釈迦は「人生は苦である」と言っていますよね。そして輪廻転生を教えています。人は死んでも、魂は存続し、また別の肉体に宿り、再び苦しい人生を歩む。これの繰り返しである。そこでこの輪廻転生を断ち切るために悟りが必要だと教えています。 「人生が苦である」ということに反論する人もいると思いますが、私は、確かに人生は苦であると考えます。苦しみだけじゃなく、喜びや感動も人生には確かにありますが、それらは努力や苦しみがあってこその物です。喜びの為に苦しまなければならない以上、人生はやはり苦であると思います。 身体とは別に魂が存在するのかどうかは、今のところ私にはわかりませんが、あると仮定して考えますと、魂は肉体の死後、その生前の記憶を全てなくします。なくすというよりも、記憶は脳があってこそ出来るものであり、その脳がなくなれば、いくら魂があっても、記憶は脳と共に消失します。 何の記憶もない魂は、また同じ失敗を繰り返します。つまり、赤ん坊の脳に宿り、また人生を送り始めるのです。その新しい人生の中で、また同じ悩みを抱くのです。何故自分は存在するのか?何故苦しみはあるのか?と。 もし、悟りというものがあれば、死後、自分という魂が新しい肉体を探し求めることをしなくなるようなものであると思います。しかし、魂は記憶という能力がないので、いくら生前に、探し求めてはいけないと強く決意しても、死んだ途端に生前の決意を忘れ、本能のように、また新しい肉体を求めることになります。 従って、悟りとは輪廻転生する魂を輪廻転生の鎖から解き放つか、もしくは魂自体を完全に無に帰する方法を見つけることだと思われます。 もちろん、そんな方法は、私にはわかりませんし、そもそも、魂とか輪廻転生とかが存在するという証拠は何もありません。人間の意識(魂)はただ単に脳が作ったイメージに過ぎないのかもしれません。 キリスト教やその他の宗教では神の存在が仏教と異なる一番重要な点ですが、これらの宗教が神を崇拝したり、神の国(天国)に死後行けることを願うのは、死後の魂が新たな肉体を求め、また苦しみの人生を送るよりも、神のもとに引き寄せられて、もう人生を送らないで済むことを願ったものなのかもしれません。地獄とはこの世のことかもしれません。 とにかく、悟りとは、記憶を持たない魂の遍歴の旅に終止符を打つ方法であると思います。悟りを得た直後の釈迦が、もう自分はいつでも自らの意志で死ぬことが出来る(物理的な自殺ではなく、自分の魂を自ら消滅させることができる)と言ったと、確か本に書いてあったと思うんですが、悟りとは不滅であるはずの魂の消し方なのかもしれません。 釈迦や神から見れば、人間の魂が見えるんでしょうね。今、どこの誰が死んで、その肉体から出てくる魂が、近くで生まれたばかりの赤ん坊の体に入っていく様子が見えるのでしょう。全能の神ならまだしも、普通の人間である釈迦に何故それが見えたのか(あるいはわかったのか)不思議です。 釈迦は自分では直接経典を書いていないらしいですが、何故、弟子を介して歪曲された教えよりも、自ら記す明確な経典を残さなかったのかも疑問です。多分、言葉で悟りを教えることは不可能と判断したんでしょうね。あるいは、真理は自分で見つけなければ意味がないということなのでしょうかね。 ちなみに私は仏教徒でもキリスト教徒でもありません。宗教とは全く無縁の理科系の人間です。 以上、とりとめのない文章になってしまいましたが、この私の仮説に対する批判、反論、異論、助言、何でもいいですから頂けると嬉しいです。