の動きにも同じことが言える。
本質的なデータとはなんであろう?
小さい頃から、怒られたり、理不尽な仕打ちを受けたりしなければ、
心理学でいうところの無力性絶望感を味わうことなく、
人生や他の人間に対して恐れを知らずに正面から向かっていける
根性を持って生きていけるであろう。
他人の顔色をうかがうことなく、
堂々と
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アインシュタインは視覚的に物事をイメージするタイプで何かを思案する時にはバイオリンを演奏して精神を集中させたらしいが、熱い想いを何らかの形に昇華させたいときに、歌や楽器演奏などもいいのかもしれない。しかし、とにかく、言葉があると、自分の気持ち考えを言語化できて、すこし心が落ち着くであろう。
自分自身の行動の不合理さも自覚しなければいけない
この世界や人々の様子がおかしいことに気づいたら、今度は自分自身の行動も同じように非合理的だということに気が付かなければいけない。
すべての行動一つ一つをはたして理にかなっているかどうか検討しなければいけない。
例えば、食べるという行為。下手をすると暴飲暴食過食してしまうように。
とくに、楽しみでやる行為の不合理さを認識する必要があるだろう。
ただ何となく楽しいからという理由で行うのは、まるでアヘンで堕落した人間の言い分と変わらない。